日本最古の大陸系獅子舞、その始まりとは?大阪府天王寺舞楽の獅子

古来の風格を纒う獅子は、1400年の歳月を今に伝える。2024年4月22日、大阪府大阪市四天王寺天王寺舞楽を観た。大陸系の中で日本最古の獅子とも言われ、その始まりは聖徳太子の時代に遡る。この獅子の起源をより明確に知りたいという思いもあり、現地を訪れた。今回は背景知識を過去の文献を参考にしながら振り返ることをメインに書かせていただこう。

四天王寺外観

舞楽の起源「伎楽」の伝来

新撰姓氏録』によれば、欽明天皇のころ(6世紀中頃)、大伴狭手彦が朝鮮に使いとして派遣された時、和薬使主(やまとのくすしのおみ。650年に孝徳天皇に牛乳を献じて和薬使主の姓を賜った善那使主の父親・智聡の誤り?雅亮会『天王寺舞楽』を参照)によって「伎楽調度一具」が伝えられたとある。しかしここで定かなのは道具が伝わったことであり、楽舞が伝えられたかは不明である。

ここから時代は下り、日本書紀によれば、612年に味摩之(みまし)が百済から帰化し、呉国に学んだ伎楽に長けていたことから、桜井(現在の飛鳥豊浦の向原寺)に住ませて、少年へ伝習させたとなっている。『教訓抄』所引の古記によると、大和国橘寺、山城国太秦寺とともに、摂津国四天王寺にもこの味摩之が寄せ置かれたとある。人々は当時、この伎楽を学ぼうといういう意欲は少なく、学んでもなかなか上達しないという状況が続いた。そこでこの技を伝習するために、課役(割り当てられた仕事)を免ずることや、仏教の供養や法会において伎楽を積極的に導入したことなどから徐々に広まり始めた。

701年に雅楽寮が設置された際は、伎楽が四天王寺と大安寺で寺院の楽として保存されることとなった。この時、伎楽以外にも久米舞や五節舞などの楽舞や歌謡も一緒に伝習された。ただ時代の移り変わりで伎楽は舞楽への流れは止められなかった。伎楽の上演記録としては、1181年4月8日の南都禅定院にて行われたとされる。その後、1299年11月に東大寺で伎楽会が開催された時には、内容が舞楽楽人に向けて伝えられていたため、すでにこの100年のうちに伎楽の形骸化が起こっていたと考えられる。ただし四天王寺の獅子の曲は今でも伎楽の時の名残をとどめており、これは多くが途絶えてしまった伎楽の一部を残す貴重な例である。

そもそも雅楽舞楽の違いは?

ここで、舞楽の話をする前に、雅楽舞楽の違いについて触れておこう。雅楽は外来の楽舞およびこれらの音楽や舞を手本として日本で作られた楽舞のことで、雅楽の中でも楽器のみで演奏することを「管弦」、舞を伴うと「舞楽」と呼ぶ。舞楽の中でも中国大陸に由来するものを左舞として赤・紫・金といった装束を身に纏い、朝鮮半島に由来するものを右舞として緑・黄・銀といった装束を身に纏う。ちなみに天王寺舞楽の獅子は右舞とされ、左舞は菩薩である。

天王寺舞楽とは?

ここからが本題の天王寺舞楽についてだ。これは聖徳太子の命日に行われる法要で、1400年の歴史がある。現在は4月22日に行われているが、かつては旧暦2月22日に行われていた。聖徳太子がいた時は法華会と呼ばれていたが、死後は聖霊会と言われ現在に至る。「聖徳太子傳記」に記されていることには、612年に味摩之(みまし)が伝えた伎楽を習ったのが、上記の少年たちであり、そこには側近の秦河勝の息子5名、孫3名、秦河満の息子2名、孫3名がいた。さらに四天王寺に32名の楽人を置いたとも言われている。これが後に四天王寺舞楽や伎楽の演奏を担当した楽家につながる。

雅楽舞楽の演奏を担当した楽家と楽人の組織を「天王寺楽所(がくそ)」と呼ぶ。天王寺楽所は後世においても、聖徳太子の時代に伎楽を学んだ秦河勝の子孫たちの末裔であると考えており、秦姓の楽人は東儀、林、薗(その)、岡の四家に分かれて、共に四天王寺に奉仕した。天王寺楽所という演奏家集団は7世紀半ばには既に存在していたと考えられるが、正式な記録は12世紀の平安時代になってからとも言われている。

平安末期には三方楽所の制が定められて、北京楽所(京都)、南京楽所(奈良)、天王寺楽所(大阪)の3つが朝廷の御用達となって朝廷の庇護を受けていた。ただし、天王寺楽所のみ京都から遠く辺境であったため、朝廷における力は他の2つに比べて弱かったとされ、逆に民衆支持のもとで栄えてきたという経緯がある。民衆にわかりやすい舞楽を心がけてきたとも言える。

天王寺舞楽特有の表現として小野功龍は「舞の線の太さと勇壮さ、スケールの大きさ」を挙げており、これは天王寺の石舞台が大きいことや参詣客が遠巻きに鑑賞するという舞台環境が作り出した特徴である。また東儀俊美はメリハリの良さという特質を挙げている。また、小野真龍は根本精神に大乗仏教があるとしており、聖徳太子の御霊を供養するだけでなく、石舞台上を浄土として、多くの民衆に仏縁を結ばせその縁を深める意味があるという。

