天と地と

連載自叙伝『追憶』シリーズ
「ふきのとうノ咲くころ」

『追 憶』 ⑭ ~若葉のころ~

2016年10月09日 | 自叙伝『追憶』シリーズ
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- 里帰り -

 ひと月遅れのお盆を前に、待ちに待った田舎へ行くことになった。

 上野駅では、人々が、夜行に乗るために、昼頃から行列を作って乗車を待つのであった。
 帽子にMPと印された、国防色(カーキ色)の服を着けたアメリカ兵が、
 駅の構内を右往左往しながら、乗客の整理をしていた。
 車内に入るだけ人をつめ込み、割り込んで来た人を、引っこ抜くように…。
 その状況を見て、子供心に、外国に居るような錯覚に陥って、寂しくなったものだった。

 駅に来る途中、四年前の思い出を辿ってみようと、上野公園を一回りし、
 心弾ませながら、石段に足をかけた瞬間 …。

 ぞーっとした。

 石段は、人でうずまっているのであった。
 髪の毛や、髭がぼうぼうと伸び、
 手のない人、足のない人達が、ボロボロの衣服をまとい、
 石段を上下する人々に、物乞いをしているのであった。

 この時は、哀れ、気の毒、かわいそうなどといった感情は湧かず、
 恐ろしい、怖い、早くその場を逃れたいという思いで一杯であった。
 叔母もその時、そう感じていたのだろうか、
 私の手を引いて、引き返してしまったのであった。

 「かわいそうに、戦争は嫌だね。」
 「こわかった …。」

 二人は、大きく息を吸って、溜め息をつくのであった。
 それから延々と改札の順番を待っていた。

 午後三時ころまでは、構外の列の中で、暑さをこらえていたが、
 ようやくその頃から、構内に入って待つようになった。

 叔母が、トイレに立って行った時に、
 退屈だったので、おにぎりを一つ取り出して食べ始めようとしたところ、
 どこからともなく浮浪児が二人やって来て、じっと立ちながら、

 「おくれよう。おくれよう。」
 「いいじゃんか。一つおくれよう。」
 
 と二人に言い寄られた私は、
 おろおろとして、おにぎりを持ちながら、
 蛇に狙われた獲物の様に、身じろぎも出来ないでいるところへ、おばさんが帰って来てくれた。
 
 「スヱ子、あげなさい。」
 と私の持っているおにぎりと、もう一つカバンから取り出して、
 
 「二人で仲良く食べなさい。」
 と、手渡すのでした。
 子供達は、もらうが早いか、一目散に駆けて行ってしまった。

 しかし、

『追 憶』 ⑬ ~ 若葉のころ ~

2016年09月25日 | 自叙伝『追憶』シリーズ
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- おじさんの手造り -

 子供達はいつもの如く、大家さんの縁先に
 三々五々と集まって来ていた。
 大家さんのおじさんは器用な人で、
 時には、竹を割って、蝋を流し込んで、それに太い木綿糸を入れて、
 両方の竹を合わせて、蝋が固まった頃を見計らって、水に入れると、
 かぱっと竹の筒から剥がれて、ロウソクの出来がり。

 またある時には、子供の小さな下駄の型を格好良く作って、
 それに赤のペンキを塗って乾いたところに、
 ピンク色で梅の花を描いて、私の下駄が出来たのだった。

 ただ、叔母に、鼻緒を作ってもらった時には、
 大変上等なものが出来上がったのまでは良かったけれど、
 それは雨には強いが、暑さには弱かった。
 足の下にペンキが、くっついて、
 だんだんに梅の花も、赤い地の色も、
 滅茶滅茶になってしまったこともあった。



- 買い出し -

 当時、日本全国民は、自給自足を強いられ、
 お金がいくら有っても、物品とは換えられず、
 物々交換が最大の欲しいものを得る手段であった。
 衣類は食料に代わってしまった。
 叔母も、リュックを背負って、近所のおばちゃん達と、近郊の農家へ買い出しに。
 その都度、着物や反物を持って行くようであった。
 おさつ、お米、野菜をリュックにいっぱい、
 ドッコイショと帰って来ると、とても疲れているようであった。

