永祚2年(990)正月
今回ようやく4年の月日が流れました
永観、寛和年間の長かったこと…
初めにしっかり人物のキャラ設定をする狙いがあったんでしょうか…
「藤原氏多すぎ」モンダイと、「女子の名、訓読み」モンダイ
キャラ設定といえば、先日、鎌倉彫教室の友人がこんなことを言っていました
それは、彼女の旦那様が「光る君へ」の「藤原氏多すぎ」モンダイに苦しみ、
彼女に毎回「この人は誰」としつこく聞いてくるという話です
彼女は、「私に聞くな」とそのたびに答えるそうです
この話を聞いて、
…やっぱり「藤原氏多すぎ」なんだなーと思いました
ドラマに出てくる多くの人物が「藤原氏」なので、話がごちゃごちゃする
いかにも、あるあるだよね
日本中のいろいろなところで、
「この人は誰」
「私に聞くな」
という会話が展開されているかもしれませんよね…
だがしかし、モンダイはそれだけではないとおもうのです
「藤原氏多すぎ」からくるこのごちゃごちゃを、
さらにごちゃごちゃさせるモンダイが、もう一つあると思うのです
それは、「女子の名、訓読み」モンダイです
たいていの本では、この時代の女子の名前は「音読み」されています
当時実際に、音読みだったのか訓読みだったのかわかりませんが、
ドラマでは「訓読み」なんですよね
これが、ごちゃごちゃに拍車をかけていると思うのです
…例えば、「詮子」「明子」「彰子」は、(多くの本がしているように)素直に音読みすれば「せんし」「めいし」「しょうし」と容易に区別がつきます
詮子(せんし、あきこ)
明子(めいし、あきこ)
彰子(しょうし、あきこ)
ところが、このドラマでは訓読みにしちゃうから、全員「あきこ」になってしまうんですよ
…いやいや、「明子は『源』姓です」なんて言っても、だめですよ!
だって、ほかの(肝心な)二人は「藤原詮子」「藤原彰子」で、訓読みしたらどちらも「ふじわらのあきこ」なんですよ!
…しかも、「詮子」「明子」の2人は義理のきょうだいです
それから「彰子」は、「詮子」「明子」どちらからみても姪にあたるんです
え?
…「一体、何を書いているのか?ごちゃごちゃしてわから~ん!」ですって
その、ごちゃごちゃしてわからんっていうことこそが、訓読みの問題点なんじゃないでしょうか
それから、訓読みで、一番抵抗感があるのが、「定子」
かわいい定子
すんなり「ていし」と読めば、
「ああ、古典で習った、清少納言が仕えた中宮『ていし』ね」ってすぐにわかるのに、
「さだこ」と読むから、
井戸から出てくる、あのこわ~い「貞子」が毎回頭をよぎってしまうのです
これ、ストレスです
これ、私だけですかね??
「リング」で井戸から出てくる貞子(さだこ)
こわいこわいこわいこわい
また、文句から始まってしまったのですが(毎回ごめんなさい)
今回は、ドラマの内容を踏まえて、この先に起こるであろうことや、
これまで全く描かれていなかったけど、この時代に結構重要だと思われる「天台宗」のことをちょっと書こうかなと思います
(ドラマ自体を深読みする「意味」がわからなくなってしまっているし…)
一条天皇の元服と定子入内
一条天皇が元服したのは永祚2年(正暦元年、990年)でしたが、
一条天皇が即位した寛和2年(986)から元服までの4年間の流れを辿ると、次のようになります
寛和2年(986)に、一条天皇 即位(前々回の放送)
わずか7歳でした(小学校低学年の年齢)
前々回、即位した一条天皇(7才)
翌年、永祚元年(987)、道長は倫子と結婚
永延2年(988)、道長権中納言になる
永祚元年(989)、兼家太政大臣、道隆内大臣、かたや頼忠(小野宮流)は没する
公任が後ろ盾をなくしたのは、父頼忠が没したからです
↓父頼忠が亡くなり後ろ盾がなくなったことで、道兼にゆすられる公任様(ピンチでもイケメン)
そして、
永祚2年(正暦元年、990)正月5日、一条天皇が元服しました
↓すでにイケメンの予感のする一条天皇
この時、一条天皇は11歳でした(小学校高学年の年齢)
元服の加冠は太政大臣の役で、前年に太政大臣になった兼家がつとめました
同じ永祚2年正月25日(元服から20日後)には、兼家が孫の定子(14歳、中学生の年齢)を一条天皇に入内させ女御としました
(定子を入内させたのは、父の道隆という説もあるようです←どっちでもいいわ)
いうまでもなく、定子は中関白家の出身です
定子はもしかして、このドラマで一番かわいいかも!
