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「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 72

2024年04月16日 09時40分50秒 | 甲越軍記
 月日は早く、すでに天文十四年となった
正月の年始賀儀において、左右に居並ぶ重臣らを前に晴信は
「予は既に信州四家の輩と戦を続けてきたが、一度として敗れることなく来たのは、これ全て汝らの軍忠のおかげである
中にも諏訪頼茂はわが伯母婿であるが、父信虎の頃より不仲となり幾度も戦火を交えて来た、予の代になって頼茂が心を入れ替えて我らに従えば、村上、小笠原、木曽を滅ぼすことは容易となるであろう
故に諏訪へ使僧を使わせて和睦しようと思うが、どうであろうか」と言った

すると山本勘助が進み出て「この義は甚だ道理に叶っております、隣国の戦に手間取る間に、誰ぞが帝都に旗を入れたなら後悔しても後の祭りとなりましょう」
と言えば、一座の皆がこれに賛同した
晴信は早速、恵林寺の惟高、法成寺の策玄、栄昌院の大益和尚を召されて和議の事を話すと「かかることの取り持ちは我らの仕事ゆえ、お任せくだされ」と快諾して信州諏訪へ向かった。

諏訪信濃守頼茂は、このとき諏訪、伊奈(伊那)二郡の主として武略に優れた人であった、しかし信虎の傍若無人の振る舞いに「極悪非道の振る舞い、一族としても見逃すことできぬ」とついに義絶して相争う敵味方となってしまった。
しかし僅か二郡の主の為、一家だけでは信虎に抗えず、幸い小笠原、村上、木曽の諸侯みな信虎と敵対していることを幸いに、手を組んだ。

武田家は内紛あって信虎が駿河に追われると、武田の家督は若き晴信に移り
頼茂は今こそ信州四家力を合わせれば、いとたやすく武田家を滅ぼすことができると勇み立ち、天文七年の韮崎合戦から撚場、野辺山、蔦木の合戦と今年に至るまで八年の戦を続けたが一度も武田に勝つことが出来なかった。
戦の度に良臣を失い、今は後悔の念に襲われ和議の事さえ考えていたところに、武田家より三人の使僧が訪れて和議を勧めたので、まさに渡りに船と、大いに喜び、頼茂からも和議の使者を送り、以後水魚の交わりとなることを神文を送る。
三月二十三日には、武田左馬之助信繁が晴信の名代として諏訪に行き、頼茂と伯母に対面した。
小笠原、村上、木曽はこれを知って大いに怒り、連合の兵を諏訪に攻め上ると言う、これを聞いた頼茂はわが家だけで支えられるものではないと、さっそく武田に援軍を求めた。

四月二日、頼茂は諏訪頼高を伴って甲府にやって来た
晴信は大いにこれを喜び歓待した、頼茂も同じように喜んだ
五日には大蔵大夫を招いて猿楽を興行させ、膳には山海の珍味を並べて饗応の宴を催した。




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