サラリーマン、単身赴任で寺社めぐり。

単身赴任に彩りを。。
寺社に行き尽くして素敵な仏像たちと出会いつつ、食・酒を堪能する旅に出てみました。

【春】 京都・洛西太秦 「美像に見惚れて」①

2017年04月22日 | 
京福電鉄「嵐電(らんでん)」はまことによい。

こぢんまりとした「路面電車」的電車であるが、四条大宮~嵐山を走る本線と、北野白梅町~嵐山を走る北野線の二経路があって、龍安寺や妙心寺、車折神社など、京都洛西の有名どころを突っ切っていくのである。
本線・北野線乗り放題の「一日フリー切符」や、地下鉄と連携した「ワンデイ・チケット」などもあって、使い勝手もよく、京都洛西散策には欠かせない交通手段なのである。

降り立ったのは太秦広隆寺駅。
美像に会いに行くとあって、かなり気持ちは高ぶっている。
駅から大通り(三条通り)を渡るとすぐに、巨大な楼門が迎えてくれた。


<楼門>





真言宗蜂岡山・広隆寺。超メジャー級の寺院である。
創建は推古天皇十一年(六〇三)、聖徳太子建立七寺のひとつである。七寺とは
一.奈良・法起寺
一.奈良・法隆寺
一.奈良・中宮寺
一.奈良・橘寺
一.奈良・葛木寺(橿原の和田廃寺)
一.京都・広隆寺
一.大阪・四天王寺
であるが、広隆寺については、渡来人の秦氏が創建したとの説もあるそうな。
ただ、いずれにしても、京都屈指の歴史を持つ古刹であることは間違いない。

楼門をくぐり、境内へ。
左手に薬師堂と地蔵堂、右手に講堂(平安・重文)を観ながら進むと、正面に本堂(上宮王院太子殿)がズッシリと構えている。


<薬師堂>

<地蔵堂>

<講堂>

<本堂>


シンプルでありつつも、全体として重厚感ある佇まいである。

【春】京都・洛西太秦 「美像に見惚れて」② へ続く








【春】 奈良 「春爛漫」

2017年04月15日 | 
近鉄大和高田駅で下車。



こんなに美しい桜並木、今まで出会ったことがない。
高田の千本桜である。




高田川のほとり、二.五キロにわたって続く。
昭和二十三年(一九四八)、市民ボランティアが植樹したものだそうだ。




続いて、近鉄郡山駅へ。
郡山城跡の桜も見事。




本丸跡内にある柳澤神社にて。



今年もいよいよ春を迎えた。
素敵な寺社、仏像との出会いが楽しみである。


【春】奈良「春爛漫」完








【春】 奈良・佐保路 「光明皇后とともに」⑦完

2017年04月14日 | 
さて、いよいよ寺内探訪へと移る。
まずは、中門から右手に見える本堂からだ。


<本堂>



本尊は
〔十一面観音立像〕(鎌倉・重文)
である。
普段は、白く透けた幕の合間から、のぞき
観ることができるのであるが、特別開帳中は、この幕が取り払われ、しっかり全貌を拝むことができる。
像高は九十四センチ。
光明皇后が自ら刻んだ像をもとにして、慶派の仏師が造り上げたものとされる。
檜材に金泥を施した像体、放射状の光背、
頭部の宝冠、首飾り等、装飾類も実にゴージャスだ。
また、細く切った金箔を、筆や接着剤を用
いて貼り付けた文様、「切金」で表現した衣部分の彩色は、まことに細やかで、しかも、造像当時の鮮やかさを残す。
昭和二十八年(一九五三)まで、この像は
秘仏として門外不出、保存状態が極めてよかったため、このような良好状態を保っているそうな。
観れば観るほど、
(本当に、鎌倉時代の像なのだろうか…)
と思ってしまうほど、奇跡的に色褪せがない。
人もこれくらい、輝き続けたいものだ…。


本堂のとなり、西金堂(奈良・重文)に移る。

<西金堂>


堂内には、五重小塔(奈良・国宝)が安置され、そびえ立っている。
「堂内にそびえ立つ」
というのは、ちょっと違和感のある聞こえ方かと思うが、実際、その通りなのだ。
伽藍敷地が狭かったということで「本物」の塔を配置できず、このような塔を堂内安置したということで、もともとは、この西金堂と、失われた東金堂双方にあったらしい。
高さ約四メートル、ミニチュア版の五重塔なのであるが、当時の先端建築技術を、そのまま用いた塔ということで、侮るなかれ、まことに精緻、その姿には、堂々たる風格がある。


<五重小塔>



何度か述べていることであるが、こういった逸作が、無造作に、何気なく、ポンと置いてあるのが、
(さすが奈良…)
とてつもなく良い。
海龍王寺、こぢんまりとした寺ではあるが、とても魅力的、奥深い実力の持ち主である。

御朱印は〔妙智力〕



ありがたく、頂戴する。
 

【春】 奈良・佐保路 「光明皇后とともに」⑦完







【春】 奈良・佐保路 「光明皇后とともに」⑥

2017年04月12日 | 
コンパクトな境内である。
中門から正面に西金堂、右手に本堂が配置されている。
かつては、手前側に東金堂があったらしいが、廃仏毀釈を受け、消失してしまったらしい。