 叔母のところに来てからは、食べ物で不服を言うようなこともなかった。
 フスマ粉の“すいとん”も結構おいしかったし、
 ご飯も、たまには、“おさつ”のさいの目切りも入っていたが、
 何を食べても、おいしかった。
 ここでは、我が儘は出来ないものと、堪忍していたものか、
 それ以上に、おばさんが、私の好きなものを食べさせて下さっていたお陰かもしれない。


 ~ ⑭へつづく

『追 憶』 ⑫ ~ 若葉のころ ~

2016年09月25日 | 自叙伝『追憶』シリーズ
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- 弟 -

 そうこうしているうちに、若葉もすっかり色鮮やかな線になっているのであった。
 六月に入った或る日、
 母が弟を連れて遊びに来てくれたのであった。
 
 「おどろいた。」

 おばさんも、満足な顔でニコニコしていた。

 「さあ、さあ、よく来てくれましたこと。暫くゆっくりしていけるでしょ。」

 「うん。四、五日世話になるつもりだからよろしく。」
 と、母は日焼けした顔で、元気そうでしたが、旅の疲れが感じられた。

 「わぁ!母さんだ。陽一だ。」

 嬉しさが隠し切れず、弟と手を繋いでぐるぐる廻ってみるのであった。

 弟は私より四つ下で、丈夫な私と反対に、細くて、あんまり元気ではなかった。
 十六年の八月に、七カ月の未熟児双生児の片割れで生まれた弟を、食糧難と産後の体調が悪さで、親子共々、大変難儀をしたが、
 女の子だけの我が家に授かった長男のため、母は、必死になって育てたのであった。
 母のお乳も良く出ず、ミルクも簡単に買い求めることも出来ない悲惨な時世に生まれた弟は、不幸でしたが、
 母は、忙しい中で、自分の体をも省みず、小まめに野菜スープを作ったり、重湯を作って、こして呑ませたりした。
 そして、ようやく四才になった弟を、こうして母と旅行が出来るまで元気に成長した弟を、
 母は、可愛くてしょうがないといったところでした。

 おみやげが出された。
 「何にも珍しいものはないけど、丁度節句に、しん粉をたくさん作ってあったので、スヱ子も食べたいだろうと思って・・・。」
 ハトロンの紙包みから、かしわ餅が、ドッサリ出てきた。
 ひと月遅れの端午の節句。
 しん粉を水でよく湿して、雪玉位の大きさにして、蒸し器に並べて重ね、蒸し上がったのを取り出して、もう一度よくこねって、
 それを大福のように餡子を入れて、その両面に、かしわの新葉を重ね合わせて出来上がり。
 お餅は、二、三日の間は軟らかくなっていて、餅粉のようにお腹にもたれることもないもので、私にとって好きなものの一つであった。
 それを作る時は、祖母も姉達も一緒に手伝って、私などは、失敗作で、餡子がはみ出したりして・・・。
 
 「それは、お前が食べな。」
 と姉達に言われると、

 「陽一にやる。」
 弟は、何も分からず、おいしそうに食べていたのであったが、今は、そうはいかない。四才だから・・・。
 
 「じゃ、お茶にしようか。」
 叔母は、皿に乗っかるだけ載せて、テーブルに出した。

 

 叔母も一つ。私も、一番葉っぱの青々したのを選んで鼻に持っていった。いい香りが、プーンとして、懐かしさがじんと胸いっぱいに広がった。
 
 きっと姉達は、近所の子供達と一緒に、かしわの葉を採るため、連れだって、カッコウ鳥の声のする、のどかな山に行っただろうな・・・。
 今年生まれた若葉を、一枚一枚、破かないように、何十枚も採っただろうな・・・。
 丁度その時期には、茱萸(グミ)も色づき、黄いちごも熟れて、ついでに、手籠に採りながら食べて、
 口の中が渋かったり、酸っぱかったり、甘かったり変化する心地よさを味わいながら、満足な気持ちで帰っただろうな・・・。
 その味が、ふと口の中に感じた。その瞬間、葉っぱを剥がして、餅を口の中に頬張った。
 
