「暦のしずく」(6)第六章「弟子」作:沢木耕太郎 | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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「暦のしずく」(6)第六章「弟子」 63(1/27)~73(4/6)
朝日新聞be(土曜版)
作 沢木耕太郎 画 茂本ヒデキチ

感想
文耕の弟子になりたいと、井筒屋手代 源吉に連れられてやって来た伝吉。語らせるとなかなかの腕前。出入りを許した文耕。
そして文耕の「皿屋敷」が出来上がるまでの顛末が語られる。
そうこうするうち、今度は源吉までもが文耕の弟子になりたいと言い出す。ついては以前話して気になっていた秋田 佐竹家のお家騒動を調べるという。井筒屋には早々に暇を貰ってしまった。
この話が、のちに文耕が獄門に処せられる件の元ネタとなる。
その間に里見の人となりに関わる話と、文耕にとってのもう一つの情報源である「琴弾句会」のことが語られる。
そして弟子への命名。伝吉は「森川馬谷」、源吉は「竹内文長」

この連載も、始まってそろそろ1年半。
次回辺りから本題(獄門の元ネタ)に入って行くのかな?
そういう気持ちで「序章」を読むと期待が膨らむ。

次章は「箱訴」


今までの超あらすじ(ざっくり序章~五章まで)
序章 獄門一~四  2022/10/1~10/22
この日本に一人、その芸によって死刑となった馬場文耕。
講釈師であり、今でいうルポライターの様な事もやった。
公儀の事件を講釈したことで宝暦八(1758)年十二月に斬首され、刑場で晒し首にされた。文耕の通った道を辿る作者。

第一章 采女ケ原 一 ~ 十二  10/29~2023/1/28
宝暦七(1757)年二月。采女ケ原の小屋で講釈を演じる馬場文耕。場を提供している藤乃屋市兵衛。

その講釈の帰り、浪人に襲われる文耕。相手は「鎧谷壮伍」と言い、文耕が以前講釈した話の元になり自害した浪人の弟。

その争いを止めた里見樹一郎は、文耕と同じ十蔵長屋に住んでいた。問われて師匠の園木覚郎のことを話す文耕。若い頃、園木に弟子入り。その修行とは二年間の農作業。

剣の手ほどきはなかったが、必要なものは与えられていた。
その後飯屋で酒を酌み交わす二人。

今日初めて講釈を聞いた里見は「良き日でした」と感謝する。

第二章 怪動 一 ~ 十一  2/4~4/15 
長屋の隣に住む寡婦で、信太という息子を持つお清に飯の世話になっている文耕。お清は先の飯屋「吉の字屋」の下働き。
深川芸者のお六が文耕を訪ね、妹分の小糸が怪動(けいどう:奉行所の手入れ)で捕まったという。実はお六も以前捕まって吉原で荒い勤めを強いられたが、文耕が俵屋に頼んで芸者仕事に移ることが出来た。今度も俵屋に頼んでもらいたいという。
お六を売り出すために、その時は講釈で彼女を宣伝してうまく行った。俵屋に小糸の事を頼む文耕。俵屋は請け出す代わりに、今回も講釈での力添えが必要だと言った。

第三章 夜講 一 ~ 七  4/22~6/10
何とか小糸を売り出すための講釈「深川吉原つなぐ糸は紫」を井筒屋で語った文耕。ここの手代 源吉の方が店主より乗り気。

川で溺れた子供を助けた際に売掛金を盗まれた手代が、自害する前にと最後に小糸に会った。事情を聞いた小糸が金を工面して「見つかった」と言って手代に渡す。その経緯を知った手代の雇主の薬種問屋が、礼と共に金を小糸に返した。
講釈を聞いた里見は帰り、それとなく護衛をしてくれていた。

