- 弟 -
そうこうしているうちに、若葉もすっかり色鮮やかな線になっているのであった。
六月に入った或る日、
母が弟を連れて遊びに来てくれたのであった。
「おどろいた。」
おばさんも、満足な顔でニコニコしていた。
「さあ、さあ、よく来てくれましたこと。暫くゆっくりしていけるでしょ。」
「うん。四、五日世話になるつもりだからよろしく。」
と、母は日焼けした顔で、元気そうでしたが、旅の疲れが感じられた。
「わぁ!母さんだ。陽一だ。」
嬉しさが隠し切れず、弟と手を繋いでぐるぐる廻ってみるのであった。
弟は私より四つ下で、丈夫な私と反対に、細くて、あんまり元気ではなかった。
十六年の八月に、七カ月の未熟児双生児の片割れで生まれた弟を、食糧難と産後の体調が悪さで、親子共々、大変難儀をしたが、
女の子だけの我が家に授かった長男のため、母は、必死になって育てたのであった。
母のお乳も良く出ず、ミルクも簡単に買い求めることも出来ない悲惨な時世に生まれた弟は、不幸でしたが、
母は、忙しい中で、自分の体をも省みず、小まめに野菜スープを作ったり、重湯を作って、こして呑ませたりした。
そして、ようやく四才になった弟を、こうして母と旅行が出来るまで元気に成長した弟を、
母は、可愛くてしょうがないといったところでした。
おみやげが出された。
「何にも珍しいものはないけど、丁度節句に、しん粉をたくさん作ってあったので、スヱ子も食べたいだろうと思って・・・。」
ハトロンの紙包みから、かしわ餅が、ドッサリ出てきた。
ひと月遅れの端午の節句。
しん粉を水でよく湿して、雪玉位の大きさにして、蒸し器に並べて重ね、蒸し上がったのを取り出して、もう一度よくこねって、
それを大福のように餡子を入れて、その両面に、かしわの新葉を重ね合わせて出来上がり。
お餅は、二、三日の間は軟らかくなっていて、餅粉のようにお腹にもたれることもないもので、私にとって好きなものの一つであった。
それを作る時は、祖母も姉達も一緒に手伝って、私などは、失敗作で、餡子がはみ出したりして・・・。
「それは、お前が食べな。」
と姉達に言われると、
「陽一にやる。」
弟は、何も分からず、おいしそうに食べていたのであったが、今は、そうはいかない。四才だから・・・。
「じゃ、お茶にしようか。」
叔母は、皿に乗っかるだけ載せて、テーブルに出した。
叔母も一つ。私も、一番葉っぱの青々したのを選んで鼻に持っていった。いい香りが、プーンとして、懐かしさがじんと胸いっぱいに広がった。
きっと姉達は、近所の子供達と一緒に、かしわの葉を採るため、連れだって、カッコウ鳥の声のする、のどかな山に行っただろうな・・・。
今年生まれた若葉を、一枚一枚、破かないように、何十枚も採っただろうな・・・。
丁度その時期には、茱萸(グミ)も色づき、黄いちごも熟れて、ついでに、手籠に採りながら食べて、
口の中が渋かったり、酸っぱかったり、甘かったり変化する心地よさを味わいながら、満足な気持ちで帰っただろうな・・・。
その味が、ふと口の中に感じた。その瞬間、葉っぱを剥がして、餅を口の中に頬張った。
「うーっ。」
「何やっている。慌てなくてもたくさんあるのに。」
母にたしなめられ、自分のいらだちを、食いしん坊と勘違いしているのに、ほっとするのであった。
食べた後、弟が、
「スヱ子、汽車ごっこしよ!」
「うん!やろ!陽一は下。あたいは上。」
押入れを開けて、
「ガッタン、ゴットン、ガッタン、ゴットン。」
二人で大はしゃぎしているうちに、弟は旅の疲れが出て、下の押入れで、スース―眠ってしまっていた。
次の日、
せっかく来てもらった、母と弟のためにと、叔母が、多摩御陵へ案内してくれたのであった。
乗合いバスに初めて乗って、弟と四人は街路樹の立ち並ぶ街並みを眺めながら、はしゃぎ過ぎて、母にたしなめられ、
二人はちょっぴり照れながら、静かにしていると、
「もうすぐだからね。」
おばさんのやさしい言葉でほっとする二人でした。
玉砂利を踏んで、四人は手を合わせて、御陵を参拝して、そこにある大きな池の錦鯉の群れに驚いてしまったものでした。
田舎の池の鯉は、真鯉が多く、数が少ない。しかし、ここの鯉の数といい、色彩といい、
あまりに見事であった。また、周りの風景も、素晴らしかったからだろう。
二、三日、弟は、私の学校から帰るのを待って、仲良く遊んだ。
田舎にいる頃は、毎日のようにケンカばかりしていたのに、弟がとても可愛く感ずるのでした。
もう日が経つのが早くて、母と弟は、帰って行ってしまった。
「七月二十日過ぎから夏休みだから、その時は、スヱ子と一緒に遊びに行きますよ。」
叔母が母に言っているのを聞いていたので、別れがつらくなかった。
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⑬へつづく ~