 「うーっ。」
 
 「何やっている。慌てなくてもたくさんあるのに。」
 
 母にたしなめられ、自分のいらだちを、食いしん坊と勘違いしているのに、ほっとするのであった。

 食べた後、弟が、
 「スヱ子、汽車ごっこしよ!」
 
 「うん!やろ!陽一は下。あたいは上。」

 押入れを開けて、
 
 「ガッタン、ゴットン、ガッタン、ゴットン。」

 二人で大はしゃぎしているうちに、弟は旅の疲れが出て、下の押入れで、スース―眠ってしまっていた。

 次の日、
 せっかく来てもらった、母と弟のためにと、叔母が、多摩御陵へ案内してくれたのであった。
 乗合いバスに初めて乗って、弟と四人は街路樹の立ち並ぶ街並みを眺めながら、はしゃぎ過ぎて、母にたしなめられ、
 二人はちょっぴり照れながら、静かにしていると、
 
 「もうすぐだからね。」
 おばさんのやさしい言葉でほっとする二人でした。
 
 玉砂利を踏んで、四人は手を合わせて、御陵を参拝して、そこにある大きな池の錦鯉の群れに驚いてしまったものでした。
 田舎の池の鯉は、真鯉が多く、数が少ない。しかし、ここの鯉の数といい、色彩といい、
 あまりに見事であった。また、周りの風景も、素晴らしかったからだろう。
 
 二、三日、弟は、私の学校から帰るのを待って、仲良く遊んだ。
 田舎にいる頃は、毎日のようにケンカばかりしていたのに、弟がとても可愛く感ずるのでした。
 
 もう日が経つのが早くて、母と弟は、帰って行ってしまった。
 「七月二十日過ぎから夏休みだから、その時は、スヱ子と一緒に遊びに行きますよ。」
 叔母が母に言っているのを聞いていたので、別れがつらくなかった。 
 

 ~ ⑬へつづく
  
 


『追 憶』 ⑪ ~ 新たな生活の中で ~

2016年09月24日 | 自叙伝『追憶』シリーズ
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- 楽しい遊び -

 或る日、学校から帰って、おやつを食べていた。
 私と同い年のテルヱちゃんが、友達をたくさん連れて、
 
 「紙芝居見に行かん?」
 
 「え!どこ?行く行く。」
 
 そう言えば、近くの空き地に、拍子木を打って廻っているおじさんを見かけたが、
 何をしているのかと思ったものだが、そのおじさんが紙芝居屋さんであったのでした。
 “鞍馬天狗”や“のらくろ”、“黄金バット”や、ちょっと悲しい物語のうち三編位を、
 二円五十銭か三円出して、飴玉か切こんぶを買わされて、それを食べながら見た。

 

 「第一巻の終わり。続きは次回に。」
 
 「カカンカンカン」と拍子木を鳴らされて、三々五々、夕食が待っている家に帰るのであった。
 これが、則明ちゃんと遊ぶのと一緒の楽しみになってしまった。

 近所の友達もたくさん増え、遊びと言えば、毬つきが流行っていた。
 大家さんの縁先が、広いコンクリートになっているため、毬つきの絶好の場所となった。
 竹の子の皮に梅干しを挟んで、黄色い部分が赤くなるまでしゃぶりながら順番の来るのを待っていた。

 “あんたがたどこさ、ひごさ、
  ひごどこさ、くまもとさ、
  くまもとどこさ、せんばさ、
  せんばやまにはたぬきがおってさ、
  それをりょうしがてっぽでうってさ、
  にてさ、やいてさ、くってさ、
  それをこのはで、ちょいとおっかくせ”

 去年までは、

 “轟く‘砲音’‘飛び来る弾丸’
  荒波、洗う、デッキの上に、
  闇を貫く、中佐の叫び、
  杉野は何処、杉野は何処や、
  船内隈なく、尋ねる三度、
  呼べど答えず、探せど見えず、
  船は次第に波間に沈み、
  敵弾いよいよ、辺りに響く”

