年賀状のこと                                    | ブログ・ザ・不易流行

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 最近は年賀状を出さない人が増えているようだ。年賀状の代わりにLINEを送信する人、もしくは、そうした新年の挨拶を全く送らない人も多いらしい。私はまだ年賀状を結構出しているほうだと思うが、数年来やりとりをしていた人の中にも、今年の年賀状に、「来年からは年賀状の送付を控えさせていただきます」という「年賀状じまい」を伝える文面を添えている人が数人いた。少し興ざめな気持ちになるとともに、「来年はこの人は出してはいけないんだな」と慌ててメモしておいた。

 

 ネットで調べてみると、やはり年賀状じまいはここ数年の傾向らしい。かといって、「来年からはもう出しません」という一言だけでは、相手に失礼になってしまうので、もっともらしい理由を述べる必要がある。そこで、「年賀状じまいの文例集」がいろんなサイトに掲載されているが、読んでみると結構面白い。いくつか例をあげてみよう。

 

「年を重ねるにつれ 年末年始の慌ただしさに体力の衰えを感じるようになりました。つきましては 誠に勝手ながら、今年を最後に年賀状の送付を控えさせていただきたく存じます。」


「昨年の誕生日で私も後期高齢者となり、身辺整理を始めました。本年をもちましてどなた様に対しても 年始のご挨拶を失礼させていただきたいと思います。」


「近年の環境問題への意識の高まりを受け 私どもも紙資源の節約に取り組むことにいたしました。つきましては 誠に勝手ながら来年からは新年の挨拶を控えさせていただきます。」


「アナログな我が家にもデジタル化の波が押し寄せており、本年で年賀状じまいをさせていただくことにしました。SNSを始めましたので、今後はSNSでご挨拶をさせていただければ幸いです。」


「私たちの生活スタイルが変わり、新しい環境で新しい年を迎えることとなりました。そのため、年賀状のやりとりを控えさせていただくことになりました。」


「昨今の時代の潮流には抗しがたく、また郵送料の高騰のため、今後は年賀状を控えさせていただくことになりました。」

 

 年賀状を出さない理由としては、「高齢化による体力の衰え」「高齢化に伴う身辺整理」「環境問題」「デジタル化の波」「生活スタイルの変化」「時代の潮流」「郵送料の高騰」などがあげられているが、「高齢化」以外の理由は、取って付けたようで、少し笑える。


 一方で、年賀状じまいをしたくなる気持ちもわからないではない。私も、毎年十二月の下旬になると、「年賀状を書かなければならない」というプレッシャーで、そわそわした気分になる。また、この人には出すべきかどうかなどといちいち考えるのも面倒くさい。職場の同僚の間でも、「虚礼廃止」ということで、いちいち気を遣うのはやめましょうという傾向が年々強くなっているようだ。

 

 けれども、私は今のところ年賀状じまいをするつもりはない。今年の年末も、しんどい思いをしながらも年賀状を書くだろうと思う。そのわけは、日本の伝統でもある年賀状のやりとりには、デメリットを上回るメリットがまだあると思うからである。LINEやメールで新年の挨拶をするのもアリだとは思うが、私がおもにやり取りをしていた世代の人たちは、SNSやメールなどをしていなさそうな人も多いし、そうした人たちとはもちろんLINEも繋がっていないし、彼らのメールアドレスも知らない。

 

 今、高校の授業で「贈与論」をやっているが、年賀状もれっきとした「贈り物」である。贈り物には「返礼義務」や「負債感」が伴う。だから、年賀状をもらった相手には返事を出さなくてはならないと感じるし、出したけど返事が来なかったら、「どうして返事がないんだろう」という違和感を持つ。そして、それが「面倒くささ」に繋がり、それならいっそやめてしまえということにもなる。だが、そうした面倒くささを上回るようなメリットが予想される場合には、やはり「贈与」は継続したほうがいいと思う。教科書掲載の評論にもあったが、贈与に伴う「負債感」は、「相手との関係を継続する原動力」にもなるのである。

 

 年賀状だけでなく、お中元やお歳暮といった「贈り物」も同様だ。私には毎年お歳暮をやりとりする親戚がいるが、「面倒くさいな」と思いつつも、最近は、こうした「虚礼」とも思われるやりとりがあるからこそ、細々とでも関係が続いているのだろうなあと思う。私が長年年賀状をやりとりしている人の中にも、毎年「今年もよろしくお願いします。またお会いしたいですね。」などとお互いに書いてはいるものの、実際に会うことはなく、すでに年賀状だけの繋がりになっている人も多数いる。だが、それでもいいのだ。そうした関係が続いていれば、実際にまた会おうということにもなる。私は最近、初任校の卒業生たちとこの春に一席設ける約束をした。これも、長年年賀状をやりとりしていたおかげなのだなあと思うと、少し得をしたような気分である。

 

 それに、実際に会うことがなくてもいいのだ。年をとればとるほど、年賀状のやりとりは「安否確認」の役割を果たすこともある。私には高齢の伯母がいるが、既に彼女の息子(私のいとこ)は亡くなっていて、現在義理の娘と一緒に暮らしている。いや、施設に入っているのかもしれない。ともあれ、伯母の安否が気にかかるので、毎年年賀状を出すことにしている。数年前までは伯母の自筆の返事が来ていたが、それも途絶えていた。そこで、今年は出すかどうか迷ったが、やはり出すことにした。すると、1月も半ばになってから返事が来た。伯母の義理の娘からであった。   

 

 「早速の賀状、ありがとうございます。○子さんはあと十日ほどで誕生日を迎え、96歳になります。巳年の年女です。体を起こしたり移動したりは不自由になってきましたが、会話はしっかりしており、誕生日にはお寿司が食べたいそうです。」とある。

 

 年賀状を出してよかったと思った。