どうやら「こまけぇ(こたぁいいから、願望実現しようぜ!)」第二章が終了したようです。確認してみると前回の記事が2月12日ということでちょうど1カ月も更新していなかったわけですが(そんなお休みしているとは思ってもなかったのでビックリ)、やる気はまだ残ってはいるものの仕事の忙しさと風邪をこじらせてしまったのもあり、記事を書く余力がないといった状態でした。まあ今も忙しさは相変わらずなのですが、あまりサイトを放置するのも気が引けるので取りあえず記事を書こうとしたところ当然すぐにはネタも思い浮かばず、コメント欄からご質問を拾って参りました。
こまけぇさん、初めてコメントさせていただきます。
こまけぇさんのおかげで、無条件で今の私のままで、叶えて良いのだと腑に落ちました。
ありがとうございます。
先日、とある方のセッションをうけて「本願の優先順位を下げるのは必須」「本願を一番上にしちゃうと、現実を見ちゃった時に凹みやすく一進一退になってしまう」とアドバイス頂いたのですが、
別に優先順位下げなくても、既に叶ってるで良いでしょうか?
それまでは、すでに叶ってるんだ♡ルンルン♪だったのですが、
優先順位を下げるアドバイスを頂いてからモヤモヤしてしまってて。(ねこちゃんさん)
>「本願の優先順位を下げるのは必須」
そもそも論、エゴちゃんは本願の優勢順位を下げるとか器用なことができるんですかね? 個人的には願望は衝動というか生理現象のようなものなので本願への渇望度を意識的にコントロールするのは難しいような気もするのですが。
その上で皆様もご存知の通りこの業界はエゴの制限や条件付けを外して行こうぜというのを主眼としておりますので、「~は必須」という言葉自体がこの業界の教えに逆行した条件(ルール)付けそのものとも言えるので、これは廃人ロードまっしぐらな危険性もあります。
このアドバイスは言うならば因果関係が大好きなエゴ目線での一種の関連付けで、つまり「本願の優先順位を下げ」て「凹みやすく一進一退」しなければ「願望は叶う」という条件付けであります。その条件を見事にクリアすれば叶うかもしれませんが、ただ逆から見れば「本願の優先順位を下げ」られず「凹みやすく一進一退になってしまう」と「願望は叶わない」という制限ともなります。だったらそんな煩わしい制限を設けるよりも「本願の優先順位を下げ」られず「凹みやすく一進一退になってしま」っても「願望は叶う」ってことにしてしまった方が精神衛生的にも楽じゃないですかね? と言うよりもそれこそがこの業界が求める在り方なわけですが。
まあセッションの文脈も理解しないまま切り取られたものだけで意見するのもあれなので、回答としましては
>「別に優先順位下げなくても、既に叶ってるで良いでしょうか?」
はい、良いと思います。
と言うことで一旦回答を差し上げたわけですが、記事の都合上もう少しねこちゃんさんにはお付き合いを頂くとして、とあるセッションでアドバイスを受け、心がぶれてしまい、その疑問をこの怪しいサイトに書き込んでしまったねこちゃんさん。それって本当にあなたですか?
それは全て思考の自動反応によって行われたものではありませんか? そこに主体性はありましたでしょうか? 振り返ってみると全てねこちゃんという人格(エゴ=個人)によって引き起こされたものではないですか? そしてその人格(記憶)に実態らしきものはありますでしょうか? クローゼットにしまってある…そんなわけないですよね。
つまり本当のあなた(思考を取り除いた意識)はとあるセッションを受けたわけでも、心がぶれたわけでも、コメント欄に書き込んだわけでもないのです。ただねこちゃんという暴走したエゴの行動を見ていた意識そのものだったのです。本来はそうして見ているだけだった意識が没入するあまり自分をねこちゃんだと思い込んでしまっていたに過ぎないのです。ウクライナのゼレンスキー大統領がトランプ大統領に「偽情報の空間に生きている」と批判していましたが、我々もまさにエゴの偽情報の空間に生きていたのです。
我々はその偽情報の空間にのめり込み、それを世界として採用してしまっています。普段の我々は思考に侵されながら主体性のないちっぽけな個人(エゴ)としての生活を送り、その在り方ががそのまま世界になっているのです。それをつぶさに観察するのです。認識の変更とか難しいことを考える必要はありません。リアルタイムでなくても風呂の中で今日一日の思考のありようと現実に対する認識を対比してみて、鏡のように思考が世界に反映されていたこと、世界は全て思考の自作自演だったことをキャッチし、我々本来の主体性を取り戻せばいいのです。