さらに伎楽の系譜を受け継いでいるため、パントマイム的な芸能であったとも言われており、古来近世以前はやや下品と考える者もいたようだ。その表現として年老いた翁が鼻を手でかむという表現をリアルに演じたり、胡徳楽では酔っ払ってふらふらしたり、従者が盗み酒をしたり、かわらけ(杯)をポーンと四天王寺の六時堂前の池に投げたりなどの演出があった。これらの特徴からして、京都や奈良の楽人からすれば癖のある舞であり、自分たちの方が格の高い舞だという印象を持っていた。ただし天王寺舞楽は創建以来の反骨精神があり、応仁の乱の際に京都や奈良が焦土となった時に、天王寺楽所の楽人が大活躍して復興に努めたなどの素晴らしいエピソードも残されている。江戸時代以降は高尚な趣味として取り上げられることも多くなった雅楽。それをを教えるのが天王寺舞楽という構図もあったようだ。

天王寺舞楽・蘇利古(そりこ)の舞

天王寺舞楽・迦陵頻(かりょうびん)が石舞台へと向かう

菩薩と獅子、その役割とは?

さてここから獅子舞研究者として、獅子に触れていきたいと思う。天王寺舞楽の獅子は現在、菩薩とセットで演じられる。どちらも舞楽の中盤で演じられる演目だ。現在では舞いの伝承が失われてしまっているため、簡単な所作にとどまる。どちらも推古天皇の時代に伝来した伎楽が源流となっている。

菩薩と獅子の共通する所作は「大輪小輪(おおわこわ)」である。菩薩も獅子も2対で1組とされており、石舞台へと登って降りてを2回繰り返し、石舞台上では2重の輪を描くような動きが行われる。これは四天王寺独特の舞台構造を利用して創作された演出でもあり、四天王寺のみで行われている。また、菩薩と獅子は平安初期ごろまではそれぞれが独立した舞いが行われていたが、平安末期にはその舞いが断絶したものの、天王寺舞楽においては供養舞の一部に見事に組み込まれたという形だ。

またこの伴奏は笛と打楽器で構成されており、13世紀成立の雅楽の専門書『教訓抄』には四天王寺住吉大社独自の曲を演奏しており、本来の獅子の曲より面白いというような内容が書かれている。つまり都の雅楽とは異なる形で伝承が保存されてきたというわけだ。

獅子は後世、三味線音楽や歌舞伎、舞踊に取り入れられ広く普及した獅子舞の原型であり、大陸系獅子舞の最も古い原型である。天王寺舞楽における獅子の役割は何か。それは仏教世界における祓い清めの精神に通ずる。2頭の獅子は本坊を出て左と右に分かれて石舞台で合流し、そして六時堂へと至る聖霊会の道行の先頭で露払いを行う。また後ほど石舞台の上での舞楽では法要の場を清めるという役割を担う。

行道をする天王寺舞楽の獅子、その後ろに菩薩

舞台上で演舞する天王寺舞楽の獅子①

舞台上で演舞する天王寺舞楽の獅子②

こんな獣の舞いもある!蘇莫者について

四天王寺では蘇莫者(そまくしゃ)の舞というものがある。それは褌脱(こたつ)舞であり、褌脱とは動物の骨肉を抜いた皮袋を帽子として被った舞い方のことである。猿や蛙といった動物をモチーフににしたモノマネ演技であり、鳥獣戯画の主人公にもなるようなユーモアがあった。しかし、演技者からみれば、好ましいものではなくて自然に忌避されることになった。しかし、四天王寺にはそれが伝承されている。この舞いの起源には中央アジアサマルカンドが考えられ、そこから古代中国を経由して日本に入ってきたようだ。動物をモチーフにしている点では、獅子にも通じる何かがあるかもしれないと思い、ここで簡単に触れておく。

天王寺舞楽の伝承の秘訣!

吉田兼好著『徒然草』によれば、「何事も辺土は賤しくかたくななれども、天王寺舞楽のみ都に耻ぢず」とあり、兼好が天王寺楽人にそのわけを訪ねたという。そうしたら、「天王寺の音楽がすぐれているわけは、春秋の彼岸の中日頃の黄鐘調(おうしきちょう)の引導鐘の音に調子を合わせて正しいピッチで練習をしているからということらしい。四季ある日本において、お彼岸は比較的標準温度の気候であり、最も正しいリズムを刻んでいるというのだ。鎌倉時代には既に科学的錬磨が行われていたことには感銘を受ける限りだ。

また江戸時代、楽人町という寺領があり、ここに楽人が一堂に居住していた。しかし、江戸時代の宝暦の頃に、楽人町から楽人が離脱して、舞楽の伝流を自由な形で行う動きが強まった。つまり寺院楽や宮廷楽から民衆の楽へと転換することで、舞楽伝流への意欲を高めることになったとも言われている。このようにどこまでも民衆に近いのが天王寺舞楽であり、そこには担い手による隠れた伝承のコツ、工夫があったわけだ。

 

ps. 和歌山県三面獅子との関連性

今年2月に訪れた顯國神社の三面獅子はやはり、この天王寺舞楽にも近い舞楽や伎楽の系譜を受け継いでいると思う。獅子頭が黒色であること、太鼓のリズム、面の形の観点で、和歌山県の三面獅子と四天王寺舞楽の獅子は非常に共通点があると思った。江戸時代以前の記録はないが、中世に祭りの先導役と厄祓いを主として担った「行道獅子」に似たような形態を持つ獅子だ。またオニは天狗あるいは伎楽の鼻高面、ワニは伎楽の崑崙にも似ているように思えるが関連性を示す資料は見当たらない。ここについてはさらに深く調査していきたいものだ。

 

