日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
人生を大いに楽しむために言いたい放題、書きたい放題!!
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山葵田に青笹山の水奔る 

2024年04月22日 13時22分34秒 | 日記


山葵田に青笹山の水奔る    白兎
わさびだにあをざさやまのみずはしる

山葵(わさび)は晩春の季語。子季語に、土山葵、葉山葵、畑山葵、白山葵、山山葵、青茎山葵、赤茎山葵、山葵田、山葵沢。
アブラナ科の多年草。葉はハート形で、春から夏にかけて白い四弁の小さな花をつける。水の流れるところで栽培されるが、人里近い山地にも自生する。地下茎をすりおろし、香辛料として刺身や蕎麦などに添える。葉や茎は、わさび漬の材料になる。
青笹山(山頂標高1,550m)は北に十枚山(標高1,726mの上十枚山と、1,732mの下十枚山からなる双耳峰。)、南に真富士山(静岡市葵区平野と清水区河内の境にある山。第一真富士山と第二真富士山があり、前者は1,343m、後者は1,402m。第一を主峰とするが標高は第二の方が高い。)と、堂々とした山容の二山に挟まれ、中腹にはワサビ発祥地として知られている有東木集落がある。画像出典:静岡市経済局農林水産部中山間地振興課。
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茶畑に八十八夜きつね石

2024年03月22日 11時39分58秒 | 日記

静岡茶の祖・聖一国師(1202〜1280年)は、静岡市葵区足久保と釜石峠一つへだてた大川地区栃沢の生まれ。聖一国師という名は、死後、花園天皇から贈られた称号で、生前は円爾(えんに)と称した。
幼いころから利発であった聖一国師は、5歳で久能寺に入門、その後、各地で修行を積み、嘉禎元年(1235)に宋へ渡った。径山(きんざん)の無凖師範(ぶじゅんしばん)のもとで学び、仁治2年(1241)に帰国するが、その 際、経典をはじめ、様々な技術を持ち帰った。九州に博多織や饂飩を伝えたのも聖一国師の功績といわれる。帰国後、多くの貴族の尊敬を受け、九州の崇福寺や承天寺、京都の東福寺の開山として迎えられた。
寛元2年(1244)、聖一国師は入宋前に学んだ上野国(群馬県)の長楽寺に栄朝禅師を訪ね、その帰り、故郷栃沢の母のもとを訪れる。このとき、宋から持ち帰った茶の種を穴窪(足久保)に播いたことが『東福寺誌』に記されている。茶の栽培法や利用法も学んできた聖一国師は、この地が茶の栽培に適していることを見抜いていたのであろう。このことから足久保が、静岡茶の発祥地とされている。
足久保茶にとって重要な史跡に、「狐石」がある。大きな石の表面に、天明8年(1788)に駿府の茶商・山形屋庄八(初代竹茗)によって刻まれたと伝わる碑文があり、松尾芭蕉が元禄7年(1694)5月に読んだ「駿河路や はなたち花も 茶のにほひ」の句とともに自らの製茶技術復活の業績が記されている。
御用茶の献上停止から時を経て、足久保ではかつての青茶(高級煎茶)の製法が失われていた。それを復活させようと、竹茗は鮒沢(舟沢)の辺りに小屋を構えて茶を栽培し、古老から話を聞くなどして、十年に及ぶ苦心の末、復活に成功した。こうして再び足久保で高級煎茶の生産がはじまったことを伝えている。
この狐石は、地元茶農家の人たちによって大切に管理されている。その傍らには聖一国師の碑が建ち、毎年供養祭が行われる。
「狐石」の名の由来は、ここに狐が棲んでいたことから。また、容易に変化することからお茶の葉を「狐っ葉」と呼ぶこととも関係があるのだろう。画像出典:秋山白兎俳句館。
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大瀬崎の神池に棲む鯰かな

2024年02月24日 11時40分35秒 | 日記

引手力命神社(ひきたぢからのみことじんじゃ)は、静岡県沼津市西浦江梨の大瀬崎(おせざき)にある神社。
創建時期は不明であるが、一説には白鳳13年(684年)に発生した大地震に伴って海底が突然三百丈余も隆起して「琵琶島(びわじま)」と呼ばれる島が出現したため、同時期の地震で多くの土地が海没した土佐国から神が土地を引いてきたのだ、と考えた人々がここに引手力命を祀ったのが最初、とも言われる。「琵琶島」はやがて砂洲の形成により陸繋島となり大瀬崎となった。