 これが手毬唄で、

 姉達の、どんどんスピードを上げて毬をつくのを見ていた私にとっては、
 今の手毬唄が、何となく拍子抜けして聞こえたのであった。
 しかし、テルヱちゃんの持っている軽くて良く弾む、スポンジを渦巻にして作った手毬が
 欲しくって、欲しくって、叔母にねだって、とうとうテルヱちゃんと一緒におもちゃ屋さんに行って買ってきた。
 早速使ってみると、思ったより手応えがなく、加減が難しく、慣らすまで大変であった。



 ~ ⑫へつづく
 
 




『追 憶』 ⑩ ~ 新たな生活の中で ~

2016年09月24日 | 自叙伝『追憶』シリーズ
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- お嫁さん -

 叔母も大分世話好きなところがあったらしく、その織物工場の二男のお嫁さんにと、
 田舎の親戚のお姉さんをお見合いさせたのであった。
 
 話がまとまって、結婚式の前の晩、私達の家にお姉さんが泊まってくれた。
 暫くぶりに、田舎の様子を聞くことが出来、話をする言葉が懐かしく、
 いつもなら、とっくに眠くなる時間なのに、目が冴えてしまうのであった。
 
 「さあ、明日は、お嫁さんの仕度をしなきゃいけないから、もう休みましょうね。」
 
 布団に入ってから、キヱ姉さんは背が高く色白で、顔立ちも良いし、きっと、綺麗な花嫁さんが出来ることだろうと、
 明日が楽しみで、子供心がウキウキしてくるのであった。
 
 田舎では、近所のお姉さんがお婿さんを迎える結婚式があった。
 その時のお嫁さんは、文金高島田に、綺麗な花嫁衣裳をつけていた。
 その花嫁さんが思い出され、
 
 

 此の間の音楽の時間に、
 
 “十五夜、お月さん、一人ぼち
  桜ふぶきの花かげに、
  花嫁姿のお姉さま
  お馬に揺られて、行きました”

 前髪を上げ、髪を肩の下まで長くして、とても歌が上手な同級生のチエ子さんが、澄みきった声で、歌ってくれた。その歌声が聞こえてくる。

 目が覚めたら、すがすがしい朝でした。
 丁度日曜日にあたっていたため、おばさんとお姉さんが色々準備を甲斐甲斐しくやっているのをじっと見ていた。
 
 「じゃ、お姉さんと髪結いさんに行って来るからね。」
 
 「お姉さん、きっと綺麗だから、素晴らしいお嫁さんになるんね。」
 
 「まぁ、この子ったら。」
 
 ちょんと、おでこをつついて出かけて行った。
 
 お昼頃、二人は、綺麗に髪を結って、黒に裾模様の着物を着ているので、何だか不思議であった。
 自分の想像しているものではなかった。
 花嫁さんは、文金島田に、おちょぼ口の化粧のはずであったのが、
 鳥の羽飾りで、首筋がちょっと隠れる位の外巻きの髪型で、化粧も厚くなく、あっさりと、
 キヱ姉さんの艶のある肌が感じられる程度に仕上げられ、留袖がとても良く似合っていた。
 当時、品不足もあって、簡素化したものらしい。
 


- パーマネント -

 この頃から、パーマネントが流行して来たようである。

 大家さんの、チー姉ちゃんも短めの横分けで、両脇に細かいチリチリの毛がフワッとなった感じのパーマをかけているのを見て、
 姉達と一緒に囲炉裏の火のところに、火箸を差し込んで、唾をつけてチュッという位に熱したものを髪の毛に巻きつけ、
 チンチクリンにして、おしゃれごっこをしたことを思い出した。

 パーマネントは、どうするのか見たかった。
 丁度、叔母が洋髪を結いに行くというので、早速ついて行って見た。
 驚いてしまった。
 頭いっぱいに、電気の線が何十本も繋がっていて、暑い暑いとうちわで扇いでいるのであった。
 今にも髪の毛が燃えてしまうのではないかと、はらはら心配したものであった。  


 ~ ⑪につづく




『追 憶』 ⑨ ~ 新たな生活の中で ~

2016年09月22日 | 自叙伝『追憶』シリーズ
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- 子守り -

