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8-16-7 栄華のあと

2024-03-17 21:32:28 | 世界史


『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
16 オスマン・トルコ
7 栄華のあと

 トプカプ宮殿はメフメト二世以後、スルタンの宮廷や住居としてつかわれたが、十九世紀の中頃、ボスフォラス海峡沿岸に、ベルサイユ宮殿を模したドルマ・パフチェ宮殿がたてられ、スルタンはそこへ移った。
 かってのトプカプ宮殿のありさまを眼前に彷彿(ぼうふつ)させるには、ハレムとともに、その財宝や織物や陶磁器や武器などの陳列室をおとずれねばならない。
 そこには、領内の各地からの献上品、外国君主からの贈りものとして、あるいは掠奪品として、さらには商品として、スルタンの手もとに集められた目もあやなる品のかずかずがある。スルタンや寵姫や王子たちの衣服、日用品などがある。
 これらを眼前にしたとき、オスマン帝国の強大さとスルタンの栄華とについて、思いをあらたにすることができるであろう。映画「トプカピ」や「007危機一髪」を見た人びとは、その一端をかいま見られたはずである。
 しかも、かってのトプカプ宮殿は、今日のこっている建物だけからなっていたのではない。
 以前にこの宮殿のなかにあった数多くの宮殿や離宮は、もはや見られなくなってしまっているのである。
 マルマラ海沿岸の木々の緑のあいだに、大理石の円柱、亜鉛のドームを持った宮殿や離宮が、まるで宝石の首飾りのように点在し、そのドームに反射する日の光は、目がくらむばかりであったという。

 これらを取りまく庭園では、噴水がこころよい水音をたて、そのそばにはしゃれた造りのあずまやがあり、各国から取り上せられたさまざまの果樹、トルコ人の愛好してやまぬチューリップやバラ、さらに媚薬(びやく)としてもちいられた一種の果樹が植えられて、庭園にいっそうの色彩をそえていた。
 それぞれの建物のなかには、いろいろな部屋があって、当代よりぬきの布で飾られていた。
 床はイランやエジプトなとがら献上された絨緞(じゅうたん)でおおわれ、季節ごとに敷きかえられた。
 天井は金箔を張った幾何学文様・花文様・葉文様の絵画で飾りたてられ、そこから水晶製のシャンデリヤが下げられていた。窓や扉には、うるわしいビロードのカーテンがかけられ、部屋には各国からもたらされたグリスクル・ガラス、金銀製の各種の容器、ザクロ石やエメラルドや真珠をちりばめた調度品がおかれていた。
 しかし今日では、これらの宮殿も離宮の多くも、もはやない。
 いや、遺跡さえものこっていないのである。
 我々は、スルタンたちの栄華、かれらの美女たちとのただれた戯(たわむ)れのあとを、ただ、幸いにのこった宮殿と離宮とハレム、そしてかれらの遺品などから想像しうるにすぎない。
 このようにイスタンブールの宮廷生活は、ハレムを中心として、ビザンチン帝国の皇帝たちの、ササン朝ペルシアのジャー(皇帝)たちの、そしてアッバース朝のカリフたちの豪華にして絢爛(けんらん)たる生活を、すべて一堂に集めたかのような形でくりひろげられていった。
 そこからは、もはやスレイマン一世以前のスルタンたちのたくましい姿は、まったく想像できない。
 スルタンたちがみずからイェニチェリ軍団を指揮せず、宮廷やハレムにとじこもる端緒をひらいたセリム二世以後、完成されたイスラム帝国、オスマン帝国が瓦解(がかい)していったとしても、不思議ではない。
 イスタンブールの宮廷の栄華は、そのなかに凋落(ちょうらく)の種子を宿していたのである。






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