参考文献

南谷美保『四天王寺聖霊会の舞楽 増補版』東方出版, 2008年8月

雅亮会『天王寺舞楽講談社, 1978年10月

小野摂龍「天王寺舞楽と雅亮会の歩み」, 『大阪春秋 第8巻 第3号 通巻25号』大阪春秋社, 1980年9月

小野真龍「天王寺舞楽〜浪速に残る最古の古典芸能」, 『やそしま 第十二号』(公財)関西・大阪21世紀協会, 2018年12月

南谷美保「秦姓の舞ー天王寺舞楽天王寺楽人のお話ー」,『和 Communication 四天王寺 第770号』 四天王寺 2015年10月

中田文花「絵で見る四天王寺聖霊会 第7回 国指定重要無形民俗文化財聖霊会の舞楽」(天王寺舞楽)の歴史」,  『和 Communication 四天王寺 第774号』四天王寺 2016年6月

四天王寺『和 Communication 四天王寺 第800号』2020年12月

五穀豊穣をもたらす古の呪術!?岐阜県関市「どうじゃこう」農業の獅子舞の系譜を考える

箕獅子から見る農耕の獅子舞の原点は、里山に暮らし身近なところに潜む魔物と格闘する人間の暮らしだったのかもしれない。

2024年4月21日、岐阜県関市の「どうじゃこう」と呼ばれる謎深い民俗行事を訪れた。獅子舞というべきか、獅子概念を呪術に消化した芸能という方が良いかもしれない。その特異性には驚き、そして底知れぬ奥深さを感じずにいられないのだ。

この行事に関心を持ったきっかけは、2024年1月に三重県伊勢市の箕獅子を取材したところ、岐阜県にも同様に箕を使った民俗行事が今でも受け継がれており、かつ三重の場合は所作が残っていないが、このどうじゃこうの箕獅子は所作が受け継がれているという。これは文化伝播と意味でも、箕獅子の底流を流れる系譜を知ることができるかも知れない。そのような想いから、この地を訪れた。

箕獅子

どうじゃこうの流れ

神事芸能が始まるのは14時ごろからで、その後のどうじゃこう は15時からだった。どうじゃこうは7番までの構成である。第1番四方浄め、第2番薙刀振り、第3番棒振り、第4番宝獅子、第5番箕獅子、第6番童子やこう、第7番豊年踊り(千秋楽)の流れだ。  

厳粛な薙刀振りの後に形を崩した棒振り、厳粛な宝獅子の後にユーモラスで暴れ回る箕獅子、という風に聖と俗の対比構造になっており、前者が静粛に後者が狂言的なユーモラスを含んで行われる。箕獅子は非常に観客からの注目度も高く、竹箕に和紙を貼った頭と、菰筵(こもむしろ)ともいう藁を縦横に編んだ胴幕によって構成される異形の風貌である。最後の豊年踊りは常盤町が囃し方として「さがりば」を奏し、福槌、鍵、松笠、宝珠などの神宝や国家安泰や五穀豊穣などの文字を描いた色とりどりの紙製の宝笠を頭の上に乗せて踊る。

宝獅子

箕獅子が餅を食べる

童子やこうとは何か?古の呪術の存在

第6番の「童子やこう」が特異的であることから、この神事芸能の総称として「どうじゃこう」と呼ばれる。熊手に向けて通された紐を伝うように木箱(舟)が担い手たちによって動かされていく。その木箱の中には童子(猿)の人形2体と松明の火。その火が熊手のひのきの葉に燃え移るまで、続けられる。その行為は「どうじゃこうなりけり、自在なりけり」の掛け声のもとで行われる。小雨が降っているためか、なかなか火がひのきの葉に燃え移らない。それが燃え移ると歓声が上がり、滑車は逆にその木箱は熊手から離れて担い手たちの元に戻される。この時に火傷に注意で、消火は砂利に潜り込ませるようにして行われた。

関市教育委員会『関市史民俗編』によれば、「熊手(深山)を野獣(あるいは魔物)から守るために野獣(獅子)に餅を与え、野獣が満腹して油断しているすきに乗じて山に火を放ち、これを退治することによって五穀豊穣、国家安泰を招くこと」とされている。すなわち野山や田畑を荒らす魔物に餅を与えて、油断している隙に山に火をかけて退治することを示している。これは春日神社『春日神社 どうじやこう 民俗重要文化財パンフレット』によれば、童子童女が夜道を安全に行き交いできるようにという願いが込められている。また、岐阜県小中学校校長会『ふるさとの行事』によれば、掛け声の「自在なりけり」が作物の豊作が望めることを意味して、作物を荒らすどうじ(猿)あるいは悪い神の追放という意味を持つという。解釈が正反対なのが面白いところだ。

童子やこう」を漢字で表現すると「童子夜行」であり、夜に深山に火をつけに行くことを意味する。「やこう」は焼くことと夜に行われる祭りの意味が考えられる。昔は夜の行事だった可能性があるが、安政4年(1857年)に関役所が出した『申渡之覚』によれば、「一、午の刻童子やかふ」とあり、正午の行事であったことが伺える。

点火する際に、松明とともに木箱に入ってる人形2体は、童子(「童子童女」とも考えられる)であり、猿とも言われている。童子とともに箱には日月を象る太鼓状のものがあることから、天日月の霊験を自在に発揮することから護法童子とも考えられ、修験道との関わりが推測される。童子は土、猿面は金とすれば、五行における土生金に該当して固くて丸いもの、すなわちお米の五穀豊穣を導く祈りともされる。

さて、燃え残った熊手の残骸は厄除けとして、持ち帰ることができる。「焼けぼっくいで菌付かず」とされており、厄除けや養蚕豊穣を願う呪具となる。僕自身も最後に竹をいただくことができた。担い手に詳しく話を伺ったところ「家の神棚などに飾っておくのが正しく、魔除けになる」と聞いた。また角形の小さなお餅を3ついただいた。


どうじゃこうの起源は?

