旅する骨董屋 喜八

チベット圏を中心にアンティークや古民芸・装飾品を旅をしながら売買する喜八の、世界の様々な物や人その文化を巡る旅のブログ。

不確かな実在と、感謝

2024年04月08日 | 日記



『そこに在る』

僕が物に対して、よく使う言葉です。
度々登場させてきた言葉です。

物の佇まいや、
物と人を取り巻く物語など

それらを表現したいので使っております。

しかし、同時に、

「実在はしていない」

とも感じております。

実在はしていないが、
僕が認識することによって、
「在る」と
位置付けているのを表現したい側面もあります。

これは、
量子力学でいうところの、
「観測(認識)されなければ、それは存在しない事と同じ意味」に由来し、
逆説的に言うと、
「見れば(見た時に)それは存在する」
という事を言いたいのです。

大丈夫かな、あってるかしら?
まぁ、そんな感じ。

量子力学は難しすぎるので、
僕はうまく表現できない。
そもそも分からない。

マジで難しい。
難しすぎるっす。



僕が知る限り、
デンマークのニールス・ボーアが唱えた理論は、
アインシュタインの理論とは異なり、
多くの論争が長年あったそうだ。

んー、
アインシュタインの説も、大いに共感できる。
(詳しくは理解できんが、何となく)

一方で、
僕自身が感じている事は、
ボーアの説に近い。
または、
「共感する・共感したい一面がある」印象を持っている。
(自身の経験が、理論を理解する壁になる場合もあるし、真理は分からんが)

-----

『僕を見つけて頂き、ありがとうございます』

初めてのお客様へ品物を送る時など、
僕が時には、
お手紙に添える一文でもある。

これは、承認欲求とは異なる、と僕は思っていて、

「誰かに認識してくれたおかげで、僕はそこに存在できる」

に近い感情を持っておりました。

存在欲求になるのかな?
知らんけど。

何となーく、
「あー、この感覚なのねー」と、
感じる時もあるのです。

そして、
僕が扱う品物たち

量子力学を自分的に解釈すると、
(例えば)僕の品物を、
僕や、僕のお客様達、が認識する(見る)事で、
その品物は「存在し得る」
となるのかしら。
(実在は別にして)

量子力学上で言えば、
もし見なければ、それは存在していない、のと同義なので、
僕や、あなたが、品物を見つけなければ、
品物は、僕らにとって存在しないのです。

これは、深い。

もっと大袈裟に言うと、
あなたの世界は、
あなたにとって、その世界が全てであり、
そこに僕が存在するか否かは、
あなたが僕を認識しなければ(見つけなければ)、
僕は存在しないのです。
それは、
世界に僕が存在しないと同義なのです。

では、僕は実在するのでしょうか。

逆の事も言え、
果たして、
あなたは実在すると言えるのでしょうか。

そう

実在っつーのは、
不確かなものです。

不確かなものを、世の中は信じているのです。

不思議ですな。

僕の超絶極薄(間違いも含め)の知識での物理学で説明すると、
表現が難しいのですが、
僕の感覚では、
「存在する事」に、
いや、
「あなたや、僕や、対象となるモノが、世界に存在する為に」
この仕事の意義や、
僕が生きている意味、
があるのかもしれない、と思う時もあるのです。

例え、
全てが
実在しようと、
実在しなかろうと、
僕らは
「存在を求めている」とは思えるのです。

難しくなってきちゃったなー

伝わらなかったり、
間違っていたら、すみませぬ。

とりあえず、
世に無数にあるモノゴトから、
僕を見つけて頂き、
また、
僕を見て頂き、
僕の品物を見つけて頂き、
本当にありがとうございまする。


それが言いたかっただけでした。



コメント    この記事についてブログを書く
« チベットの十字刺繍ティクマ... | トップ | 日々 回顧録 »

コメントを投稿