第四章 世話物 一 ~ 十一  6/17~9/9
小糸のためにやった講釈が評判を呼び、俵屋が同じ様なものを再びやって欲しいと頼む。むしろ井筒屋の希望。拵え物を嫌うが「語ることは、所詮騙ること」と押されて納得する文耕。
井筒屋での二度目の話は仇討ち。友人の仇討ちをしようとする若者を助ける遊女 秋篠の話。今回も帰りを護衛してくれた里見だが、仇を討っても相手に連なる者の恨みを買うと言った。

第五章 駕籠 一~十七  9/16~2024/1/20
つきあいのある貸本屋「不二屋」で毎月行われる、情報交換を兼ねた酒盛りに参加した文耕。文耕が出した家重の情けない行状や、出世した大岡忠光の話は、意外に読まれないと聞く文耕。
そこにお六が来て皆にお酌をする。本当は文耕の側に行きたい。
采女ケ原の市兵衛が、大名家が文耕の講釈を聞きたいとの話を持って来た。それを引き受けた文耕。
屋敷に入り通された部屋で応対したのは、かつて十代の頃一緒に道場に通っていた龍助・・・田沼意次だった。
講釈する相手は襖の奥。文耕は先の秋篠の話を語った。
終わると「それで、終わりか?」襖が開けられそこに座る武士。
意次が平伏するのに合わせ文耕も平伏。「家重だ
言語不明瞭で、話が分かるのは大岡忠光だけという噂。文耕がさんざん揶揄して来た、家重に関する書き物を読んでいた本人。
家治が将軍になるためには、この家重が愚鈍の方が良い、どんどん喧伝いたせとの言。言葉は聞き取れる。家臣の実態を見通すための方便だった。文耕の講釈は意次が勧めたという。
家重が去った後、経緯を話す意次。あの里見も田沼の関係者。
園木を辞してからの生活を語る文耕。
別れ際に聞いた老中 本多正珍の名。それは後に巨大な敵として現れる。


あらすじ
第六章 弟子  一~十一

一 63
明けて十月。文耕は、大岡出雲守忠光の屋敷で講釈して以来、茫然と考え続けていた。何を、どう講釈すればいいか分からない。
これまでは噂を元にして講釈をして来たが、それが誤りだと家重に思い知らされた。今後何を頼りに書けば良いのか。
小糸について書いたものは彼女の人気を高めるため。だが幕閣のお歴々を題材に好き勝手は許されない。突き詰めれば嘘か真か。
聞き知った話を文章にする時、史書や軍書の書き手が全て真実を書いている保証はない。これからは噂を真かどうか確かめる事が必要ではないか・・・

答えが出ぬまま、毎月五日の井筒屋での夜講の日になった。
八代将軍綱吉に仕え、その死に殉ずる様に死んだ大岡越前守忠相の話をする事にした。お裁きとしては別人のものだったが、元々拵え物の様なものであり、罪はなかろうと判断した。
この夜も大入りだったが、客たちの満足が見て取れた。

夜講の翌日、例の如く隣のお清が作ってくれた飯を食べながら、また茫然と考える文耕。噂でない真の話はどうすれば作れるか。
食べ終えて片付けをしている時に、井筒屋の手代 源吉が昨夜の木戸銭を届けに来た。それは口実でもあり、文耕の話を聞いたり自らの話をしたりして楽しんだ。文耕もそんなひと時を好んだ。
「入れ」と声を掛けると、四十絡みの男を連れて来ていた。