 お友達と何の約束もない日の一番の楽しみは、向いの伊藤さんの則明ちゃんをあやすことでした。
 則明ちゃんは、二才で、色白で、丸々と太った大きな赤ちゃんでした。
 おんぶをすると、どしっとして、でも背中の感触が何とも言えなかった。
 子守りをしてくれたからといって、則明ちゃんのおばさんが、しじみ貝を綺麗な布で括ったものを作ってくれたり、
 お手玉を作ってくれたりするせいもあったのかもしれない。

 「おばさんちに、どうして綺麗な布地(きれ)がたくさんあるの?」
 子供心に羨ましかったのかもしれない。
 
 「則明のお父さんは、織物工場で働いているんでね。スヱ子ちゃん、やっぱり女の子ね。欲しかったらあげるよ。」
 と言って、色々な切れ端を揃えたものを私の手に乗っけてくれた。
 その布は、暫く大事に空き箱に入れてあったものである。

 

 そう言えば、道路の片側を流れる小川の水が赤になったり、紫になったり、色々に変化するのを不思議だと思っていたが、
 それが、工場から流れて来ていることが分かった。

 八王子は、織物が盛んで、或る日、光ちゃんと久保田さんの物置に入った時、
 大きなボール紙に色々な模様を切り抜いたものが何枚かあった。
 小さめのものを貰って、下に紙を敷いて、その型をクレヨンでなぞって遊んだことがあったが、
 今考えてみると、あの型紙が布地の模様ではなかっただろうかと思う。
 思えば、大家さんの親戚にも織物工場を経営している家が、一町位離れたところにあった。


 ~ ⑩につづく




 

『追 憶』 ⑧ ~ 新たな生活の中で ~

2016年09月22日 | 自叙伝『追憶』シリーズ
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- 給食 -


 「いってまいります。」
 
 「いってらっしゃい。」

 この頃は、学校が楽しくてしょうがなかった。
 昼食には、給食が出されるのであった。
 コッペパンと魚の缶詰や果物の缶詰、干しすももなど、珍しい食べ物が出るので、お昼が待ち遠しい。
 何しろ一般家庭ではめったに食べることのないものであるから。

 

 しかし、それは毎日ではなかった。
 第九小学校は、戦災を無事逃れて健在であったが、焼失した学校の生徒と共同使用という事で、二部授業が行われ、
 一週間交代で午前と午後の登校になっていたのであった。



- 教科書 -

 教科書は、去年まで、国民小学校であったため、日本全国共通で、兄弟が何代にもわたってお下がりのものが使えた。
 私などは、四女なので、大分貫禄のある(使い古しの)ものであった。

 「今日、用意するように言ってありましたね。ハサミと針と糸。」
 先生は、見廻して、全員用意しているかを確かめて、ザラ紙に印刷されたものを、各々に五枚ずつ配った。

 「では、五枚の西洋紙を、まず縦に半分に折って下さい。」
 「そう、出来ましたか。」
 「それを、上手にハサミで切り離して下さい。次に、それをもう一度半分に折ってみて下さい。全部で十組ありますね。」
 「では、その十組を揃えて、右手の端から二センチのところを、糸を通した針を使って、先生のやる通り真似て下さい。」 
 そのようにして、一冊の教科書が出来き、そして、これが今年の教科書となった。

 丁度、二年の算数の授業は、時計の勉強であった。
 「お昼の十二時は、零時」というところが理解できず、立たされたことがあった。
 また、“十時”以降の時間発音が良く出来ず、
 「ジュージ」と発音したつもりが「ズージ」と聞こえると、冷やかされたことが頭に残っている。
 時計の勉強が早く済むように、自分も一生懸命頑張ったものでした。



 ~ ⑨へつづく
 




『追 憶』 ⑦ ~ 新たな生活の中で ~

2016年09月22日 | 自叙伝『追憶』シリーズ
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- 故郷を想う夜 -

