羽生結弦が初のソロアリーナツアーを圧巻の演技とともに締めくくった。
100メートル程先の銀色に光る氷の上で、
蒼い炎を立ち上らせながら魂が躍動していた。
会場の爆発的な人々の熱気とともに、私にはその熱が燃え移ったようだった。
私の心は、その高温にしゅうしゅうと音を立てて縮んだり伸びたりした。
そしてこの体験は、2024年の一つの事件として私の年表に刻まれることになった。
*
2023年の夏から、私の気持ちはいろんなところを彷徨っていた。
きれいなものも汚いものも全部ないまぜにして、色んな感情に蓋をして過ごした。
それまではずっと、長く、迷いなく一心に羽生君を応援し続けてきた。
だからそういう日々を思い出しては、度々苦しくなった。
ファンダムが有害化しているのではないかということもすごく危惧した。
取り返しのつかないことが起きてからでは遅い、という焦燥感が常にあった。
夏以降、いつも何かが漠然と怖かった。
でもそれに対して私は何もできない、という無力感もあった。
自分の中に毒を取り込んでしまいそうで、
だったらそこから離れているしかない、と思うことも多かった。
それに、どうして私は自分が「有害ではないファン」だと言える?
彼がどういうファンに、どんな風に応援してもらいたいと思っているのか私は知らない。
私こそが歓迎されない形のファンであるかもしれないじゃないか。
だからこの問いが頭から離れなかった。
応援することが彼を苦しめることに繋がっているのでは?
*
公演当日、私の地元の駅では既に雨が降っていた。
羽生君のイベントがある日は、今まで晴天が多かった。
荒天だった記憶はほとんどない。
その日は違った。
みなとみらいは厚い灰色の雲に覆われていた。
冷たい大粒の雨が降り、強風が木々を揺らして傘もさせないほどだった。
友達と昼食を済ませて外に出ると、不穏な空が広がっていた。
ビル群も観覧車もゴンドラも、全て湿っている。
「どう」という音と共に、風がアスファルトの上を通って冷気を巻き上げて、雨と共に体に叩きつけてきた。
その位から私の頭の中で音楽が再生され始めていた。
椎名林檎の曲だった。
最近の曲はよく知らないけど、青春時代は本当によく彼女の音楽を聴いた。
一番好きなのは東京事変名義の「群青日和」という曲だった。
「新宿は豪雨」という出だしのこの曲は、全編通してあらゆる電子音が入り乱れて、雨となってリスナーに降り注ぐ。
「泣きたい気持ちは/つらなって冬に/雨をもたらしている」
という歌詞が、なんだか自分の心を反映しているようだった。
頭の中で鳴っている刺すような鋭いギターの音と、実際の雨の音が混じって心の中がざあざあいった。
雨に濡れないようにストールを頭から被ってアリーナまで友達と走った。
*
公演を見終わった私はぼんやりした。
衝撃を受け止めかねた。
駅の待合室では羽生君のファンが沢山新幹線を待っていた。
(角ハイボールを飲んでたのは私だけだったけど…)
帰りの車内は空いていて、私は爆音で「群青日和」を何度も何度もリピートして聴いた。
ぼろぼろぼろぼろ涙がこぼれてきた。
アリーナで、蒼い魂が燃え尽きることも厭わずごおごお炎を巻き上げて最後までそこに立っていたのを私は見た。
群青日和では
「今日が青く冷えてゆく」
「青く燃えてゆく東京の日」
と歌っている。
椎名林檎の声と降り注ぐ電子音の雨が、さっき受けた衝撃の高揚感を倍増させていった。
涙も青くなっているのでは、という気持ちになった。
そして私は衝撃に揺さぶられながら、もう一度ストーリーについて考えていた。
たまアリで初めてこのストーリーを見てから、羽生君の伝えたいことを考えてきた。
それには細部の解釈が必要だと思ったし、ゲームの知識がないと理解できないこともあるだろうと思った。
だから色んな人の話を聞いたし、色んなものを読んだ。
それでも、後半のレクイエムの後あたりからの流れがどうしても私にはいつまで経ってもよくわからなかった。
でもこの日、会場の一番上から俯瞰してこの物語を圧倒的なスケールで鑑賞して、何かが腑に落ちた気がした。
それを書いてみたいと思ってこのブログを書き始めた。(え、もしかしてここから本文?という驚き)
*
物語の基幹(の一つ)は「繰り返す」ということだ。
まず冒頭、プレイを始める前に以前のセーブデータから選択する場面がある。
選択肢には公演当日の日付が入っている。
つまり、もうこのゲームはその当日既にプレイされ、セーブされた後から始まるということになる。
前半部分が既に「繰り返し」から始まっている。
そして破滅への使者の後にセーブデータが壊れていて、セーブできず前半が終了。
後半は前半の冒頭と同じ情報から再度「繰り返す」ということになる。
プレイヤー(つまり私達)は、既に何が起こるか知っている物語を、もう一度やり直す。