上がり框では狭く、部屋に上げる。まず紙に包んだ木戸銭の金三分を渡す源吉。だが用件がそれだけでないのは明らか。


「用件は何だ」と訊ねる文耕に「伝吉さん」と声をかける源吉。
じれて源吉が口を開きかけた時、ぼそりと伝吉が言った。
「弟子に、しておくんなさい」

二 64
思わず訊き返す文耕。「弟子に、私の?」
講釈師に師匠も弟子もない、勝手にやったらいいと言う文耕に
「いえ、あたしは文耕師匠の弟子になりたいんです」と伝吉。
文耕は、弟子になりたいのならと志道軒や瑞龍軒の名を出すが、いずれも合わないと言う。文耕の講釈が好きだと言う言葉を引き取り源吉が、伝吉は井筒屋の夜講には最初から来ていたと言う。
そういえば、講釈を復誦する様に口を動かす男がいたのを思い出す文耕。伝吉が聞きたいのは、昔の戦の話などではなく江戸の話だと言った。伝吉は元芝居屋。話を拵えるのは苦手だが覚えるのは得意で、台詞を忘れた役者に袖から教えたりしていたという。
本人は町医者の息子だったが、次男で好きな事をしているうちにこうなった。酔うと口が悪くなる癖があり、妻子があるのに食わせられないため、今は公事宿の手伝いをしているという。

公事宿とは、江戸で訴訟事をしに上って来た旅人の旅籠。そんな争いの当事者が泊まる宿が馬喰町などにいくつもあった。
伝吉は読み書きが出来ることから、そんな公事宿で宿帳をつけたり訴状の清書をしているという。そんな暮らしで自分が何をしたいか分からなかったが、文耕の講釈を聞いてこれがやりたかったのだと気が付いたという。それで文耕と同じ話をやってみたいのだと言った。


同じものを聞いてもつまらないと言う文耕に、同じ話でも客は毎日変わるし、気に入った話なら何度でも聞きたいと返す伝吉。
覚えるのは得意だと言う伝吉に、昨夜の私の話をやってみろと言う文耕。怯むかと思ったら「かしこまりました」と居住まいを正し、語り始めた。
「これより、南町奉行大岡越前守、お裁きの一席を」

三 65
文耕が井筒屋で行った講釈は、次のようなものだった。
かつて大岡越前守が奉行をしていた頃、算術の名人と言われる野田文蔵を採用した時の話が語られる。百のものを二つに割るという簡単なものでも、算盤を使って確かめた。
その大岡越前守に、二十両を二つに割るお裁きがあったという。
江戸にある豊島屋という居酒屋で飲んだ老人が、二十両入りの財布を落としたと言って店を探し回った。それは苦境で娘を吉原に渡し貰った代金。奉公人に乱暴され追い出される老人。店の若い者が、落ちた財布を拾ったのを見ていた駕籠掻きの九郎兵衛が、証人になると言って、二人で南町奉行所に届け出た。
それを吟味する大岡は、二人の前に豊島屋主人の重右衛門を呼び出して事情を聞くが、これから探しますとの返事。願人に落とした財布の色などを聞く大岡。それに答えた老人。
だがこの二人を縛り上げた大岡。その財布は既に盗まれたとして届けが出ていると言い、豊島屋に調べて報告せよと指示した。
豊島屋が急いで戻り調べたところ、手代が拾った事が判明して財布を大岡に差し出した。縄付きのまま呼び出された老人は、縄を解かれ財布を取り戻した。豊島屋に真剣に探させるためだった、許せと言う大岡。大岡は二十両のうち十両を九郎兵衛への謝礼として渡すように言い、豊島屋には娘を請け出して、吉原での年季と同年の間養育せよと命じた。豊島屋は老人に相談し、請け出した娘に金銀を付けて返す事にして収めた。


半刻あまりで語り終えた伝吉に、源吉は驚き文耕も同じ思い。
井筒屋の夜講では一刻ほどを費やしたが、話はすっきりと筋が通り、面白くなっている。全く同じ話でも、こうも変わるか。

