大和郡山城は天正8年(1580)、筒井順慶が織田信長より大和一国20万石を与えられ築城したのが始まりです。
筒井氏のあと、天正13年(1285)に豊臣秀吉の弟、秀長が、大和・紀伊・和泉100万石の太守として入城し、城の大拡張工事が行われました。
秀長は同時に城下町を整備し、奈良や堺の商人や職人を郡山の城下町に呼び寄せ、「箱本十三町」をつくりました。
これは税を免除するかわりに、当番制で治安・消火・伝馬などの自治活動を行う制度です。
業種で住み分けたため、現在でも大和郡山市には魚町・鍛冶町・紺屋町・綿町・塩町・茶町・豆腐町などの町名が残されています。
豊臣秀長の死後、養子秀保があとを継ぎますが、文禄4年(1596)わずか17歳で死去し、秀長の家系は断絶します。
代わって、豊臣五奉行の一人増田長盛が近江水口から入封。長盛は、城の修築を続け、翌慶長2(1597)年に外堀(総堀)を普請して、内堀、中堀、外堀という三重の堀に囲まれた惣構を持つ現在の大和郡山城の縄張りが完成しました。
慶長5年(1600)に関ケ原の戦いで西軍に与したため、長盛は改易となり、大和郡山城も一時廃城となりますが、大坂、京都に近い要衝であったことから元和元年(1615)の大坂夏の陣後には再建。
水野・松平・本多といった譜代大名が城主を務め、享保9(1724)年に甲府城主柳沢吉里が15万石で入封し、以後、柳沢氏が明治維新まで続きます。
明治の廃城令により建物はすべて破却されましたが、昭和58年(1983)から昭和62年(1987)にかけて、追手門、追手向櫓、東隅櫓、多門櫓などが次々と復元されました。
また、平成25年(2013)から7年がかりで天守台をはじめとした大規模な石垣の修復工事が行われ、令和2年(2020)から天守台展望施設が公開されています。
大和郡山城を訪れるのはこれが2回目ですが、前回は肝心の天守台が工事中だったため、中途半端なレポートに終わってしまいました。
今回はそのリベンジです。
大和郡山城は、秋篠川と富雄川に挟まれ南北に伸びる西の京丘陵の先端部を利用して築かれています。
本丸(天守曲輪)を中心に左回りに毘沙門曲輪、法印曲輪、緑曲輪、松倉曲輪、二の丸、陣甫曲輪などが配置され、さらに東に三の丸、西に麒麟曲輪が配された輪郭式の縄張りです。
本丸の西側、緑曲輪跡に新しく駐車場ができていました。
ここには五十間馬場と呼ばれる馬場があったようです。
今回はここからスタートします。
駐車場の脇に真新しいガイダンス施設がありました。
中に郡山城の歴史などの紹介とジオラマ模型などが展示されています。
本丸と天守台を西側から望むことができます。
中仕切門跡
本丸の南側を道路が東西に走っていますが、当時は文字通りこの道路を遮断するような位置に建っていました。
郡山高校正門
旧二の丸は高校の敷地となっています。現在正門のある位置が表門跡になります。
柳沢神社鳥居
本丸跡は柳沢神社の境内となっています。
本丸の南側は現在土橋となっていますが、当時は木橋だったとみられています。
この先に竹林門があったことから、竹林橋と呼ばれていました。
ARで再現された竹林橋と竹林門
左右の石垣に跨る立派な櫓門だったようです。
柳沢神社拝殿
本丸内に入ると拝殿がありました。
廃城後の明治13年(1880)に旧郡山藩士によって創建されました。
御祭神は五代将軍徳川綱吉の側用人として権力を振るった柳沢吉保です。吉保の子吉里が甲府から大和へ移封され、幕末まで柳沢氏が郡山城主を務めました。
拝殿の裏には改修なった天守台があります。
AR再現された天守
南側に小天守が附属した複合式天守だったようです。
転用石
奈良という土地柄、周辺には寺院が多く、郡山城の石垣には墓石や石塔など数多くの転用石が用いられています。
中には平城京羅城門の礎石も石垣に転用されているとか。
逆さ地蔵
天守台北側の石垣には有名な「逆さ地蔵」があります。
写真ではわかりにくいですが、菩薩像が逆さに積み込まれています。
天守台
平成25年(2013)から天守台の積み直し工事が行われ、「天守台展望施設」として整備されました。
天守台からの眺望
北東には若草山や東大寺、平城京大極殿、薬師寺など、奈良盆地を一望することができます。
強化ガラス板の下には天守の礎石などが見られるようになっています。
次回は本丸を出て、復元された櫓や門をご紹介します。