この愛を解決できるか - 後編 | 人生 ただ今 おさぼり中!

人生 ただ今 おさぼり中!

GROW OLD ALONG WITH ME. THE BEST IS YET TO BE.
いつの間にやら終活適齢期。
でも、これからよ!
HAPPY JAPPY 今日も行く!

 

前回から時間がたちましたが、父の日記の紹介、後半とさせて下さいね。

 

 

どの親でも子供の幸せを望むわけですが、父親の書いたものを目にしてあらためてそういう想いに触れると、いわゆる ”幸せのひな型” のようには行かなかった自分の人生を思い、申し訳ないという気持ちになる。

 

がんにもなったし。。。

 

こんな気持ちが重くなって、前回は途中で少しその思いにフォーカスする時間が必要になった。

 

 

。。。しかし、よかった。 また軽くなりました。

 

げに、何でも起こることは必要なこと。

 

 

 

 

1953年(昭和28年)

 

4月11日(土)天候 晴

 

笑った!ミチルが遂に笑った!

今朝、8時半、何時ものようにお乳を充分に飲んでベッドに機嫌よく寝たところで、何時ものようにあやしたら、にっこり目元から笑ったのだ。傍らで化粧していたママも、本当!と言って一緒にあやした。笑った!

それから午後もお乳を飲んで満足したところでまた笑った。機嫌さえ良ければこれから笑うだろう。素敵だ。

こうして成長してゆく、一人の人間の姿の尊さよ!

 

 

 

 

5月12日(火)

 

10日の日曜日は部屋の大掃除をやり、家具の配置替えをやった。これから暑くなるから、なるべく部屋を涼しく見せるように工夫した。

ミチルの授乳時間に苦心して 最近になって やっと4時間おきに落ち着いた。生活が規則正しくなってきた、パパはうれしい。

 

                 

 

 

 

5月21日(木)

 

手製の網戸が完成した。スクリーンドアを3つ作った。

これで今年の夏は蠅も蚊も知らずに過ごせるし、風が始終入ってきて気持ちが良い。

 

          

 

 

ミチルは絵が好きだろうか。

3週間くらい前から壁に掛けてある絵をじっと見つめる。泣いていても黙って暫く見つめている。まだ色彩は充分にわからないはずだ。それにしてもじっと何時までも絵に見入るのは不思議なくらいだ。

 

 

 

 

 

。。。6月はその年は長梅雨でしたが、私は病気もせず成長を続けている、と。

 

父はいわゆる DIY が好きだった。ちょっとした大工仕事。上のスクリーン・ドアのように 私用の簡易な家具を楽しみながらよく作ったようだ。

 

 

                                         

 

 

 

 

ベビーベッドに眠る私をスケッチしてくれたが、なるほど、ベッドには枠はない。その次の月には寝返りを打つ力が強くなったらしい。。

 

                 

 

 

母に言われ、危ないから早く枠をはめようと計画して、もう一カ月も前に作ってベッドに取りつけるまでになっていたという頃。。

 

 

 

7月10日(土)曇

 

ママがミチルの泣き声を聞きつけ 飛んできた。「ミチルがベッドから落ちた!」と。

ミチルがベッドから落ちたのだ!

早速乳を飲ませてから体中検査してみたが、まず異常はなく安心した。顔を打ったらしく鼻が少しハレている。おでこも少し赤かった。それだけで済んで、まずまず異常はないらしい。手足は自分で動かすし、肋骨を抑えても痛がらないし、頭は大丈夫らしい。ほっとした。

40cmの上から板の間に落ちて ほとんどケガをしていないのは本当に不幸中の幸いであったと思う。

 

 

 

 

慌てて枠を付けてくれたらしい。

 

            

 

 

 

 

。。。今 アルバート(息子)が近くに来たので、急に思い出したことを話して笑った。

 

彼が生まれてからずっとフローリングの床にマットレスを敷いてベッドにして私と二人で寝ていたのだが、やっぱり彼も たった10cmの高さからだったが、”落ちて”、板でゴツンと頭を打つ音がしたのだった。大丈夫らしいと見て取り、この至らない母親は、父親の日記にあった上記の出来事を思い出し、独りで笑ったものだった。

。。ふふふ。。ごめんね。。

 

 

 

 

父の日記は私の誕生から7カ月続き、9月末に終わっている。

 

今回 読み直してみて、その記述の端々からうかがえることが 私の成長記録以外のことでも 少なくないことに驚いた。

 

 

ひとつには、父はきちんとしたことが好きで、少し融通に欠けた性格で、頑固でさえあってため、生きにくい人生だったかもしれないと感じた。

その両親(私の祖父母)との間に、カルマのように軋轢があったという感じが昔からしていた。明るく軽い幸せに対する欲求が強かったので、子供の誕生は、よく男親の感じる距離を取って眺めるようなことはできず、積極的に幸せ作りをリードする姿勢と出たのだろう。

自分をパパと呼び、私の存在を前提とした人生を表明している。

子供に関しては、実は私の前に流産と死産を繰り返したと母から聞いている、そういう理由もある。

 

 

また、他にも文から感じたことには、たとえば、父と母の仲は、母からだけでなく、父も母を慈しみの基本姿勢で扱っていたようだ、ということ。

母は父にとって恋人ではなかったかもしれないが、妻というものを持つ意義を満たし、多分充分に安定と幸せを感じさせてくれた女性だったのだろう。

 

 

 

 

台風の日に、父は書いている。

 私の一生の最初の嵐が 満7カ月の今日 襲って来た、と

 

          「ミチルよ、嵐を恐れることなく直視せよ。」

 

             

 

 

 

 

 

 

 

 

 

             

 

 

       

 

 

 

 

             

 

                             

 

                    "I love you" is not enough to express my feelings for you, my darling Papa.