四 66
源吉によると、井筒屋の夜講が始まった翌日には伝吉が来て文耕の家に行きたいと言ったという。断っていたがついほだされた。
お前の語りようは見事だと言う文耕。源吉も感嘆する。
伝吉と話しながらも大岡忠光の屋敷で語った「秋篠」の話を思い出す文耕。あれも二度目だったが、枝葉が刈られ良くなった。
それにしてもお裁き物は面白いと言う伝吉は、他に大岡裁き物はないかと問う。それを皮切りに、様々なものを紹介しては話し合う文耕と伝吉。そのうち源吉が、出入りしている小間物屋の佐竹様のところでお家騒動があったと話す。世継ぎの順を巡る話。
話を戻して文耕が伝吉に、独り立ちしてやるのに十分な技倆を持っていると言うと、話を拵えられないので、文耕の話を覚えて話したいのだと繰り返す。
弟子としてではなく、源吉の知り合いとして出入りを許すと言う文耕に、やはり師匠と呼ばせて下さいと食い下がる伝吉。


老け顔の自分が文耕さんなどと呼んだら、どっちが師匠か分からなくなると言うのだ。「好きにするがいい」と苦笑する文耕。

この伝吉が、後世馬場文耕の弟子と伝えられる森川馬谷。
馬谷は寛政八年正月八日に七十八歳で没した。例年の正月に「大岡政談、伊達大評定、理世安民記」と称し三種の読み物を講じた 。ここで大岡政談というのが、越前守による裁き物の総称。だが広く流布した十六の事件中、実際にあったのは三つだけ。
名奉行大岡越前守の像は死後、彼らが講釈する事で肥大化した。

五 67 2/24
十月に行う采女ケ原の昼講が近づくが、演目が決まらない文耕。
軍書を語る熱が失せているが、かといって写本も気が乗らない。
とりあえず拵え物の話を語ろうと考えるうち、途中まで作って放置していた「皿屋敷」に改めて取り掛かることにした文耕。


文耕にとっての「皿屋敷」は、早くに母を亡くした自分に父が語ってくれたものの一つ。番町の皿屋敷に残る井戸の怪談。
武家屋敷に奉公する下女が、大切な十枚組の皿の一枚を割り、主人に折檻されたのを苦に井戸へ飛び込んで果てた。やがてそこから皿の数を数える女の声がし始め、主人は狂死したという。
父はその場所を番町としていたが、文耕が西国に行った先の播州姫路で同様の話があり、その理由が分かった。
話は先に似ている。下女 お菊に横恋慕した重臣の青山が家宝の十枚揃い皿の一枚を隠し、お菊に罪をなすりつけて折檻したが、お菊は靡かず。青山はお菊を斬り殺す。そして起きる怪異の現象。父は広く伝わったその話を聞き「番町」と脚色したか。
文耕はそれらから、ひとつづつ話を組立て直した。
全部で十段落。とても一日では語れないが、太平記の様に続けて語ればいい。

文耕は十月十一日からその「皿屋敷」を語り始める。初めはまだ話の展開は読めないが、やがて青山主膳、お菊などが出て来ると、客の熱意が伝わって来た。

最終日には客が小屋に入りきれない程になった。
この話は翌年、文耕の筆による写本として世に出る。
そしてこれが歌舞伎や講釈などでの原型になって行く。

采女ケ原の最後の講釈が終わった時、客の言う「どうせならもっと暑い夏にやってくれたら・・・」の声を聞く文耕。
なるほど、それも悪くない。
だが文耕に残されている夏は一度しかなかった。

六 68 3/2
十月下旬。「皿屋敷」を最後まで語り終えると、それを読物にする作業に没頭した文耕。貸本屋の寄り合いでその話をすると皆が喜んだ。采女ケ原での「皿屋敷」の人気は上々なのでなおさら。
その寄り合いの翌日、井筒屋の源吉が訪ねて来た。