このどうじゃこうの起源は大和にあるというが、これはいくつかの神事芸能のことであり、「童子やこう」自体ではないと考えられている。童子やこうの担い手(参与者)は長谷川家(相川町)と常盤町などの氏子であり、長谷川家は室町時代末期に榑木(くれき)という材木の販売権を持った家柄でこの田楽系芸能である「童子やこう」を保護する者であった。ただしその大元は鍛冶屋ではないとも考えられる。なぜなら田楽系芸能であるからだ。第7番豊年踊りに用いられる笏拍子の一枚に「天文六丁酉正月吉日破損したるにつき新調」との墨書があり、天文六(1537年)以前から行われていたことが伺える。またどうじゃこうが行われる春日神社の始まりは、鎌倉末期に惣鍛冶職が一党の氏神として奈良の春日大社の分霊を祀ったことに由来するという。

どうじゃこうを訪問して感じたこと

実際にこの芸能を見て心を動かされたことをいくつか紹介する。まずは宝獅子が舞っている時に餅を食べさせられ、その時に双方の力が強すぎたのか、宝獅子の舌が壊れて外れてしまった。「あ〜あ!」という表情の担い手はそそくさと宝獅子との対峙をやめた。そして間も無く宝獅子は裏へと引っ込んでいった(退場した)ように見えた。
また宝獅子と箕獅子を見学していた子どもが「あ!あれは人間だよ!だって足が出てるもん」と騒いでいた。大人からしたら民俗芸能であるからには、それに入るのは人間であるのが当たり前というありきたりな発想になりがちだが、子どもからすれば「よくわからない妖怪の類の正体はなんなのか?」という不思議がまずあって、それが人間であるという確証を得ようとしているという風に思えたのである。
あとは蛇足であるが、どうじゃこうの前に見た天狗の舞とひょっとこか何かの舞がものすごく格好良かった。震え悶え大地を揺り動かそうとする力、それこそが豊穣であるというものすごい壮大な世界観が眼前に広がってきたような感覚になった。これは岩手県の黒森神楽の山の神を見た時と少し感覚が似ていたが、そこと結びつけるのはまだ直感的な域を出ないものであり確証はない。


日本全国に広がる箕獅子の系譜

このどうじゃこうを訪れて、中世の田楽の匂いが色濃く感じられた。箕獅子は中世田楽の流れを伝えているのか。はたまたその裏側に修験道も見え隠れする。まだまだわからないことがたくさんある。佐渡のたかみ獅子など、まだまだ日本全国には箕を使った獅子頭がたくさん存在する。竹細工をする放浪民の集団、サンカとの関わりもあるだろう。それらをもっと調査してその根元にある問いである「なぜ獅子舞の元を辿ると箕という農具を使うことになるのか?」を突き詰めたい。

参考文献
関市教育委員会『関市史民俗編』1996年3月
地域社会研究会『地域社会通巻34号』1996年3月
岐阜県小中学校校長会『ふるさとの行事』財団法人岐阜県校長会館, 1999年11月
清水昭男岐阜県の祭りから』一つ葉文庫, 1996年1月
吉岡勲『生きている民俗探訪』第一法規出版株式会社, 1978年9月
春日神社『春日神社 どうじやこう 民俗重要文化財パンフレット』

獅子頭制作11日目

本日は茨城県石岡市獅子頭づくり11日目。僕の進みが遅すぎて、職人さんが持って帰って進めてくださった獅子頭を受け取った。めちゃくちゃ素晴らしい造形!そして、たくさんの隙間を埋め、かさ増ししたオガコの跡が。

本日のミッションは鼻と口との間の造形を彫ること。そして歯の下書きをすることだった。

鼻と口の間な造形は、波打つような形を作っていくのだが、左右対称を目指さねばならない。その角度と彫る位置が難しい。ガリガリと木目に沿わないで彫ってしまったところを修復しようとすると削りすぎてしまう、という繰り返しだ。

角ばったノミは方向によって、凸側と凹側があって、前者を上に向けて彫ると彫りが深くなる。逆に後者を上に向けて彫ると彫りが浅くなる。そういう基本的なことを11日目にしてやっと気づく。というか、教えてもらって気づいた。ノミの凸凹と小刀と、それらの使い分けを状況に応じてクルクルと変えていくのは、いまだにベストなやり方がよくわからないし、獅子頭をどう向けてどこを足で押さえてどういう方向で掘るのもわからない。これは教わってもわかる感覚でもないから、難しいものだ。

最後に、歯の部分の下書きをした。師匠に獅子は歯が16本だと教えてもらった。4×4=16だからとのこと。語呂合わせだ。石岡市の土橋の獅子舞はここら辺で超有名だが、前歯が9本で奇数になるとのこと。つまり全ての本数は16本ではなく18本ということになる。なるほど、そういう特殊な本数の獅子頭もあるようだ。なかなかに奥が深いものだ。

知られざる獅子舞文化の再発見!獅子舞講演会・獅子頭展示、第2回 加賀獅子舞春祭り(4月)

4月14日(日)、僕が所属する加賀市獅子舞を応援する会は石川県加賀市にて「第2回加賀市獅子舞春祭り」を開催。獅子舞講演会&獅子頭展示を行った。獅子舞講演会は石川県加賀市大聖寺地区会館にて、14時から15時半の日程で開催。現在、石川県唯一の獅子頭専業工房である「知田工房」(白山市鶴来)の知田清雲さんと大芽さんに1時間半、たっぷりとお話を伺うことができた。獅子頭づくりを始めたきっかけから、2代目、3代目と受け継いで来れた理由、そして獅子頭づくりの過程などをお話いただいた。加賀市、そして大聖寺にも知田さんが彫った獅子頭がたくさんある。この獅子舞文化を下支えしてきた職人のとても貴重なお話を伺うことができた。その時の様子を振り返る。

