今回も前回と同じ年、永祚2年(990)の出来事でした
まひろが最近大人っぽく、色っぽくなったなあと感じた回でした
着ている衣服が、若いころは比較的ペラペラに見えた(ごめんなさい)のに対し、
最近は少ししっかりした生地の服を着ているように見えました
若い時期のファストファッションから、それなりのファッションに変えたみたいな感じでしょうか
Before
↓若いころ(逢引きも穴掘りもみんなこの衣装だった)
After
↓少しおしゃれ度が上がった気がする
それから、実資は新しい奥さん婉子さんにも「日記を書け」と言われ、大変ですなあ…とも思いました
ラブラブみたいだけど、
婉子さんって、
道長の奥さんの明子の姪で、
父は為平親王(村上天皇の子、円融、冷泉天皇の同母兄弟)、
母が源高明の娘で明子、俊賢(四納言)ときょうだい
そして、なによりもびっくりさせられるのは
花山天皇の奥さんだった人なのです!
↓こんな感じ
平安時代の貴族って、世間が狭すぎ…
…てな感じで、今回はどんな話だったのか、サラッとおさらいしながら、今後の展開についても考えたいと思います
今回かわいそうな感じがした道兼にも注目しようかな…
兼家没す
今回のタイトルは、「星落ちてなお」でした
「星」は兼家(「スターにしきの」ならぬ「スター兼家」←例えが古すぎて、伝わらない)
元気だったころの兼家↓
前回も書いたのですが、星が落ちるまでの時系列を、またまとめてみます
永祚2年(990)
正月25日 一条天皇元服まで
ドラマの第一回目が始まった貞元2年(977)以前、兼家は兄兼通との争いのなかで不遇の時代を過ごしていました
第一回の時に少し言及していますので、最後にその記事を貼っておきますね
5月8日
兼家、落飾入道
兼家は出家する旨を子どもたちに伝え、頭をまるめました
兼家「出家いたす」
兼家は出家する自分の代わりに、長男道隆に関白を継がせることを宣言しました
兼家「道隆 お前が継げ」
頭を丸めた兼家
安倍晴明「今宵 星は落ちる」
この表情
そのまま、亡くなっていました
これが、ドラマの内容のとおり、
明子の呪詛のためなのか、
明子はその見返りとして、お腹の赤ちゃんを流産してしまうのか、
史実がどうなのか、ちょっとわかりませんでした
道兼、「七日関白」への道
兼家没後、道兼はすっかり、ぐれてしまったのか
兼家の服喪の期間にもかかわらず、乱痴気騒ぎをしていたようです
道兼 乱痴気騒ぎ(笑)
兼家没後の道兼の様子は、
『大鏡』第四巻三三「道兼」にも記録されています
(『大鏡』は道長を持ち上げるために、その対比として器の小さい道兼像を描いていると、注釈が加えられています)
「道兼、人間性において芳しいものがなかった
この道兼公は、父君の大臣[兼家公]のご服喪中には、土殿などにもお籠りもなさらず、暑さを口実にして、お部屋の御簾をすっかり巻き上げ、念仏・読経もなさらず、それどころか、親しい人を呼び集め、『後撰集』や『古今集』をひろげて、即興の冗談を飛ばして遊び戯れ、すこしも悲嘆になりませんでした。そのわけは、「花山院を、この自分がおだましして、ご退位させ申し上げたのである。だから父が逝去に際して、関白の職は自分に、御譲りになるのが当然なのに、兄の道隆公に譲られたのは心外だ」というお怨みからなのでした。全く世間に通用しない非常識なことですなあ。そのほか、いろいろとよくない噂が世間に伝わったことでした。これに反して、傅殿[道綱の君]と、現在の入道殿[道長公]のお二方は、父君の逝去に、きちんと法式どおりに、追善供養を営み申し上げなされたとうかがいました。」
こんな調子で、道兼はすっかりダメになってしまったのかというと、そうでもないようです
ここから、史料を参考にこの後の道兼について辿ってみますね
道兼は、
正暦2年(991)9月7日
一条天皇によって、内大臣に任命されました(よかったじゃん)
その時の記事↓
藤原行成『権記』正暦2年(991)9月7日条
「小二位行権大納言藤原道兼朝臣は、朕の御舅である。朝恩を蒙るべき人なのであるから、特に内大臣の官に任じられる。」
(見づらいですが、↓ページの変わり目あたりに該当するところがあります)
正暦4年(993)3月5日
詮子が道兼の粟田山荘に行啓したとき、道隆も同座しています(『小右記』)
詮子とは仲が良いようです
・「天下の疫癘(えきれい)」大流行
先週の記事にも少し書きましたが、このころ疫病が大流行していました
『日本紀略』正暦5年(995)には、
「正月より十二月に至るまで、天下の疫癘、最も盛んなり」と書かれるほどの大流行だったようで、
さまざまな流言飛語も飛び交ったようです(コロナの時代の陰謀論みたいなもんでしょうね…)
そんな中、疫病流行に対する道隆の政策は、
臨時の仁王会・奉幣・読経・大赦などを行うことと、
人事でした
人事は、
正暦4年(994)8月28日、弟道兼を右大臣、息子伊周を内大臣にすることなどです
このような道隆の政策について、倉本一宏さんは、こう述べておられます
「兼家の強引な「引き」によって何の苦労もなく政権の座に就いた道隆にとっては、自分の子息を昇進させて政権後継者の資格を付与することくらいしか、国難に対処する方策はなかったのであろう。…中関白家をますます孤立させる結果となった。」
(倉本一宏『一条天皇』46頁)
↓賢そうに見える道隆だが、実際は九条流2世のボンボンにすぎなかった!?
