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「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 71

2024年04月15日 08時32分05秒 | 甲越軍記
 その後、源五郎は信州のゆかりある寺院に住んで、雑役をして暮らしていたが、(このまま仏門修業をして僧侶となれば、父の菩提を弔いながら一生を過ごすのも孝道である)と考えてみたが
「一子出家すれば、九族天に生ず」(子が一人僧となれば、その一族は皆、極楽に生まれ変わることができる)ということであるから出家するのも良いが
「待てよ!」天地には自然の陰陽在り、東あれば西、北あれば南、父あれば子、君あれば臣、夫あれば婦あり、これみな一対ずつであり一つとして欠けたるものはない
人においては男女を一対として、天地がある限り人が産まれ、「三歳具足せり」(出家者が守るべき戒律)とも言う
出家の道は、「男女の交合を第一の煩悩として、自分の心をまずは清らかにして仏の心に至る修業に励むべし」などと言うが、それは凡夫の世から見れば陰陽雌雄の一対の道から外れた一本立ちの欠けた道であろう
世界の人の全てが仏門に入り、一人残らず仏法を信じたならば七十年を待たずして人類は消滅する道理である
天下に人が無くなれば、そこは畜生道に墜いるだろう、それならばあえて尊信の道を選ばずと思い、ついには寺を去った。

道中、つらつらと思いを巡らし「人として尊きは天子なり、天子はその種あり
諸侯は、その家系あり、庶人は賤しく、庶人の内には士農工商の四等があり、士は、その第一にあり、ゆえに我は士となってこの名を轟かせる働きをして、わが家名を再興させるのが父への孝行となるであろう」
天下を見渡せば、武田晴信公は当世若手の名将といい、わが本国の君である
さればこの大将に仕えて身を起こすべしと、十六歳の三月に甲府に参り
人を頼んで、まずはお小人から始めようと動き始めた。
しかしこの地には縁もゆかりも頼る人もなく、むなしく甲府の町をさまよい歩くだけであった
しかし己の才覚を信じ、立身出世を夢見ていたから何かの機会もあろうかと、したためた一通の願書はいつも懐に入れて歩いていた。

そんな四月のある日、武田晴信公は雲雀(ひばり)を獲ろうと自ら小鷹を伴って小人数にて外出した
その日の夕暮れ時、帰還する晴信の前に源五郎が道端にて平伏して、これを待っていた、そして晴信が通りかかると一歩前に進み出て、願書を高くさし出した
晴信は不審に思い「あれは訴人のようだが、訴状をここに持ってまいれ」と原美濃守に命じた
馬上にて、その訴状らしきものを読むと、それは仕官を求める願書であった
晴信はこれを読んで、ご機嫌斜めからず喜びの表情となって
「あれなる者は、父は豪富の民であったが遺産の田畑を捨て去り、家産を争わざるとは公平直実の者と見た、人物に見どころあるから召し抱えよ
農民であるから武芸のことなど知らぬであろうが障りはない、戦国の今であれば武芸は知らずとも事足りる、剣術は平和な世になって切るべきものが無くなり、その切り様の形を覚えるだけのことで何の益もない
戦場へ出て初めから切り覚えれば、これぞ真の修練である、予の近習として召し抱える」
源五郎は思いがけぬ光栄に、ただただ身が打ち震えることも忘れて歓び、忠勤して御恩に報いる決意をしたのであった。

これを見た士の中に様々な批評が起った
ある者は「このような事は武田家始まって以来の事である、たった今、出会った百姓を近習に取りたてるなど聞いたことがない」と
後にこれを聞いた晴信は「汝ら源五郎を傍に使うことをとやかく言っているそうだが、しかれども後々に驚くことが起るであろう」
この時、天文十一年、晴信は二十二歳、源五郎は十六歳の時のことである。
その後、しばらく源五郎の出番はなく過ごしたので、例の士たちは「やはり何も起こらぬではないか」など誹謗中傷を繰り返していたが、果たして今度の合戦での源五郎の目覚ましい活躍を目の前で見て、あらためて晴信の先見の明に舌を巻いたのであった。

甲府に戻った晴信は早速に、新たなる仕置きを行い
まず佐久、軽井沢から上州に抜ける要所の内山城には飫富兵部少輔を代官として置き、小諸には小山田備中守、岩尾城には村上勢の抑えとして真田弾正忠を置かれる。 此度の小山田との戦の勝利は山本勘助の奉公始めの勲功なり。



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