知田工房は1950年前後に創業。最初は仕事場が大きいところを探していて、少しでも「しらやまさん(白山比咩神社)」の近くに行きたいということで、鶴来に知田工房を設けた。それ以来、石川県白山市鶴来で獅子頭専門の工房として働いてきたそうだ。2代目・3代目のきっかけは先代の影響が大きい。やはり獅子頭を彫るきっかけとしては間近に獅子頭を彫っている先代がいるから、自分もいずれはそれを彫るようになるのでは?という自覚から来るのだろう。

獅子頭専業工房、仕事の流れ

まずは2代目清雲さんに獅子頭づくりの基本的な話などを伺った。清雲さんが彫り始めた時に石川県内に獅子頭専門工房はハヤシコウドウさん(金沢)、サンガイセンゲさん(うのけ)、フルセケイリュウさん(金沢)と知田工房のみだった。大聖寺鷹匠町の獅子頭加賀市大聖寺の方が彫ったと伝わるが、大聖寺獅子頭専業の工房があったのかは定かではない。ちなみのこの町の獅子頭は木彫りに白い粉がかかっているが、手垢がつかないように砥の粉をつけて獅子頭を触っていた可能性があるとのこと。なぜ知田工房は獅子頭専業の工房として続けてこられたのか。獅子頭工房を続けてこられた理由としては「玄関に飾るものからお祭りの獅子まで、小さいものから大きいものまで作ってきたから生き残ってこれたのだと思います」とのこと。

それから獅子頭工房の仕事の内容についてお話を伺った。新規は現在6頭、修理は20頭ほど溜まっており、最近は修理がメインになっている。新規の注文は宝くじの補助金を申請して、それが決まってから注文という流れが多い。そこから半年から一年間、丸太を探す期間があり、大きくて綺麗で軽い木を探す。材木を探すのが大変で、そこから獅子頭づくりは始まる。獅子頭を作る工程に関わっている職人としては、桐の木を専門に扱う材木屋さんに材木を探してもらい、そして彫り師である知田工房がその木を彫り、キセルなどを作る飾り職人が目と歯に金属を入れ、彫りを仕上げてから漆塗り職人(仏壇屋さんの場合が多い)に漆を塗ってもらい、鉄鋼所に金属のジャラジャラ鳴る部品をつけてもらい、鹿の皮を貼る職人に本来的には頼むことがあるが知田さんが貼ることもある。また、日本髪を結う職人さんに獅子頭の髪の毛を頼む。獅子頭の形を決めるときは、古いものを復元という形が一番多いが、本当の新規の場合はオリジナルの獅子を彫る場合もある。仕上がった時の睨みが大事で「怖いと泣かれるのが嬉しい」とのこと。

獅子舞文化のこれから、ジュエリーからメタバースまで

大芽さんは知田工房での仕事は3年目。小さい頃から祖父や父の仕事を見てきたので、ゆくゆくはこの仕事をするんだろうなと思って仕事をしてきた。獅子頭づくりを学び始めたのが高校で工業科に進んでから。芸術系の大学を出て、仏像を作る工房に弟子入り。今では獅子頭のみ彫る仕事を知田工房で行っている。週5.6日獅子頭を彫る生活を送っている。清雲さんから学ぶことが基本で、自分の色を出していくことはまだ考えていない。獅子頭づくりを学ぶため最初にするのが、道具の使い方、研ぎ方とのこと。そこから一人前の獅子頭職人になる。

大芽さんは現在28歳で、若い立場から獅子舞文化を見ている。鶴来のほうらい祭りで獅子舞の担い手もしていて、獅子舞が好きな祭りの人は情熱を持っているという。獅子舞を舞う人でありながら、獅子頭を作る人でもある。そのことで、「持っていてしんどい」などの体感があるため、舞手の気持ちで作れるという。

獅子頭のジュエリー(ピアス)をクラファンで販売した話を伺った。コロナ禍では過去にいただいていた注文をこなすだけで、後はご飯食べてみたいな生活をしていた。コロナ禍で仕事がない時に、面白い取り組みをしたかった」という。清雲さんも「獅子舞は男の文化だから、女性にも楽しんでもらいたいという想いがあった」と話す。実際に支援者数が47名、総額約60万円と大好評で、女性がやはり多かったが年齢は様々だったとのこと。まずはお正月に付けられるようにというイメージで開発を進めたが、とりわけ和服に合っていて、いつでも使えるようなデザインになったとのこと。今では工房でも販売している。獅子舞文化の市場を大きく広げるような活動であった。

また、メタバース(仮想空間)にも取り組まれている。知田工房の内部空間を360度3Dでデータ化して、世界中どこからでも工房見学ができるという体験を作っている。そして獅子頭の構造も3Dでデータ化して、それを可視化してネット上で見られるような取り組みも進めておられる。獅子舞文化の新しい可能性として、新しいテクノロジーによって、獅子舞文化をより現代的に受け継ぐことにもなるのかもしれない。

眠っている獅子頭を展示

獅子頭展示は10時から16時までの開催した。こちらは大聖寺地区の20町にご協力いただき、22頭の獅子頭を展示させていただくことができた。その多くは普段、祭りに登場しない眠っている獅子頭たちだ。改めて協力してくださった町の皆様に感謝申し上げる。