いつもの用事ではない。なんとなく様子が妙だった。 
唐突に「あっしも、弟子にしておくんなせえ」と言う源吉。

先日、文耕と伝吉が話していた時に、秋田の佐竹家の事を話しかけたが中途半端な事しか言えなかった。それで気になって調べたという。佐竹家周辺の勤番侍に酒をふるまい聞き出した。
発端は佐竹家の先々代の藩主 義峰公の時。病となった義峰公に嫡子がなく、養子の候補として二つの分家の義堅公と義明公が挙げられた。息子を継がせたい義明公の父が義峰公の寵臣 那珂忠左衛門を味方に引き入れたが、結局義堅公に決まった。
しかし、何と病気の義峰公より先に義堅公が死んだため、その息子義真公が継ぐ事となり、義峰公が没後に十八歳の若さで藩主となった。ところがその四年後に義真公が急死。
それで結局、以前の候補だった義明公が藩主になったという。
那珂忠左衛門が毒を盛ったとの噂もある。
この話を文耕の手で講釈にしてもらいたくて急いで来たと言う。


面白そうではあるが、源吉が講釈師になりたい話に繋がらない。
それについての源吉の説明。小間物屋の商売は好きだが、基本にあるのは人の話を聞くのが好きだという事。話を取って来て文耕さんに講釈にしてもらいたい。探索の真似事だと言う。
いったん聞き流したが、そうか探索か、と胸中で呟く文耕。
これまで探索といえば与力や同心のものだと思い込んでいた。
講釈師が探り、索(もと)めて悪いはずがない・・・

七 69 3/9
文耕は、探索という言葉を口にした源吉に深く感じ入った。
思い立ったらすぐ動き、そんな事が出来る。ただ、彼が来た時から感じていた違和感の原因に気付いた。「肩荷はどうした?」
「へえ」と返した源吉は、井筒屋には暇を頂きましたと言った。
早まったことを、と言う文耕に説明を始めた。井筒屋では暖簾分けで番頭が出る代わりに、もう一人の手代と源吉のどちらかを番頭にするという。その争いをしたくなくて身を引いたのだ。
この半年の付き合いで源吉の優しさを感じていた。だがいきなり講釈師では食えないぞ、と言う文耕に、井筒屋の品を担いで家々を回る「背負い小間物」をやるのだと言った。

住まいは腐れ縁のある野郎の家に転がり込むとの事。

文耕は、采女ケ原の小屋の夜番に使えないかと胸算用。今は市兵衛が若い衆を手配していた。
「ところで、佐竹の騒動のことだがな」と訊く文耕。敵役の那珂忠左衛門のその後か気になった。この夏、ご詮議にかけられ、義明公の命で斬罪に処せられるという。何故味方とも言える忠左衛門を処刑しなくてはならぬのか、と首を傾げる文耕。
委細不明だが、領民にとってとんでもない政をしたとか、と言う源吉は気楽に「行ってみましょうか」「どこへ」「久保田に」
久保田は現在の秋田。江戸から百四十里もある。

小物を売り捌きながら話を聞いてきましょうか・・・
聞いているうちに、源吉ならやれるかも、と思った文耕は、梅干し用の瓶をぶちまけた。散ったのは大岡家でもらった三十両。

そこから小判十枚ほどを源吉に渡した。驚く源吉だが、明日にでも江戸を発つと言って部屋を飛び出して行った。
それを見て、新しい事が始まる高揚と、危険に近づく不安を覚える文耕。

八 70 3/16
十一月に入り、文耕は井筒屋での夜講に、飯盛南部藩による献上品を巡る騒動を語ったが、流布している噂話に創話を加えただけのものであり、手応えはなかった。

弟子となった伝吉が言う誉め言葉にも気分は晴れず。

贔屓している者へ話を作り替えていた。
二階に上がると、井筒屋の主人が源吉の不在を詫びた。文耕の弟子になった経緯を知らぬ様で、こちらもそれ以上話さず。

井筒屋を出るといつもの様に里見樹一郎が待っていた。道すがら今夜の感想を訊くと家臣の忠義、不忠義には興味がないと言う。
「大事なことは・・」と言い掛けて背後の気配を感じた里見。
脇差を勧められたが断る文耕。いつの間にか気配は消えた。
文耕は里見を自分の部屋に誘った。実は、先日の大名屋敷での講釈の礼で、角樽を町役人が言付けて来た。殆ど飲んでいない。