 その夜は何となく眠れなくて、吉田さんのところで味わったショックがやっぱり残っていたのであった。
 
 じっと目をつむると、
 「里では一月遅れのひな祭りが済んだろうなぁ・・・。」
 「今年も川の土手で餅草(よもぎ)を取って、菱餅や大福餅を作って、
 小春日和で、ちょろちょろと山肌を流れる雪解けの沢のせせらぎの中の小さな岩をよせてみると、
 沢蟹(全長五センチ位)がぴょこっと出て来るのを捕まえて、母に茹でてもらい、
 山の苔を取って来て、その上に赤く茹で上がった蟹を這わせて、餅を作って飾っただろうなぁ・・・。」
 「姉さん達は、隣の栄子さんのうちに廻って、皆んなでキンピラごぼうで甘酒をご馳走になったろうか・・・。
 田にし和え食べたろうか・・・。」

 

 水の張った田んぼには、メダカがすいすい泳ぐ下では、日向を浴びながら、のんびりと心地良さそうに動いている田螺(たにし)を、
 竹の棒に使い古した木杓を縄で括りつけて、静かに水を濁さないようにすくい上げては、バケツの中に入れ、家に持ち帰って、
 一日中、泥を吐かせて、柔らかい野びろと酢味噌和えにしたもの、すなわち“田螺和え”、
 これを食べると春の実感がわくのであった。

 田舎では、お互いの家の雛壇を見せ合って、「今年はこの人形が増えたんだよ。」と、自慢してみたり。
 甘酒をご馳走になったりする風習があった。
 また、桃の花が四月三日には間に合わず、梅の花を飾るのであった。

 故郷の、あまりにものどかな情景が、思い出されて、目頭がじんとして来るのであった。

 おばさんに感づかれては困ると思い、布団を引っ張り上げ、目を押さえながら涙を流してみると、
 自然に気持ちが落ち着いて、次第に眠りに就いていくのであった。


 ~ ⑧につづく
 

 


『追 憶』 ⑥ ~ 新たな生活の中で ~

2016年09月19日 | 自叙伝『追憶』シリーズ
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- 新しい友達 -

 クラスの友達とも、いつの間にか、屈託のなく話せる様になっていた。
 親しい友達も出来た。
 吉田トモちゃんといって、とてもしっかりして、やさしくて、私にとっては頼りになるお友達であった。
 学校からも一緒に帰るようになっていた。
 
 或る日、
 「あたいのおばさんに紹介するから寄って。」と誘ってみた。
 
 「いいわ、そしたらおばさんに、あたいんちに遊びに行ってもいいか、訊いてね。」

 このころ、家の付近の様子が分かってきたので、もう少し遠くの方へも行ってみたいと思っていた矢先に、
 吉田さんに誘われたことは、とっても嬉しかったのであった。

 「ただいま」

 叔母は、繕いものをして待っていてくれた。

 「おかえり。おや、お友達じゃない。どなた。」
 
 「吉田です。こんにちは。」と頭を下げた。

 「吉田さんちへ遊びに行かんか言うんで、遊びに行っていい?」
 
 叔母は心配そうに、
 「スヱ子は、ここから遠くに出たことがないから、帰りが無理でしょ。もう少し慣れてからにしたら。」

 「いいじゃんか。おねがい。」
 と、この時は一生懸命でした。

 その時、吉田さんが、
 「中村さんが帰れるところまで、送って来てあげるんから」と言ってくれたので、

 「それじゃ、お願いしますね。」
 叔母も安心して出してくれた。

 「行ってきます。」
 
 「はい、これおやつに。」
 叔母が作っておいてくれた蒸しパンを二人で食べながら、手をつないで、一度も通ったことのない道を通って、吉田さんの家へ向かった。
 高尾橋を渡って、駅の裏の方にあたるところであったようだ。

 そこで驚いた。
 辺り一面、家らしい家がないのであった。
 そこには、焼けたトタン板を重ねて作られたウチが立ち並んで立ち並んでいるのであった。
 私は瞬間、「これが爆弾を受け、焼かれた家々だ。こんな酷いことってあるものか。」と胸がいっぱいになってしまった。

  

 「ここが私のおうち。おどろいた?」

 「ううん。」
 と、頭を横に振ったが、驚きは隠しきれなかった。

 「お友達なんよ。中村さんって子。秋田から来たんや。」

 「よう来たんねぇ。まぁあがんな。」
 割烹着を付けた、やさしいおばさんであった。

 「こんにちは。」

 板の間には、薄いゴザを敷いて、リンゴ箱に食器類が並べられて、他には目ぼしいものは何もなかった。
 しかし、吉田さんは、私の怪訝な様子を気にも留めず、
 「あたいに、妹がおったんけど、去年の戦災で死んでしまったんや。」

