文章を書くというのはどういうことだろうか。まず、私たちの一般的なイメージでは、書きたいことがまずあって、それをいかに伝えるかを考え、効果的な表現をひねり出し、紙媒体やパソコンなどに書き付ける、という感じであろう。だが、本当にそのような手順を踏んでいるのであろうか。
例えば、書きたいことが特に思い浮かばなくても、手を動かして文章を綴っているうちに、なんとなくまとまったものが出来上がってしまう場合がある。何を書くのかをあらかじめきちんと決めていなくても、書いていくうちに興が乗り、半ば無意識的に書き付けたものを、後で読み返してみると、「へえ、私はこんなことを考えていたのか」「結構いいこと書いてるじゃないの」などと思うこともないではない。
先日、作家の高橋源一郎氏の『「書く」ってどんなこと』という本を読んだ。これはNHK出版「学びのきほん」の一冊なのであるが、この本にはそういったことが、小説家としての自身の体験を踏まえてわかりやすく解説されている。この冊子の帯の言葉を引用してみよう。
誰も気づかなかった、言葉の秘密。文章は頭で考えて書いていない? 実はもうひとり の「わたし」が書いている? 作家が初めて明かす、渾身の「書く論」。
氏によれば、私たちは実は文章を、まず頭で考えてから書くのではなく、もうひとりの「わたし」という、自分よりも大きな存在に「書かされている」という。そこでいくつかの例が挙げられる。
例えば、これは有名な話であるが、夏目漱石は名作『坊っちゃん』(400字詰め原稿用紙230枚~240枚)を、8日~10日で、ほとんど書き直しの跡も残さずに書いたと言われている。そんな芸当ができたのは、高橋氏によれば、漱石が、空中に書かれた文字を書き写すかのように「考えずに」書いたからだという。さらに言えば、漱石は彼のほとんどの作品をそのようにして書いたのだと氏は断言している。
これは、同じく小説家である高橋氏の体験から出た実感なのであろうが、氏自身、最初にじっくりと「考えて」書いた小説よりも、時間に追われて「自動筆記」のようにして書いた小説が認められて、世に出るきっかけとなったと述べている。
このようなメカニズムは、実は作家だけにとどまらず、一般的な書き手にも通じるはずである。これはわりとよく知られた学説なのであるが、カリフォルニア大学の生理学者、ベンジャミン・リベットによる「自由意志」に関する実験を高橋氏は引用している。簡単に言うと、私たちが身体を動かす運動をする時、私たちがその動作を始めようと意識的な決定をする0.35秒前には、すでに「脳」がそうすることを決定してしまっているというのである。この実験結果をもとに、リベットは、人間には「自由意志」などなく、その前に「脳」もしくは「無意識下」の何かがすべてを決定しているのだと主張している。そして、リベットのこの説は、高橋氏の、何かに「書かされている」という実感と符合するのだという。
高橋氏のいう「何か」とは、私たちの意識下に潜む「無意識」だと言っていいだろう。そして、私たちが、自分の書いた文章を読み返してみて、「私はこんなことを考えていたのか」と気づくことも、そうしたメカニズムの結果なのだろうと思われる。
つまり、私たちは、自分の中にはどんなことが潜んでいるのかを知るためにも、「書くこと」を大げさに考えず、気楽にどんどん書いていったほうがいいということであろう。新しい自分の発見につながるかもしれない。