<西金堂>

<本堂>


話が脇にそれてしまうが、ここで「廃仏毀釈」について触れておきたい。
古来、日本においては、神々が尊ばれていた。縄文時代からの自然崇拝、あるいは精霊信仰から発したもの、あるいは、天皇を中心とした貴族を祀るものであり、人々の生活文化に深く浸透してきたのである。
そんな中、六世紀に入ると、大陸から「外来の」思想である仏教が伝来し、浸透していく。その当初、有力豪族の代表格、仏教導入派の蘇我氏と、神道崇拝派の物部氏の対立が起こり、血を見る戦いと発展することとなるのであるが、蘇我氏が勝利し、仏教が一気に普及し始める。
ところが、その後、凄いことに、神と仏は、この国の中で融合の道をたどっていく。お互いに尊重する(あるいは利用し合う)関係性を構築、維持していくのであるが、これが、神仏習合(神と仏が習い合う)と言われるものだ。
具体的には、寺に「鎮守社」として神社が建てられ、また、神社に「神宮寺」として建てられる、といった形である。
また、神仏習合は、歴史の流れの中で、さらに発展型と化していく。「神は、仏が仮の姿となって現れたもの」とする「本地垂迹説」や、その逆の「神本仏迹説」がそれだ。これによって、融合の道は、さらに深まり、この世界、実に約千二百年もの間、続いていったのである。
しかしながら、この関係、明治政府の誕生を期に、ついに終止符が打たれることとなってしまう。

慶長十七年(一六一二)、江戸幕府は、キリスト教禁止令を出して、その普及を阻止する。同時に、幕府は民衆のすべてを必ずどこかの寺院に所属させ(檀家制度)、寺院に民衆の身元証明をさせた(寺請制度)。
寺院は、民衆を監視する役割を担うこととなり、次第に強権的な存在と化していく。お布施の強要、寺院改築費用を名目とした経済的負担の強要などが横行するようになったのだ(仮に民衆が、こういった強要行為を拒絶すると、仕返しに、寺院から寺請の拒絶を受けてしまいかねず、そうなると、自身の社会的保証がなくなってしまうことから、これに従わざるをえなかった)。
そしてさらに、僧侶の乱行や、僧階の金銭売買なども行われるようになる始末…。
民衆の、寺院に対する反感は、次第に極限へと向かっていったと言えよう。
また、当時の国学(復古神道)の影響も大きかった。
賀茂真淵や本居宣長、平田篤胤や本田親徳といった学者陣が、儒教や仏教を排除して、日本古来の純粋信仰を尊ぶ「復古神道」を唱え、大きな影響力を持つようになっていた。

そんな空気が充満している中、江戸幕府は倒れ、尊皇を掲げる明治政府が誕生、天皇を頂点とする中央集権国家を構築しようと、神道の崇拝を推進する。そして、余計な「付随物」を取り去ろうと、今まで、ともにあった、神と仏を引き離すべく、神仏分離令を発したのである。
これを機に、もうメチャクチャなこととなる。寺院に対する、あまりにも激しい破壊活動が公然と行われた。
廃仏毀釈(仏を廃し、釈迦を毀す)である。
跡形もなく潰されたり、没収され、二束三文で払い下げられたりした寺院、徹底的に破壊された仏像たち、多数…。神社への鞍替えを余儀なくされたり、廃寺とされた寺院、多数…。
例えば…
それまで、五十六もの坊や院を有し、「西の日光」と称される大寺院であった奈良県の内山永久寺は、跡形もなく、全てが破壊された。
千葉県の鋸山、五百羅漢像、全ての像が破壊された。
現在は国宝に認定されている興福寺五重塔は、没収され、わずか二十五円で売りに出され、薪にされようとしていた。
鹿児島においては、一六一六もの寺院が廃寺とされた。
源平の戦で命を落とした安徳天皇を祀った山口県の阿弥陀寺は、神社(赤間神宮)に転向しなければならなくなった。
怒りや主義主張はあってもよい。しかし、だからと言って、このような暴力行為が許されるなどと、わたしは決して思わない。
著名な東洋哲学者、梅原猛氏は、
「廃仏毀釈がなかったならば、国宝とされるものが、現在の優に三倍は存在していただろう」
と嘆いた、ということであるが、只々、あまりにも許しがたい、無惨な事件だったとしか言いようがない。


<興福寺五重塔>


【春】 奈良・佐保路 「光明皇后とともに」⑦ へ続く






【春】 奈良・佐保路 「光明皇后とともに」⑤

2017年04月10日 | 
法華寺を訪れたならば、必ず「セット」で行くべき寺がある。
真言律宗・海龍王寺(かいりゅうおうじ)だ。
法華寺の北東、歩いて五分ほどのところに所在する。
もとは、飛鳥の頃より、この地に毘沙門天を祀る寺が所在していたとされるが、天平三年(七三一)、光明皇后の発願によって、堂宇が整えられ、新たな寺、すなわち、海龍王寺としての歩みを始めた。ちなみに、寺号は、光明皇后の夫、聖武天皇によって名付けられたものだ。

交通量も多い公道に面して、小さな佇まいの山門(表門)があった。うっかりしていると、通り過ぎてしまいかねない。
門を潜ると静寂な参道、草木が鬱蒼と茂る砂利道だ。また、その両脇には「築地塀」と言われる、泥土を固めた土壁が走る。この塀、室町時代のものらしいが、あまり手直しもしていない無造作感は、たまらなく鄙びた空気を醸し出し、これが、
(いかにも奈良の寺…)
なのである。


<山門>


<築地塀>


ほどなく、中門にたどり着く。思いっきり咲き誇る雪柳が、まさに真っ白な彩りを添えている。

<中門と雪柳>


境内へと足を踏み入れると、ここにも生い茂る草木が…。



ちなみに、これらは、
「動植物に対し、無用の殺生を行わない」
仏教思想に基づき、行われているものと拝察される。単に、手入れを怠っている意で書き立てているわけではないので、誤解のなきよう…。

【春】 奈良・佐保路 「光明皇后とともに」⑥ へ続く