そういえば、この2人、幼い頃から一緒に遊んでましたね…
政略結婚なんだろうけど、本人たちから見れば、幼馴染の遊びの延長の結婚みたいな感じなのかもしれないですね
↓幼い二人(第三回)
定子と、一条天皇の結婚から4か月後、
5月8日には、兼家は病のため摂政太政大臣を辞し関白となり、すぐに道隆に関白を譲りました
今回、兼家がボケボケだったのは、この伏線だったんでしょうね~
↓ボケる兼家
ほんとにボケてるみたいで、見ていてこわかったわ
ほんとに演技がお上手
中関白家繁栄への道と疫病の流行
兼家が出家したのと入れ替わるように、
5月8日、道隆は内大臣から関白へ昇進します
出世する道隆↓
なんだか、偉そうな感じがよく出ている
哀しいことに、弟ミチカネは関白になれませんでした…
不遇なミチカネ↓
5月26日、道隆は摂政になります
ものすごいスピード出世、えこひいき人事だ
そして
7月2日、兼家が没します
62歳だったそうです
(兼家を演じた段田安則さん、4月から朝のBSの朝ドラ再放送「オードリー」でお見掛けしています…「オードリー」は2000年代初めのころのドラマで、「光る君へ」と同じ大石静さんの脚本のようです…段田さんが若い若い!)
・四后並立
道隆はこの年(990年)10月、女御定子を中宮にしました
定子は15歳(まだ中学生の年齢)
この時、
皇后…頼忠娘遵子(円融后)
皇太后…詮子
太皇太后…昌子内親王(冷泉后)
と、三后が埋まっていたため、遵子の皇后号はそのままにして、
中宮職を皇后宮職と改め、
定子中宮に仕える役所を中宮職とし、
四后が並立することになりました
この無理矢理な状態を、実資の『小右記』では「往古聞かざる事なり」と批判しています
この後、正暦2年(991)に円融上皇が崩御(って、まだ生きていたんかい?)
道隆は、姉詮子が出家済みなのにもかかわらず皇太后宮職をとどめ、「東三条院」として女院の制をつくりました
摂政道隆は、一条天皇の妻定子(道隆の娘)と一条天皇の母詮子(道隆の姉)の権威を制度的に高め、権力基盤を固めたわけです(大津透『藤原道長』)
こののち、
正暦4年(993)には、一条天皇が14歳となった(もう中学生の年齢)ことで、
道隆は再び関白となり、中関白家は絶頂期を迎えます
(が、道隆は995年には没するんだよなあ…おごれるもの久しからずなんだなあ)
道隆が関白となる前年、正暦3年(992)には藤原道長と倫子ちゃんの間に、藤原頼通が誕生します
・疫病流行
いいことばかりではなく、疫病も大流行しています
奈良時代から、もしくは記録のないそれ以前からかもしれませんが、
疫病は常に流行していたんでしょう
病気平癒を願って、寺を建てたり、仏像を作ったりという話は枚挙にいとまがありませんよね
正暦4年(993)の夏には「咳病」が流行り、
7.8月には「疱瘡」も流行りました
そのため「仁王会」が開催されましたが、(当たり前だが)効果なし
正暦4~5年(994~995)年には、官人500人弱のうち、70人近くが亡くなるという事態になったようです(そのため、「長徳」に改元されました)
ちなみに、伊周が道長と「競べ弓」をするのはこの年です
当時の天台宗と藤原摂関家
平安時代の仏教といえば、学校の社会とか歴史の授業で、最澄の天台宗、空海の真言宗と習いましたよね
これを、
「てんさい」=てんだいしゅう、さいちょう
「しんくう」=しんごんしゅう、くうかい
と覚える方法を、地元の中学生から教わりました
(その覚え方自体が「てんさい」だと思った)
ドラマでは、仏教関係の話は今のところまったく無視されていますが、無視したままでいいんかい?と思ってます
そこで、天台宗のなかでも、比叡山延暦寺を中心とした円仁派(=山門派)について、少し書いてみたいと思います
山門派は、藤原摂関家と特に深い関係にあったからです
ちなみに、山門派というのは円仁から引き継がれる天台宗の宗派で、比叡山延暦寺を拠点としています
これに対して、円仁派と大喧嘩して比叡山を降り、現在の三井寺(園城寺)に拠点を置いたのが寺門派です
山門派と寺門派は、ものすごく仲が悪かったようですよ
天台教団の世俗化
天台宗は真言宗とならんで、密教といわれますが
この時代の比叡山では「天台浄土教」が盛んでした
なので、ここでの仏教の話は浄土教の話です
比叡山を拠点とする山門派は、