後半は、前半と同じ選択はしない。
知っているから、違う未来を「選択」する。
「流れる命を手に」
「しない」
選択をする。
この後のことがずっと私にはよくわからなかった。
前半セーブできず、
繰り返しの後半。
殺しまくることをやめた。
それはわかる。
でもやめてもゲームの中の主人公は全然幸せになっていかない。
道に迷って苦しんでもがいて溺れている。
自由を手に入れてもどうしたらいいのかわからない。
だけど、水の底で光を見つけて再び歩き出す。
どうしてそうなるのか、それがずっとわからなかった。
それは、
「繰り返しをやめる」
ことなのかな、と今回初めて感じられた。
過去に戻って既に知っている未来をもう一度やり直して違う選択をすること。
それがこの物語では描かれている。
それがゲームの世界。
物語は何度でも書き換えられる。
自分の好奇心や、進みたい道をやり直して選び、欲しいものを手に入れることができる。
だけど、ゲームの主人公は、
<過去を繰り返し、違う選択をすることではない選択肢>
を手に入れることができたのではないか、
というのが私がこの日感じたことだった。
それはつまり、凡庸な表現になってしまうけどー
「本当の自由は過去の繰り返しをして、やり直すことで得られるものではない」
と悟り、過去をなぞることをやめて、
「未知への希望を見出して祈ること」
と思えたことなのではないか、ということだった。
電車に揺られて泣きながら、私は自分の人生で「ここでやり直しが出来たらな」
と何度思っただろうか、と考えていた。
いろんなことがあって、後悔もあるけど、まあ頑張って生きてきたから納得している。
それでも、
「あの時こうしなければ、あんなことにはならなかったのに」
「もう一度戻ってやり直したい」
と思う人生の分岐点が私には一つだけある。
ゲームの世界というのはそれを可能にしてくれるものだろう。
だから夢中にもなるし充足感も満足も得られる。
そしてバーチャルの世界でそういう体験ができることは、リアルな自分の役に立つことも往々にしてあるのかもしれない。
それは、自分の現実と比較して、そこから何かを導き出すことが出来るから。
勝手な想像だけど、羽生君はそういう体験を重ねてきているのではないかと思う。
「過去を繰り返して、こうであったら、という希望を選び直すこと」
ではなくて
「まだ辿ったことのない、先の分からないセーブされていない未来、その道を歩いてこそ」
である。と。
過去の繰り返しをやめて、これから先にはどんな分岐があるかわからないけど、そういう風に歩むんだ、と主人公は思えたんだ、ということなのかな、と私は初めて、この時思えた。
そういえば「過去が昇華されたり」って羽生君前リプレイについて言ってたな、と思い出した。
そして、羽生君の声が蘇る。
どんな選択が待っていても
その先の未来に何が待っていても
決意を持って生きてゆく
道に迷った時は立ち止まってもいい
突き進んでもいい
と、思う
自信はないけれど
*
羽生君だって自信がないんだ。
選んだことが間違ってるか合っているかわからない。
でも、未来に何が待ち受けていても、決意を持って生きていく、そう言っているのかな、そうなのかもしれないな。
と思った。
それが、
REPLAY(繰り返し)
が
REPRAY(祈り)
に変わる、ということなのかな、と思った。
それを全身全霊で、私は今日見せてもらったんだ。と、感じた時に、
暖かい気持ちが怒涛のように流れ込んできたような気がした。
そして私自身がずっとずっと抱えてきた自分の人生の大きな傷に、また向き合う機会を与えられたなと思った。
絆創膏を貼って包帯でぐるぐる巻きにしてある傷が、何かを感じた感覚があった。
「私を大事にしてね」と言われた気がした。
そしてほんとにあなたはすごい人だよ羽生君、と思った。
最寄り駅について外に出た時には嵐になっていた。
この激情とこの荒天、2024年の2月に私が体験したことを、これから先、こんな天気の日に私は何度も思い出すだろう。
群青日和がちょうど
「あなたを思い出す体感温度」
と歌っていた。
この匂い、この感情、この空気、この温度
この感覚をずっと覚えていたい、と思いながら嵐の中、私は家に帰った。
そしてその夜はほとんど眠れなかった。
*
おしまい
読んでくださりありがとうございます。
はあ、また書いてしまった。そして吐きそうになりながら更新←
本当はもっと長く書きたいし推敲したいんですが、今日ドイツから友達が二人泊まりに来るのでここまでです。
(一番書くのが苦手な)演技の感想もできれば書きたいです。
本当にすごかった。
皆さんの感想もツイッターやブログなどで読ませていただいています。
沢山の思いを受け止めてそして又羽生君は表現者として一段上へ登っていくのでしょう…
それでは、また。
エコでした。