大瀬明神の神池は、静岡県沼津市西浦江梨、伊豆半島の北西端から北へ突き出した大瀬崎の先端にある、最長部の直径が凡そ100メートルほどの池である。
伊豆七不思議の一つ。国の天然記念物である「ビャクシンの樹林」に囲まれてはいるものの、海から最も近いところでは距離が20メートルほど、標高も1メートルほどしかなく、海が荒れた日には海水が吹き込むにもかかわらず淡水池であり、鯉や鮒、鯰などの淡水魚が多数生息している。
尚、神池は引手力命神社の境内地であるため、拝観時間は日の出から日没までとされ、拝観料が必要である。また魚や動植物の採取は文化財保護法などにより固く禁じられている。

画像の石は境内地に無造作に置かれていたもので文字か記号か定かではないが書かれている。神社に置かれた石から「力石」ではないかとも推察される。

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丁子屋の梅に紅白遅速なし

2024年02月06日 12時18分36秒 | 日記





丁子屋の梅に紅白遅速なし    白兎

ちやうじやのうめにこうはくちそくなし

梅(うめ)は初春の季語。子季語に、好文木、花の兄、春告草、匂草、風待草、初名草、野梅、梅が香、梅暦、梅の宿、梅の里。梅は早春の寒気の残る中、百花にさきがけて白色五弁の花を開く。「花の兄」「春告草」とも呼ばれ、その気品ある清楚な姿は、古くから桜とともに日本人に愛され、多くの詩歌に詠まれてきた。香気では桜に勝る。画像出典:Japaaan&静岡新聞。
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寒がりの猫は布団に熟寝なす

2024年01月30日 11時33分35秒 | 日記


寒がりの猫は布団に熟寝なす  白兎

さむがりのねこはふとんにうまいなす

布団(ふとん)は晩冬の季語。子季語に、布団、掛蒲団、敷蒲団、藁蒲団、羽蒲団、絹蒲団、蒲団干す、干蒲団、片蒲団。
寒さを防ぐための寝具。蒲団のはじめは蒲「がま」の葉を組んだ円座であったという。蒲団には、綿や藁、パンヤ、羽毛などを入れる。干した蒲団はとりわけあたたかく眠りにつきやすい。画像出典:ねとらぼ生物部。
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鼻水と聞かば串童の鼻之助   白兎

2023年12月17日 11時17分05秒 | 日記

鼻水と聞かば串童の鼻之助   白兎

はなみづときかばかげまのはなのすけ

水洟(みづばな)は三冬の季語。子季語に、鼻水、みずつぱな。
冬の寒い時、風邪を引いていなくても、鼻の粘膜が刺激されて水のような鼻汁が出る。これが水洟である。
静岡市出身の有名人に十遍舎一九がいる。その戯作「東海道中膝栗毛」の発端に次のようにある。(現代語訳)
「武蔵野の 尾花がすえに かかる白雲」
武蔵野の広大なススキの原野が歌に詠まれたのも、昔むかし、まだ定家や西行が浦の苫屋や鴫立つ沢の夕暮れを愛でていたころのこと。
今や夕景色は、吉原仲の町の雑踏にかわり、井の中に鮎が泳ぐ水道が町中を流れ、土蔵の白壁立ち続く大江戸の賑わいっぷり。所せましと家々が立ち並び、漬けもの桶や明俵、破れ傘の置き所からも地主が金をふんだくれば、そりゃ他国から見たら大道に金銀でもまき散らしてあるのかと思って、「どれ、ひと稼ぎ」と後から後から人がやって来る。
その中に、駿河国府中生まれの栃面屋弥次郎兵衛という者がいた。親の代からの立派な商人で、百、二百の小判にはいつも困らぬ身分だったが、安倍川町の色酒におぼれ、旅役者の華水多羅四郎の弟子、鼻之助という若衆(男娼)に入れ込んで──その道にハマる。黄金のカマを掘り当て、夢ごこちでアホウのかぎりをつくせば、やがて身代にもトホウもない大穴を掘りあけ、尻のしまいは若衆とふたり、尻に帆かけて府中の町を夜逃げする。
「借金は富士の山ほどあるゆえに そこで夜逃げを駿河ものかな」
こうして二人は、人を足久保茶にするような軽口をたたいて江戸の町にやって来た。画像出典:不詳。
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椎茸の記録に伊豆国多し