Special thanks
大聖寺神明町
大聖寺五軒町
大聖寺大新道
大聖寺菅生町
大聖寺鷹匠
大聖寺相生町
大聖寺中新道
大聖寺山田鍛冶町
大聖寺鷹匠
大聖寺関栄
大聖寺本町
大聖寺法華坊町
大聖寺錦町
大聖寺一本橋
大聖寺畑町
大聖寺番場町
大聖寺八間道
大聖寺田原町
大聖寺新町
大聖寺弓町

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北飛騨地域の「金蔵獅子」の系譜を辿る、自然界との獣との対峙する里人の暮らしとは

4月13日(土)、北陸圏での獅子舞を探していた。そこでたまたま獅子魂というサイトで1週間前に更新された情報を確認していると、神通川流域の富山県岐阜県の県境付近3箇所(町長、楡原、岩稲)で獅子舞が開催されることがわかった。このうち、時間の関係で町長と楡原しか見られなかったが、この訪問を通じて、「金蔵獅子」という獅子舞の実態、北飛騨の獅子舞が富山県の獅子舞にもたらした影響がよりクリアにわかってきたので、ブログを更新しておきたい。

富山駅まで夜行バスで移動。そこからJRで楡原駅まで電車に乗っていった。市街地の風景から徐々に山を縫うような谷を進んでいくようになると、目的地はもうすぐだ。岐阜県境にも近い、富山県富山市の楡原駅に着いた。桜はまだしっかりと咲いており、エメラルドグリーンの川をボートが降っていく。そのボートの通り過ぎた滑らかな線が美しくて、ずっと眺めていたいと思った。さて、今回は太鼓音を頼りに獅子舞の場所を予測し、訪問していった。

楡原の獅子舞

楡原の獅子舞は電車に乗っているときにかすかに楡原八幡宮に人が集まっていることがわかったので、ここかもしれないとあたりをつけて、楡原八幡宮に8時50分ごろにたどり着いた。すると、8時から始まった獅子舞が依然としてまだ行われていた。ものすごく長い奉納演舞だなと思ったし、ずっと拝殿の中で行われていた。肩車をする所作や、蛇を咥えて振り回す所作など非常に興味深く、アクロバティックなものばかりだった。このアクロバティックさは伊勢大神楽三重県)や角兵衛獅子(新潟県)に通じる所作があると思った。そこから表お宮、上行寺まで付いて歩いた。

それから一度町長の獅子舞の方に移動してそれから戻って図書館に行って、15時前にたまたま楡原の獅子舞の太鼓音を聞いた。この周辺で演舞するようだ。小中学校が統合された場所でも獅子舞が舞われる場面があったが、意外と子どもの数が多くてびっくりした。子どもとアネマが対峙する激しい1人獅子がものすごく格好良かった。

町長の獅子舞

町永の獅子舞は町長八幡宮での演舞を11時から観ることができた。青いブルーシートを敷いて、その上に緑のシートやゴザを敷いてその上で演舞が行われていた。ブルーシートは写真写りで獅子頭に青みが出てしまうので、これはもったいない。おそらく獅子舞の時に履物を脱ぐのが一般的なので、そこで一番手軽なブルーシートが用いられることになったのだろう。

今回演じられた演目はキンゾウジシ、ヘビジシ、アネマジシの順番で3演目行われた。獅子は2頭で男獅子と女獅子のようである。キンゾウジシの時は男獅子。金蔵は苦戦を強いられるが、持っている槍で獅子を刺し、そして仕留めた獅子を縛り上げて、獅子頭を抱えて退場する。子どもだからこそ迫力はそこまでではなかったが、その分可愛らしさが感じられるような演舞だった。ヘビジシの時は女獅子。蛇を噛み踊り狂う所作は獅子にとって喜びの演舞だ。しかし、キンゾ、ササラ、カネスリが最後に槍で獅子を退治して引き摺り回して退場するという流れである。最後のアネマジシも女獅子だ。獅子が牡丹の花に戯れ、しまいに寝てしまう。それをオドリコが花束で叩き起こす仕草などがあった。

またそれぞれの演目が始まる前に、花笠を被った女の子が2人出てきてオドリコが行われた。11時に始まった町長八幡宮は50分も演じられ、それが終わったら、皆いなくなって、担い手たちは住吉神社への奉納をするべく、広々とした田んぼみちを通ってから山を登り始めた。それにしても田んぼのあぜ道の美しい姿が印象的である。地域の祭り見物客は車通りの多い道路の方よりも田んぼのあぜ道の方を積極的に通っていたのがどこか印象的だった。

金蔵と獅子

蛇を咥える獅子

アネマと獅子

祭りは獣のものでもある

町長の獅子舞を観に行った際に、地域の重役さんか何かが「あそこに動物がいるよ」と教えてくれた。たぬきか穴熊の類だろう。水路からひょこっと顔を出して、太鼓の音がする方向を眺めていたが、僕らの存在に気づいたのか、水路の下に頭を引っ込めるようにして出てこなくなってしまった。このように、祭りは人間だけのためのものではなく、そこに生きる野生生物にとっても大事な存在なのかもしれないと思った。また少し歩くと、大きな一軒家の庭木に猿が登っていて、その木の花をむしゃむしゃと食べまくっていた。くちなしの木の花のような花びらだった。自分もサルと目を合わせながらも、ひらひらと舞い降りてきた花を食べてみたが、苦かった。猿と会話できた気がした。獣との対話が進む場所、山に囲まれた谷間に、自然と人間とのささやかな接触があった。それから細入図書館でこれらの獅子舞の理解を深めるべく、いろいろ調べてみた。

金蔵獅子とは何か?

