高取城訪問レポート その3です。
高取城の特徴として次の4つが挙げられています。
1.標高の高い山城であるが近世の施設がある
戦国時代以前の山城は山上の要害に築かれていましたが、近世になるにつれ小高い丘や平地の中心部に居城が移されるようになりました。
高取城のように山城のまま石垣、天守、櫓のみならず、居住用の御殿まで山頂に築かれた例はきわめて少ないと言えます。山の上では防御には適していましたが、領国統治には不向きだったためです。
高取城は幕府から特例として城の修築も藩の判断で行うことが認められていたため、幕末まで各建物の維持ができたと考えられています。
2.縄張と虎口の構成
高取城の縄張りは山城であるにもかかわらず、山上に広い敷地をもち、連郭式縄張りを採用しています。標高が高い場所に築城されている割には、天守、櫓、門等の多くが建設される余裕があり、平山城と同じような構えをもっています。また不等辺台形の隅部に三重天守、小天守、二重櫓を配し、周囲に多聞櫓を巡らしている点は、和歌山城と類似するものです。この共通性は、豊臣秀長が3か国の太守となり、和歌山城、高取城には自らの家臣を置いたからと考えられています。
3.天守と小天守が建てられている
山城に天守がある例は日本国内ではいくつかありましたが、小天守まである例はほとんどありませんでした。
そもそも山城は眺望が優れており、近世の山城には天守すらない例がありますが、高取城は三重天守以外にも一回り小さな三重小天守までがありました。
4.櫓の数棟が多く、独特の名称が多い
高取城は櫓の数が多くありました。三重櫓は、天守、小天守を含めると6棟あって、二重櫓が7棟あり、白漆喰総塗籠で姫路城に似た外観であったと考えられています。また、鐙櫓、具足櫓、十方矢倉、火之見櫓、客人櫓、小姓櫓など、独特の櫓名があるのも高取城の特徴です。
松の門からさらに城下町へと降りていきます。
下りといってもかなり傾斜がきついので膝がガクガクします。
国見櫓跡
松ノ門から少し下り、北西に突き出た場所に国見櫓跡がありました。
ここからは文字通り大和国、現在の奈良盆地を一望する事ができます。
天気がもっとよければ大阪市内のあべのハルカスまで見えるとか。
矢場門跡
二の門跡
ここにも門はありませんが、二の門は城下にある子嶋寺の山門として移築され、ほぼ当時の形のまま現存しています。
水堀
二の門の外には山城では珍しい水堀があります。
堀の両端を堤でせき止めています。
猿石
さらに少し降りたところに高取城のシンボルともいうべき猿石があります。
もともと飛鳥時代7世紀ごろの製作と考えられており、高取城築城の際、石垣に転用するために明日香から運ばれたといわれています。
この場所は城下町に下る大手筋と明日香村へ下る岡口門の分岐点にあり、郭内と城内の境目を示す「結界石」とした説もあるそうです。
黒門跡
高取城第一の門にあたります。
ここに「史跡高取城址」の石碑が建っています。
この先はようやく舗装道路になります。
本多氏時代は藩主および家臣団は山上に居住していましたが、泰平の世になると、植村氏は着任後まもなく山麓に屋敷を構え、以後家臣団も順次山を下り、山上には城番藩士が交代で勤務する形態となりました。
植村家長屋門
独特のデザインの海鼠壁が特徴的な建物です。
文政9(1826)年に高取藩の城内家老の屋敷として建てられました。
現在は旧藩主植村家の子孫の方が居住しているとのことです。
田塩家武家屋敷
これも江戸時代から残る長屋門です。「与力窓」と呼ばれる格子付きの監視窓が特徴的です。
松ノ門
これがさきほど郭内で見た松ノ門跡に建っていた門です。
明治25(1892)年に旧土佐小学校の校門として移築されました。
昭和になって火災により、一部損傷しましたが、現在城下の児童公園の表門として復元されています。もともとは屋根があったそうです。
土佐街道の街並
ようやくスタート地点の夢創館まで戻ってきました。
道幅も狭く、当時の面影をよく残している高取の旧城下町です。
このような街並みが全長約2キロにわたって続いています。
日本最強の城
城下町のあちらこちらに幟が立っています。
最近はほぼレギュラー番組となりましたが、2018年6月に放送されたNHK「あなたも絶対行きたくなる!日本最強の城スペシャル」では初代日本最強の城に認定されました。
今回初訪問でしたが、まさに「最強の城!」の名前にふさわしい素晴らしい山城だと私も実感できました。
次回はしっかり体力をつけて、麓から登ろうと思います。