Ⓐ栄誉や権勢を重んじる派(良源・尋禅・院源)と
Ⓑそれに反対する派(増賀・源信)
に分かれていました
このうち、Ⓐ栄誉や権勢を重んずる派である良源(元三大師)は、比叡山の中興を行いました
良源の弟子のひとりに尋禅という人がいました
この人はなんと兼家の弟です
貴族出身の尋禅は優遇され、比叡山の中で異例の出世をします(なんだか癒着の匂いがしますね)
寛和元年(985)、良源が没し、遺言に従い尋禅が天台座主(19代)になりました
兄兼家は、比叡山を経済的にバックアップし、横川に薬師堂・恵心院を建立しました
藤原摂関家のバックアップを得て比叡山は中興しましたが、同時に弊害も起きました
それは、天台教団の貴族化、世俗化です(いつの世も「ずぶずぶの関係」はよくないということだわね)
勧学会、空也、源信『往生要集』、二十五三昧会
・勧学会(かんがくえ)
これより少し遡る康保元年(964)、慶滋保胤(貴族・文人)、高階積善(高階貴子の兄弟、高階貴子は藤原道隆の奥さん)、源俊賢(寛弘の四納言、源明子の兄弟、ドラマにも出てきた)、大江匡衡(文人官僚、赤染衛門の旦那さん)、源為憲(貴族、文人)らによって結成されたのが「勧学会」です
勧学会は、天台の学僧20名、大学文章道の学生20名から構成され、貴族への批判精神を持つ文人集団でした
毎年、3月15日と9月15日(満月の日)に西坂本月林寺や、比叡山西麓親林寺などを会場とし、
朝には法華経の講読、夕方には阿弥陀を念じ、夜は詩を詠むという活動を行っていました
しかし、所詮は文人集団で、その活動は文人趣味の域を出ず、ここで念仏は天台本来の念仏から甘美な「山の念仏」へと変質したといわれています
・空也
また、この時代には、空也が京都の町中で活動しています
(空也は六波羅蜜寺の空也像で有名です)
↓六波羅蜜寺の空也像
(拾い画です)
963年、空也は鴨川の河原で盛大な経供養を行いましたが、天禄3年(972)には没しています
・源信『往生要集』
空也念仏の終焉や勧学会の文人趣味的な様子を見て、憂慮したのが源信です
↓恵信僧都源信
源信は、山門派の中でも、Ⓑ(栄誉や権勢を重んずる派閥に)反対する派閥の人でした
奈良県当麻の出身で、比叡山で修行し、出世したときに下賜された褒美を故郷の母親に送ったところ、母に諫められ、それ以来名利の道を捨て恵心院(兼家建立)で念仏三昧の道を進んだ人です(恵心院は現在も比叡山横川にあります。ただし、現在の建物は当時のものではありませんが)
彼は、山の念仏に変質してしまった念仏を、「本来の」念仏(=観想念仏)に戻すため、寛和元年(985)『往生要集』を著しました
↓『往生要集』
『往生要集』では前半で地獄の恐ろしさを具体的に示して脅かして、
後半では、極楽に往生するための具体的な方法を丁寧に説明しました(ショック療法)
その方法とは、天台本来の観想による念仏です
観想とは、阿弥陀仏を心に描く念仏方法です
・「勧学会」の解散と「二十五三昧会」の結成
源信の『往生要集』が世に出ると、「浄土教家・念仏者に空前の反響」を呼んだといいます(速水侑『源信』)
それまでの文人趣味的な念仏観や、世俗化した天台宗に対し、
源信が、改めて正統派の天台教学に裏付けられた念仏の方法を説いたことで人々は大喜びしたのです
そして、以前の文人趣味的な「勧学会」は解散し、
改めて、『往生要集』を指南書として、
寛和2年(986)慶滋保胤らが新たに「(横川首楞厳院)二十五三昧会」を結成しました
二十五三昧会では、『往生要集』を指南書として、
日ごろから観想念仏を行い、仲間の臨終時には阿弥陀仏と臨終する人を五色の糸でつなげて極楽往生の手助けをしたりしました
当時の僧侶だけでなく、天皇や貴族も深く浄土教に帰依し、さまざまな行事を行っていたはずなのですが、
まだドラマでは1ミリも出てこないんだよなあ…ブツブツ
それから、F4メンバーである藤原行成や、摂関家、一条天皇からの注文にこたえて仏師康尚が仏像制作を始めるたりするのですが、今後、そんな場面も出てきたらいいなあ…『鎌倉殿』では運慶が登場していたし…
…とここまで書いて、今回、まひろと道長のことを書いていないことに気づきました
もしかして、ドラマからこの二人が脱落するのを防ぐために、大石さんは二人の恋愛譚を押し込んだのでしょうか?
…と、最後に「深読み」してみたりします