改めて金蔵獅子とは何かについて考えていきたい。

槍で獅子を討ち取る主役を金蔵ということから、「金蔵獅子」と言われている。獅子あやしが多様なことが特徴で、槍を持つキンゾ、狩衣・烏帽子に日の丸の扇子を持つサンパサ、大黒頭巾や花笠を被った二人組で簓やスリガネを持つササラ、花笠を被ったオドリコなどが登場する。

金蔵獅子はもともと、伊勢大神楽の熱田派系が北飛騨で取り入れられて、獅子を討ち取るという演目に独自の発展を遂げたものである。今回訪問した地域一円の獅子舞のハブは、小羽地区の小羽、葛原あたりだろう。そこから習ったという場合が多い。この2つの村は村境に八幡社があり、共通の氏神として祀っており、4月の春祭りで両村から獅子舞が出る。この獅子舞は明治初年に飛騨の広瀬村(現国府村)から伝習したものであり、20人ほどの若者が荷車に米俵と釜をつけて習いに行ったと言われている。また飛騨から直接入ったと伝わるのが東猪谷や楡原であり、これは近世末まで歴史が遡る可能性がある。

金蔵獅子の基本演目

金蔵獅子には、キンゾ(金蔵獅子)、カグラジシ(神楽獅子)、ヘンべ(蛇獅子)、キョクジシ(曲獅子)の4つの基本演目がある。金蔵獅子は激しい獅子舞なので、獅子頭は小さいという特徴がある。金蔵獅子は昔のものほど目が大きくて彫りがシンプルで俗に猫獅子と呼ばれることがある。越中金蔵獅子は、飛騨の金蔵獅子とも少し異なる顔立ちである。また、祭礼行列の最前列に五色の流れ旗を立てる。

御幣を持って舞うカグラジシが本来の伊勢大神楽のお祓いの演目だ。一方でキョクジシは後足役の上に前足役が乗って高く見せるタケツギや、後足役と前足役が抱え合って宙返りをする胴返しや逆抱きなどのアクロバティックな所作もあり、これは観客を楽しませるための演目だろう。

鳥毛の分布は村境意識からくる?

キンゾは金蔵が槍で獅子を討ち取ることが特徴的だが、山で熊や猪を獲る生業の中から生まれた形態とも言われる。金蔵は鳥毛(キジの羽)をつけていることもあり、これは飛騨地方の民俗芸能であり、祭礼の時に輪になって鉦を打つ「鳥毛打ち」から来ている造形だ。この鳥毛が見られるのは、富山県内だと岐阜県境近くに限られており、今回、楡原には見られなかったが、町長では見られた。これはある種、「鳥毛」の境界があったのかもしれない

生きることと殺されることの連鎖

またヘンべは獅子が蛇を探し出して食うことが特徴的であり、猪の所作を表しているとも言われている(「蛇を楽しませる」と言う地域もあるため、その意味は一様でない)。ヘンベは北飛騨方言で蛇を意味しており、西日本各地の「餌取り系」の獅子舞の一種である。蛇を捉える猪、そしてそれを捉える人間。この食物連鎖か、はたまた弱肉強食の世界とも言うべきか。生き物の関わり合いの連鎖を表現するこのヘンベの獅子舞は非常に面白い要素を含んでいる。

 

参考文献

大沢野町史編さん委員会『大沢野町史』平成17年2月

農業らしい腰の動き「干し物獅子」、埼玉県川越市「石田の獅子舞」から考える環境適合型の獅子舞

環境の影響を受けて所作を形成する獅子舞がある。そういう獅子舞に強く惹かれる自分がいる。そこの土地で継承されるべくして継承されている存在。だからこそ大きな価値を感じるのだ。2024年4月7日、埼玉県川越市の市指定無形民俗文化財・石田の獅子舞を取材するため、藤宮神社を訪れた。その様子を振り返っていこう。

藤宮神社では毎年4月の第日曜日に、春祈祷の獅子舞が行われる。これは五穀豊穣と大きく結びついた農村の獅子舞である。10時に開始して、15時まで実施する流れであるとネットで見かけたので、随分と余裕のある日程だと思って川越市駅から1時間歩いて神社に向かった。着いてみると境内の各所に日程表が貼ってあり、日程のほとんどがお囃子団体の演奏だったことが判明。14時から14時40分だけが石田の獅子舞だということがわかった。神社に到着したのが13時半ごろだったので、奇跡的に時間がマッチして観ることができた。観ることができて本当に良かった。

役柄は舞い手3人(大獅子・女獅子・小獅子)、導き役の山の神(「蠅追(はいおい)」とも言う)1人、花笠をかぶるササラッコ4人、笛吹き多数(5~6人)となっている。山の神は蠅追という名前があるのが面白い。獅子舞と山の神、あるいは蠅追のコラボはよく見られるので、そういう文化の一端であることを思わせる。山の神の衣装には獅子の刺繍が金色に輝いていた。

演目は1庭形式であり、途切れることなく入場から退場までは一続きの演舞となっている。鳥居前から始まり、広場で舞い始め、「出端(デハ)」となって舞い終わり、拝殿前で礼をして終わるという流れである。全体で40分ほどだった。途中、「思いもよらぬ朝霧がおりて」と始まり、2頭の雄獅子が争う雌獅子隠しの演目が始まる。2会の喧嘩が行われ、はじめは大獅子が勝つが、2回目は小獅子が勝つという流れだった。