長屋の部屋に入ると、椀二つで酒を飲み始めた。上等の酒だと言う里見に、元はといえばそちらがもたらしたと話す文耕。


事を察した里見。自分を意次に推挙した理由を訊く文耕。
ただ、馬場殿の講釈や写本についてを耳に入れただけと話した。
そして、先方では今からでも田沼家にお迎えしたいとの伝言。
その気はないと返し、里見殿こそなぜ躊躇するかと訊いた。
しばらくこの生活を続けたいと言いつつ、仕官するなら田沼家に決めていると言う里見。意次が国を変えてくれるという思い。
それは誰もが飢えない国にするという事。

天の下の民はみな等しく腹が満たされなくてはならない・・・
近年の激烈な学者を危惧して「天子の民か?」と訊くと、里見は首を振った。「いえ、天の下の民です」

九 71 3/23
この里見という人間の人となりが気になる文耕。学問、剣・・・
誰から学んだかを訊くと、九州の山奥で天狗らから、と濁す。
更に訊くと十歳の時、天狗の一人に連れられ江戸に来たと言う。そこで現地出身の老人宅に身を寄せた。

その目的は、全ての民が飢えない世を待つため。
「しかし近年、時が来るのを早めたいと願い、田沼様や馬場殿の力をお借りしたいと・・・」その様な力はないと言う文耕に、弱い立場の側につく話をする、怒りが感じられると言う。
話を戻す文耕。最前の南部藩の話。馬場殿の講釈ではもっと異なるものを聞きたいと言った。この世の理非を糾し、弱者を援けるものを。その言葉が酔い始めた文耕の心の奥に沈み込んだ。


飲み過ぎたと呟く里見は、長屋の住人の話を始めた。
左官の万作が借金を返しに来たと言う。長屋の連中は殆ど返さない中で、それがことのほか嬉しかったのだろう。深い秘密を抱えていそうな里見の、不思議な無垢さを危うく思う文耕、

十一月の采女ケ原における昼講の内容は、江戸の怪談話に決まっていた。それは賑わいを確かにしたい市兵衛の思い。
それを語り切った文耕。老若男女を問わず怪談好きなのだ。

そして十二月。師走の多忙を考慮して夜講も昼講も休みにした文耕は、何とか「皿屋敷」を月なかに書き終えた。

それを「不二屋」の藤兵衛と藤吉に渡すと大いに喜ばれた。
その日、長屋の部屋でぼんやりしていると訪問者の声。それは飯田橋の口入れ屋だった。少し前に八丁堀の同心に訊かれていくつか話したという。それは意次から聞いていたが黙っていた。

 

迷惑を掛けたかを心配する口入れ屋。とりあえず部屋に上げた。
持参の菓子折りを出しながら、文耕が大名家からの招きで行った件を話す口入れ屋。月次の琴弾句会でそれが出たという。
その情報網に驚く文耕。

十 72 3/31
口入れ屋の言う「琴弾句会」とは一体何か。
文耕にもたらされる話の種は四つ。一つは十蔵長屋での暮らしの中、次いで密かに世に出る写本。次いで毎月の貸本屋での噂話。
そして四つ目が俳諧の月次句会「琴弾句会」であり、文耕としては最も大きなもの。文耕がそれに参加する様になったのは、口入れ屋の誘いによるもの。参加者は十名ほどで各人俳号しか名乗らず、月一回持ち回りで句会を開く。風体などから様々な職種が窺えた。そこで初めて自らを文耕と名乗った。
最初に参加した句会のあと、文耕がした西国の話が好評で、その後口入れ屋の申し出を受け、連衆として参加することになった。
「琴弾句会」の意味は「密かな会」だから。当初は「鷽(うそ)の会」にしようとしたが、その鳴き声で琴弾鳥とも呼ばれるため、その様になったらしい。
文耕はその会で旗本や大名ばかりか、幕閣にまつわる生々しい噂話を聞かされた。それが後に出す写本を書く助けになった。
だが宝暦六年「当時珍説要秘録」を書いた後句会からは退いた。
写本の内容から、文耕の素性が知られている気配があり、皆の口が重くなった様に感じた文耕が、距離を取ることにしたのだ。