 「え、妹が? かわいそう。悲しいでしょ?」

 それには答えないで、
 「〇〇さんとこのおばあちゃんも、〇〇さんとこのクニちゃんも・・・」と、
 死んだ人の名前や、行方不明の人を数人並べていたが、
 私の頭の中では、吉田さんの妹が、人ごみの中で泣き叫んでいる様子がちらつくのであった。

 今、その時の吉田さんの心境を考えてみると、戦災も酷かったけれど、戦後の暮らしがあまりにも悲惨で、
 悲しみは忘れ去らなければならないのではなかったろうかと思う。

 「母ちゃんおやつない?」

 「おさつがあるんや。良かったらあがって。」
 お皿に、四、五本のせて持って来てくれた。

 「あがんな。」

 「ありがとう。」

 二人とも一本ずつ取って口にほおばった。

 お手玉で遊んだり、ふざけっこをしているうちに、あっという間に日が大分傾いたのに気が付き、途中まで送ってもらった。

 一瞬、いろんなことで驚いたけれど、そこは子供。遊びに熱中したら、さっき受けたショックは、すっかり忘れて、
 楽しかったことが胸いっぱいに広がり、
 「こんどまたね。」
 
 「さようなら。」
 と別れたのでした。



 ~ ⑦につづく




 

『追 憶』 ⑤ ~ 蕗の薹の咲くころ ~

2016年09月18日 | 自叙伝『追憶』シリーズ
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- 転校届 -

 八王子に来て一週間。春休みもあと残すところ五日位しかなくなった。

 転校届をするため、中野区役所へ叔母について行ってみた。
 区役所に入って行って驚いた。昔風の家の中で、手続きをするのであった。
 故郷では、白く塗った大きな建物が町役場であったため、驚きと共に、何かほっとした気持ちになった。
 そこいらは、付近の景色が故郷によく似ているところがあった。


 春休みも終り、二、三日してから、叔母の手をとって、ぼんやりした春風を感じながら学校の坂道を登って行った。

 校門には、“八王子市立第九小学校”とあった。
 校門からは、広い校庭と大きい校舎がそこにあった。しっかりした古い建物で、郷里の女学校の校舎に似ていると思った。
 玄関の上には、バルコニーがあって、素敵なポーチがついて、両脇には、シュロの木が立ち並び、向かって右側には、二宮金次郎の銅像が建っていた。

 
 
 まっすぐ職員室を伺った。
 職員室からは、私の入る学級が決められるまで待たされた。

 女の先生が近づいて来て、
 「私が担任の吉沢です。よろしく。」

 「この子が中村スヱ子と申します。私はこの子の叔母でございます。大変お世話になります。何分にも宜しくご指導下さいませ。」
 
 「この学年には、男の子だけの級、女の子だけの級、それから男女共学の級がありますが、中村さんは、女子国民学校からお出での様でしたので、
 私が担任する女の子だけの級で、桜組の生徒になることになりました。では、教室にご案内しましょうね。」
 
 私は、男の子の居る学校など考えてもいなかった。男の子と手を繋いで学校へ行くものなら、きかん坊達に冷やかされたり、いじわるされたものであったから、
 もし男の子のいるクラスに編入されてしまったら、きっとおどおどして、悲しくて泣いていたかもしれない。

 吉沢先生は、若くて、綺麗で、その時分流行っていた髪型で、前髪をくるっと二つ位ロールに乗っけて、下げた両側の毛は内巻きにして、耳のところできちんとかき上げ、ピンで押さえて、
 何となく柔らかみを感じたものであった。
 昨年の担任は、吉沢先生と同い年位で、髪を全部束ねてきりっと後ろでまとめていたのと比べて、
 やっぱり都会だからかしら・・・。戦争が終わったからかな・・・。
 でも、そんなことはどっちでも良かった。
 とにかく、先生がやさしい先生で良かったと、ほっとするのであった。




 ~ ⑥につづく