面白いと思ったのが、まず褒めの言葉と返しの言葉があることである。褒め言葉は「東西東西」から始まる。これを聞いた途端に、石川県や富山県に伝わる加賀獅子の口上を思い出した。東西東西の口上は全国的なものであるのかもしれない。もともとは相撲や歌舞伎などで、「東から西までお静まりなさい」という注目を喚起する声かけであったとも言われている。それはそうとこの褒め言葉、いろいろなものを褒めまわしていた。獅子は龍頭で戸隠大権現の姿のようだとか、山に例えるなら北は日光山、西は富士の山、東は筑波山、南は箱根八里の大江山だと声を張る。また、笛の音が澄んでいて美しいなどと言う。最後に「ホホ敬って申す」で締める。それに対して返し言葉はその褒め言葉に対して比較的短く、御礼を申し上げるような内容だ。この褒め言葉は獅子舞の担い手以外が行い、それに対して返し言葉は獅子舞の担い手が行う。元来、このやり取りは即興で行われたものだが、そこにサクラが現れてさも即興のように見せるようになり、そして現在のように原稿を読む形式張った形になったと考えられる。即興性の面白さは現在感じることはできないが、伝統を受け継ぐことはこのように徐々に簡易的になっていくものだと改めて実感する。そしてなぜ褒め言葉があるのかを考えるときに、褒めの語源は「穂」にあるという説もあり、褒めることが大地の豊穣へとつながっていったのではと推測する。素晴らしい作物や獲物への期待が褒めと言う予祝を生んでいると考えることもできるかもしれない。

また、最も興味を惹かれたのが「干し物獅子」と呼ばれる舞い方の特徴があることだ。藤宮神社は農業と関係が深いため、獅子舞はその神様に奉納するものであるから「干し物」をするように舞うのだという。実際にその動きを見ると、元気がよく、動作が活発で荒い。これが農家の干し物に対する身体性のようだ。川越市ホームページ(2024年4月7日アクセス)によれば、「むしろの上に麦や米を広げて干すように、腰を低くかがめて荒々しく舞う」とある。また、雑談ではあるが7月22日に行われる石田本郷の獅子は「田の草獅子」と呼ばれており、田の草取りの格好が多いことからこう呼ばれるようになったのだと言う。

この石田の獅子舞の始まりは定かではない。ただし、獅子頭が納められた道具箱に「天明乙巳年四月吉日扱之 武州入間郡川越領石田村惣若者中 世話人」と書かれている。江戸時代の天明年間には獅子舞が行われていたことがうかがえる。

それにしても舞い方や所作に奥深いストーリーのある獅子舞を見ることができて本当に良かった。15時前に神社を後にして、川越の商店街を抜けて、川越駅から帰路に着いた。

<参考文献>

川越市川越市史民俗編』昭和43年3月

石川博司『石田の獅子舞を訪ねる』多摩獅子の会, 平成19年5月

川越市ホームページ(2024年4月7日アクセス)

https://www.city.kawagoe.saitama.jp/smph/kurashi/bunkakyoyo/bunkazai/shiteibunkazai/shishiteibunkazai/ishida.html

川越市立博物館『川越市立博物館だより第27 41号 1999-2004』平成16年3月

 

 

獅子頭制作10日目

茨城県石岡市での獅子頭づくりは、今日で10日目。10日目にして分かったことがある。師匠である獅子頭職人は全体的な形をイメージしながら、そのバランスで部分的なパーツを彫っているという感覚がすごすぎる。自分は今までなんとなくでやっていたのだけど、その何倍も先をいっていることがやっと分かってきた。

「眉上の高さと目の高さは同じくらいの位置で彫るのだけど、目の方が少し低い方が良い」という話をされ、そこから突貫工事が始まった。目を彫ってそこを基点に全ての配置を考えるという。それで眉上の高さが決まったら、頭のテッペンまでのカーブをそこから描いていく。緩やかすぎても急すぎてもいけなくて、そこの感覚値は教科書的なものがあるわけではなく「見て覚えるしかない」という。

今日は手が空いている3人の師匠が入れ替わり立ち替わり指導をしてくださった。全く指導の仕方が違うので、誰の意見を聞くかは最終的には自分次第になる。「みんなの良いところを盗んだら良いよ」と言ってくださるのがとてもありがたい。溝ができてしまったら、おがくずで埋めることで解決するのか、それとも全体的な切り崩しをして帳尻を合わせるのか。そこらへんの感覚に特に個性が現れるように思った。

そして、興味深いのはいつも電動機械に乗って見回りに来る先生と呼ばれる人物だ。師匠の師匠に当たる人だろうが、直接指導してもらったことはなく、いつも数分見回りのように来てくれて、そして帰っていく。途中、Youtubeを観て時間を使っている様子も見られる。どこか穏やかで他者を必要以上に気にしなくても良い環境がどこか心地よい。

そして、いつも石岡駅まで車で乗せていってくれる人もいる。この人は家の方向が反対側なのに、いつも大荷物の僕のことを考えて、駅まで送ってくださっているのだ。とてもありがたく、いつもぐちゃっとなった車の中に招き入れてくれ、半纏姿なのが印象的なお方である。

今日は子ども連れのお母さんもみにきて賑やかだった。獅子頭職人周りの人は面白い人ばかりで、同時に学びある人々なわけで、それが獅子頭作りを面白くしている要因かもしれない。

ps.肝心の獅子頭を彫り進めるのがスムーズにいかなくて、師匠たちに彫ってもらっていた。あまりにも進まないので、「獅子は病院に入院させな」と師匠のひとりが持って帰って少し進めてくださることになった。ありがたいことだし、自分ももっとスキルを上げねばと思った。やはり削る速度と滑らかさが圧倒的に課題のようにも感じている。