2023年11月07日 12時10分45秒 | 日記


椎茸の記録に伊豆国多し    白兎

しひたけのきろくにいづのくにまねし

椎茸(しひたけ)は三秋の季語。子季語に、椎茸干す、茸干す、干茸。
椎茸(しいたけ)は、ハラタケ目-キシメジ科に分類されるキノコである。異説ではヒラタケ科・ホウライタケ科・ツキヨタケ科ともされる。
和名のシイタケは、特にシイ(椎)の倒木などに発生したことから、この名が付けられている。
中国では紀元前5000~4500年の浙江省の遺跡にきのこが出土している。唐時代の詩文にあり、五代時代には菌(きのこ)の記載があり、南宋時代は香椎と栽培法が記載されている。日本渡来は9世紀と考えられる。椎茸は天然の茸であるから、さぞかし昔から食べられていたことが推測されるが、文献に登場するのは意外に新しい。当時、日本で栽培されていた椎茸の多くは中国に輸出されており、最も古いのは、1237年に道元が宋(中国)に留学した際、日本船が着くと寺の老僧が乾シイタケ(倭椹)を買いに来たという話で、『典座教訓』に載っている。その後は1465年の日記に伊豆の円城寺(現・韮山町)から将軍足利義政に贈ったことが記録に残されている。また、『節用集』(当時の辞典、1495年)に登場するくらいで、あまり記録に残っていない。
『兎園小説』文政8年(1825年)という江戸時代の書物に日本のシイタケ栽培草創期の話がある。伊豆の岩地村という所に猟師の子で斉藤重蔵という者がいた。14歳の時、家を出てシイタケを作り、その商売のために諸国を歩き回っていたが、行方がわからなくなり、30年近くたった。ある日、豊後の岡という所から25両が岩地村へ送られてきた。ところが全然心当たりの無いことなので、一体誰が送金してきたのかと問い合わせたら、その昔、家を出た重蔵からであった。
干し椎茸にも傘の厚い順から「冬茹(どんこ)」「香茹(こうこ)」「香信(こうしん)」などの種別があり、それぞれ香りや味に個性があるが、いずれも食物繊維やミネラルは豊富で、低カロリーである。
シイタケの人工栽培がどこで始まったのかは諸説がある。一つは豊後国の炭焼き源兵衛が寛永の頃始めたという説、もう一つは豊後岡藩藩主中川家の記録で寛文4年シイタケの栽培技術を導入するために伊豆国三島の駒右衛門を招いたのが始まりという説。豊後・伊豆以外では、津藩が1700年代末に直営事業でおこなっており、1800年代には紀州藩、徳島藩、長州藩、土佐藩、人吉藩、薩摩藩、尾張藩、盛岡藩、宇和島藩、さらには蝦夷地(北海道)で栽培が広がっていた。
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海豚狩り安良里に残る供養之碑

2023年11月03日 12時06分41秒 | 日記

海豚狩り安良里に残る供養之碑   白兎

いるかがり あらりにのこる くやうのひ

海豚(いるか)は三冬の季語。子季語に、海豚狩、真海豚、ごんどう鯨。
クジラ類のうち、歯がある歯鯨類に属し、体長は大体五メートル以下。多くは背びれを持つ。知能が高く芸を仕込むこともできる。安良里出身の小学校の恩師から安良里漁港の海豚狩りの話は何度か聞いた。画像出典:おでかけたいむす。
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卵茸無毒と識るも口にせず

2023年10月16日 13時36分30秒 | グルメ


卵茸無毒と識るも口にせず   白兎

たまごだけむどくとしるもくちにせず

茸(きのこ)は晩秋の季語。
卵茸は、ハラタケ目テングタケ科テングタケ属のテングタケ亜属タマゴタケ節に分類されるキノコの一種。夏から秋にかけて、広葉樹(ブナ科・カバノキ科)および針葉樹(マツ科)の林内、あるいはこれらの混交林に孤生ないし点々と群生する。鮮美な色調を有することから、日本では有毒キノコのように誤解されがちだが、実は無毒であり優秀な食用キノコとして人気がある。キノコ自体壊れやすいため、一般にはほとんど流通していない。茹でると煮汁に黄色い色素が出るため、色を楽しむには茹でずに焼いた方がいい。味は強いうま味があり、フライや炊き込みご飯、オムレツなどによく合う。殻を破る前の幼菌は生食されることもある。現在、信州大学で栽培に向けた研究が進められている。写真はFBフレンド満森傑さん撮影。

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神宮に神嘗祭の神酒捧ぐ

2023年10月15日 16時14分43秒 | 日記


神宮に神嘗祭の神酒捧ぐ    白兎

じんぐうにかんなめさいのみきささぐ

神嘗祭(かんなめまつり)は晩秋の季語。子季語に、度会新嘗祭、かんなめさい、しんじやうさい。 
十月十七日、新穀で造った新酒と神饌とを、伊勢神宮に奉納し、五穀豊穣を感謝する祭礼。新嘗祭とともに、大切な国民の祭日であったが、戦後、現行憲法により廃止された。皇室では賢所で祭儀が、伊勢神宮でも祭礼がとり行われている。画像出典:伊勢志摩経済新聞。
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