そんなある日、道隆自身が重病になりました
こんなに疫病が大流行するなか、道隆の病名は、なんと
「大酒による糖尿病(成人病)」らしいですよ(なんてこったい!)
※服部敏良『王朝貴族の病状診断』によれば、道隆は994年「冬ごろから盛んに水を飲むようになり、ひどく痩せ、ついに長徳元年(995)になっても水を飲むことはかわらず、四月十日に四十三歳の生涯をとじた」とあります
道隆の病気を「疱瘡」とする意見もあるようですが(なにしろ世間では流行っていたんだから)、この本には糖尿病と推定してよいと書かれています
ちなみに、我らが(?)道長も、飲水病(糖尿病)+眼病(白内障)+胸病だったようですよ…病気のデパートや~
この時代、世間では疫病が流行したというのに…
話を戻して、道隆が糖尿病になった時、
呪詛の疑いをかけられたのが道兼だったそうです(やっぱ嫌われ役なんだな)
道隆は息子の、イケメン秀才伊周を自分の後継にしたかったものの、そんなことは許されないうちに
長徳元年(995)4月10日 死去(合掌)
約2週間後の
4月27日
道兼が晴れて関白となりました
バンザイしたのも束の間、
今度は道兼が病気になってしまいました
なんということでしょう!
せっかく、関白になれたのに…ついていない人生でしたね(摂関家に生まれただけで、十分おつりがくるとは思いますけどね)
そして、間もなく
道兼、5月8日 死去
あっという間に亡くなってしまい、関白の仕事などできなかったでしょうね…
この道兼の超短期の関白を称して
「七日関白」
と呼ぶのだそうです
(「三日天下」よりはマシかもしれない)
↓そんな顔するからいけないんだよ…
さて道兼の七日関白のあと、いったい誰が権力を持つんでしょうね?
楽しみですね
↓この人?(イケメン秀才伊周さま)
それとも
↓この人?(がんばれ、道長!)
ネコの産養(うぶやしない)
そういえば、前々回、一気に4年の月日が経ってしまってから、
倫子ちゃんの家ネコ、小麻呂ちゃんの姿が見えませんね…
どうしたのでしょう?
小麻呂ちゃん、この4年の間に一足先に極楽往生したのかもしれませんね
小麻呂、どこ行った?
ところで、実資の(歴代の奥さんが口をそろえて書きなさいと助言した)日記『小右記』長保元年(999)9月19日条には、
ネコの「産養(うぶやしない)」の記事があります
その内容は…
一条天皇の内裏で飼われていたネコが子猫を生んだため、詮子と道長隣席で「産養」が挙行されました
子猫に乳母を賜ったようで、実資は「奇恠(奇怪)のこと、天下持ってめくばせす。もしこれ微あるべきか、未だ禽獣に人の礼を用いるを聞かず、ああ」とフンガイしています
つまり、ただの子猫が生まれただけなのに、乳母をつけたり、詮子と道長が大真面目に産養いをしていることについて、
実資は「ばかばかしい!」とフンガイしているわけです
ドラマの実資は、自分自身がネコ型ロボット「どらえもん」みたいで、発言権あるかどうか微妙な気がするんですけどね
↓その記事
『小右記』長保元年(999)9月19日
この記事の書かれた999年より前に、
ドラマでは、既に倫子ちゃんがネコをネコかわいがりして人間扱いしていたかもしれませんよね
↓ドラマ以前の、兼家と兼通の関係について書いています