訪ねて来た口入れ屋の話では、句会で講釈師の馬場文耕が、大岡屋敷で講釈をした話が出たという。家重がいた事までは漏れていないらしく、安堵する文耕。
その流れで、連衆の一人から文耕さんにまた参加して欲しいとの声が出た。文耕がいないと場が沈むと聞き、了解した文耕。


口入れ屋が帰ったので湯を沸かし、湯漬けを食べた文耕。
夕餉のあと書見を始めた文耕に、外から声がした。
なんとはなしに弟子となってしまった伝吉だった。
近々谷中の寺で住職の法話のあと、講釈をさせてもらえるという。ついては「深川吉原つなぐ糸は紫」を語るのを許して欲しいとの願い出。文耕に否はなかった。
更に、ついては自身の名をつけたいので師匠の名から一字貰えないかという。文でも耕でも、吉をつけたのでは締まらない。
生まれが谷中と聞いて、いっそ馬をつけるかと言う文耕。
「馬谷、馬中・・・」しばらく考え「馬谷をいただきます」
「森川馬谷、俺より上手そうな名だな」と文耕。
実際、伝吉なら自分よりうまくあの話を語るに違いない。

十一 73 4/7
文耕と伝吉が話しているところへ源吉の声。来客の多い日だ。
肩に荷を担いでいる。「秋田からの帰りかい」と訊く伝吉。
「へえ、久保田の城下から急いで帰って参りました」と源吉。
その事を伝吉が知っているのは、江戸を発つ前に自分も弟子になった事を伝えたからだという源吉。そんな気遣いを見て、井筒屋の主人が残念がった理由が良く分かった文耕。
部屋に上がった源吉は、仕入れた話を一気に喋り出した。
騒動の全ての発端は那珂忠左衛門にあり、銀札の発行が混乱に輪をかけたことが分かったという。秋田騒動の見取り図がゆっくりとあぶり出されて来るようで、気持ちが高ぶる文耕。

話が一段落し「酒がある。一杯やるか」と誘う文耕。喜ぶ源吉。
だが伝吉は、自分は遠慮すると言った。今まで酒で散々失敗して来たので、一人前の講釈師になるまで酒を断つのだという。
そいつは雷門の扁額だ、と言う源吉(見上げた心がけ・・)は、あっしも一緒に遠慮すると言い出した。
ちょうど口入れ屋が持って来た菓子折がある。茶の用意は源吉がやってくれた。饅頭を食べながら伝吉が名付けの「馬谷」の話をすると、源吉が自分にも欲しいと言い出した。

秋田まで探索してくれた礼もあり、考え始める文耕。文に源を付けて文源はどうかと言うと「源吉」の名は井筒屋の主人に付けてもらったらしく、ひどい父親だったが「長」という名を付けられていた。「すると、文長かい」と伝吉が言った。鳥のようだが悪くない。ついでに苗字も付けてと言う源吉。

いくつか言ったうちの「竹内」に飛び付いた。「竹内文長。悪くはない」三人で笑い合う。

しかしこの宝暦七年の師走が暮れ、宝暦八年になると源吉、竹内文長は獄門となる文耕の科に連座し、江戸から追放される。
明治の中頃発行された雑誌に収録されている「幕府時代届申渡抄録」に、文耕事件での処罰者への「申渡」内容が書かれている。
竹内文長は江戸十里四方から追放されたが、伝吉、森川馬谷には一切お咎めがなかった。その理由はやがて明らかになる。