<推しへの愛情の重さ、真剣さを表現するために、
そして自分の精神的安定を手に入れるために

「お金を落とす」「ひたすらにコレクションする」
という競争に自主的に参加する、させられる、という構図>




これは羽生ファンのことを私が形容したものではなく、

一般的な「推し活」と呼ばれているもののビジネス形態だと思います。

少し前、数年前に芥川賞を受賞した「推し、燃ゆ」という小説を読みました。
その読後感が、重く、そして強く私の中には残っていました。

心のなかにがつんとくるものを投げ入れられられたんだけど、まだうまく言葉にできない・・
そんな気持ちでいました。

「推し」がファンを殴って炎上するところから話は始まるんですよ。なかなかの衝撃です。



「推し、燃ゆ」の小説の主題は別のところにあるのですが、私には冒頭に記した上記のことが非常に印象に残りました。




感想をブログに書きたいと思って、印象に残った箇所に付箋を貼っていたけど、
結局言語化出来なかった「推し、燃ゆ」




そして今日この記事を読みました。



<あなたが抱くその愛情は、純粋に相手のためだけのもの?
それとも自分のための承認欲求、独占欲の裏返し?

誰かを「記号」として消費すること、独占欲や優越感といった歪んだ愛を、
自分ではない他の「何か」に対して自己中心的にぶつけること。
昨今、アニメやK-POP、スポーツに至るまで様々な業界で「推し活」が話題になり、
日本経済に影響を与えるほどの規模の現象にもなっているが
まさにその推し活に潜む闇に焦点を当てたのが、
村雲菜月の小説『コレクターズ・ハイ』だ>


****

推しをテーマにした又別の小説の話でした。
羽生ファンのことを書いてあるわけではありません。
一般的な「推し活」と呼ばれるものの総称に対して書かれていますが、それでも読んでどきっとします。



ここに、以前私の気持ちの精一杯を何とか書いたのを思い出しました。
 

 

 




*****

(以下一部抜粋)

私がブログを書き始めたのは2016年、ツイッターも数カ月後に始めました。

当然ながら当時は自分の好きで応援している人を「推し」と呼ぶ人はいなかったし、推し活などという言葉も有りませんでした。

その言葉が定着し、本格的に社会的に認知され、羽生結弦ファン界でもごくごーく普通に使われるようになり、そしてビジネスとして脚光を浴びるようになったのはここ3-4年くらいのことかもしれません。
そしていつしか私は一抹の不安及び違和感を覚えるようになりました。
羽生君が真ん中にいる。
そしてそこから派生していく様々な事象がそれぞれ異なった形かもしれないけれど”羽生結弦”を消費して、し続けていることに、これでいいのかなと思っていました。
思っていたんだけれど、自分もその現象の中の一部なわけでした。
情報に翻弄されてよく考えないままに消費し続けている気がしていたのです。

能動的に活動して羽生君のプロ活動を支えたいという多くのファンとファンダムの連帯感は素晴らしいと感じていながら、それとは別に加熱しているかのように思えた消費行動に気後れがしていました。


プロとして活動していくには資金が必要で、それにはファンの購買力はとても大切です。
色々な企業さんに私自身すごく感謝の気持があります。
支えてくれるスポンサーさんがなかったら活動できないこともよくわかっています。

(中略)

そして、応援することと消費することがイコールになりかけていないかなということをよく考えるようになりました。
言葉は悪いけど、搾取することに慣れすぎてしまうというか。
そういう「象徴としての羽生結弦の存在」っていうものの苦しみの描写を私は(私だけじゃなくてみんなそうだと思うけど)GIFTの中の表現に強く感じていました。

だから、ファンやメディアが今の加熱した形態で彼を消費し続けることは、彼をこれからも苦しめることにつながるのではないか、という思いがずっとありました。

(抜粋終わり)

*******


このことを私はずっと考えていて、そしてそれでもプロ活動というのはお金あってこそなので、
そんなこと考える私自身が望まれるファンではないのではということも結構思いました。

そしてお金を使うということだけではなくてー
のめりこんでしまって、
応援している人を大切に思うあまり、線を踏み越えたり
自分が対象人物の人生に関与できると思ったり、視野狭窄してしまうことがかなり起こりやすい精神状態にいつも置かれているということも痛切に感じました。


健全な応援活動とはなんなのか?
バランスが本当に大切だなあと最近本当に思います。難しい。
私はきゃあきゃあぎゃあぎゃあいったり鼻血出したり、クレイジーなことしたりするファンが好きなんです。
バランス取るっていうのは、大好きをどんな風に爆発させ、どんな風に昇華させるかということだろうか?(いみふ)


この小説では、

<「他者を記号として消費する」主人公の行為は、次第に我が身にはね返ってくる。
ラストに向けて暴走する「歪んだ愛」の表現こそが、まさにこの作品のもう一つの醍醐味だ。>

というようにクライマックスは歪んだ愛が暴走していくようです。


私は羽生君のことを
「推し」と呼んだことはないし、羽生君が自分の「推し」と思ってないんですが、
客観的に見たら私がやっていることを言葉に当てはめると「推し活」ということになるんだと思います。



羽生君のファンダムにいて、その中で共有されている情報をたくさん見ていると、その世界でいっぱいになってしまう。
それはどの熱狂的な渦にいても同じですよね。K-POPしかり、J-POPしかり、他のどんな界隈でも。

そして一般的に見て、熱心な「推し活」というのはこうやって小説のテーマになってその心理が描かれる程、知らない間に
暴走する危険性があるものなんだっていうのは本当に意識している必要があるんだろうなとしみじみ思った夜なのでした。


応援している対象が、本当に、大切に思い、尊重したい相手だからこそ。

 

 

 

参考記事↑




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読んでくださり、ありがとう!
皆さんの考えも、またもしよかったら聞かせてくださると、嬉しいです。
えこでした。