井伊直虎男性説の再検討

十一月八日は「#井伊谷の日」と言うわけで、大河ドラマ『#おんな城主直虎』振り返りレビュー記事を書いていますが、井伊直虎男性説の再検討記事も書きたいです。

2016年12月、『おんな城主直虎』放映直前に、井伊美術館の井伊達夫館長が、『守安公書記 雑秘説写記』の存在を公表し、井伊直虎男性説を主張しました。

『守安公書記 雑秘説写記』は、井伊家彦根藩家老の木俣守貞が、祖先の守安が寛永17年(1640年)に記した聞書をまとめて享保二十年(1735)に成立したものとされています。

それによると、井伊次郎は今川家重臣関口氏経の息子であったとされ、これが直虎ではないかと言うわけです。

従来の直虎女性説は、龍潭寺住職祖山法忍が
享保十五年(1730年)に完成した『井伊家伝記』に基づいています。

「御菩提の心深思召」した井伊直盛娘が出家しようとして、これに困った直盛夫妻が南渓和尚瑞聞和尚に相談したところ、南渓和尚から「女にこそあれ惣領娘」だからと、次郎法師の名を与えられ、元許嫁の直親死後、幼少の直政に代わって地頭職を務めたとされます。

直虎男性説、女性説、どちらが正しいのでしょうか。

まず、『守安公書記 雑秘説写記』が新出史料で史料批判がいまだ不十分である事を指摘しておきます。

従って、全文が画像データ化され翻刻されて公開されて、研究者たちの検証を経ないと、真贋の結論は出せません。

最悪、既存の史料を読みあさった現代人が、徳政関連文書に登場する関口氏経を父親とするなど、つじつまの合う作り話をした可能性もないわけではありません。

しかし、『守安公書記 雑秘説写記』が真作だとすると、彦根藩家老の著作ですから、むげには否定できません。

一方、『井伊家伝記』も井伊家菩提寺住職の著作。わずか百五十年前(今なら明治初頭)の井伊家の人物を気軽に「女体化」するのは難しいでしょう。

たとえて言えば、現代人が沖田総司女性説や西郷隆盛女性説を唱えるようなものです。牧瀬里穂さん主演で沖田総司を女性とする映画はありましたが笑。

特に、祖山和尚は「由緒の井戸」の帰属を巡って、正楽寺と争い、正楽寺が井伊谷を支配していた旗本近藤家(あの胸毛の近藤さんの子孫です)に支持されましたが、祖山和尚は彦根藩に支持されて勝訴しています。そんな事情があるので、気軽な作り話は難しいのではないでしょうか。

また、直盛娘佑圓尼は出家後龍潭寺内に住み、埋葬された人物ですから、その伝承が龍潭寺で語り継がれていた可能性は十分あります。

「由緒の井戸」の訴訟の後、彦根藩主が参勤交代の途次、龍潭寺に立ち寄るようになったこともあり、彦根藩は『井伊家伝記』のストーリーを支持したと見ていいでしょう。

ただし、彦根藩の支持を得た祖山和尚が直盛娘が井伊家存続に果たした役割を強調し、それを彦根藩が直盛までの井伊家と、直政以降の井伊家を、系譜上しっかりとつなぐのに利用した側面も無視してはいけません。

なお、『守安公書記 雑秘説写記』が『井伊家伝記』の五年後の成立である事も注意を要します。

『井伊家伝記』の完成に触発された木俣守貞が、自分も彦根藩成立に関わるストーリーを書きたくなって、『守安公書記 雑秘説写記』を書いた可能性です。

また、どちらも「次郎法師」や「井伊次郎」には言及していますが、「直虎」とは書いていません。

と言うわけで、『井伊家伝記』と『守安公書記 雑秘説写記』どちらも無視できませんが、「次郎直虎」と署名した人物を特定する決定打にはなりません。

やはり一次史料の検討が必要です。

以下、一次史料を時系列に紹介します。

①永禄三年(1560)八月五日  今川氏真からの龍潭寺宛安堵状

桶狭間合戦後、南渓和尚が今川義元の葬式の安骨を務めた翌月、龍「泰」寺が井伊直盛菩提寺として改称して龍「潭」寺となり、氏真から諸権利を保障してもらった。

②永禄七年(1564)七月六日  井伊直虎?万千代?年貢割付

差出人不明。現在直虎が発給したとされるが、「小野但馬殿」「御一家中」などと敬称が付いているので、代理人作成か(夏目琢史氏の指摘)。

③永禄八年(1565)九月十五日  龍潭寺への次郎法師黒印状

次郎法師が龍潭寺への「寄進状」を出した。

④永禄九年(1566)霜月吉日  福満寺鐘銘写

永禄七年(1563)に死去した直平の菩提を弔うため寄進された鐘銘に「大檀那 次郎法師」「願主 瀬戸四郎右衛門」が登場。

⑤永禄十一年(1568)六月三十日  蜂前神社禰宜宛匂坂直興書状

徳政実施を求めて駿府に長期滞在していた匂坂直興が、蜂前神社禰宜に関口氏経との相談で、「二郎殿」説得に言及。直興は、直興と禰宜が小野但馬に接触して、二郎殿に徳政を実施すると言わせられないか、と相談。

⑥永禄十一年(1568)八月三日  蜂前神社禰宜宛匂坂直興書状

銭主が氏真の堀川城築城に協力しようとしている事を知った直興が反発し、自分(たち)も鉄炮や玉薬を購入しようと禰宜に提案。

⑦永禄十一年(1568)八月四日  関口氏経書状二通。

一通は「井次」(井伊次郎)宛、もう一通は「伊井(ママ)谷親類衆被官衆中」宛。ほぼ同文で、徳政令遅延を「太以曲事」と叱責。

⑧永禄十一年(1568)九月十四日  瀬戸方久宛今川氏真判物

堀川城の「根古屋蔵取立」を条件に、「次郎法師」「年寄」「主水佑」などが安堵した方久の所領を徳政令対象外と認める内容。

⑨永禄十一年(1568)十一月九日  関口氏経、次郎直虎連署状

銭主の難渋を理由として実施されなかった徳政令を、氏真の「御判形」の通り実施する事を命じる旨、徳政実施を待ち望んでいた「祝田郷 禰宜」や百姓に伝えた。

⑩天正十年(1582)八月二十六日  井伊直盛娘死去。

法名妙雲院殿月泉佑圓大姉。(龍潭寺過去帳、井伊家伝記)

⑪天正十八年(1590)五月  東光院過去帳「御尋ニ付書上候口上之写」

東光院桂昌和尚が、近藤石見守(秀用)の問い合わせに対し、東光院にある虚空蔵菩薩が「天正三乙亥年信濃守直盛公息女佑圓禪□□拝領」と回答したと過去帳に記録。裏面に「直盛」と刻まれた掛仏が東光院に現存。

以上十一点の史料を男性説で解釈すると、以下の疑問点があります。

まず、永禄三年八月、直盛菩提寺になった龍潭寺に井伊家新当主ではなく、氏真が安堵状を出している点。

これは、①井伊家が混乱していて新当主が直親に決まっていなかったので、南渓和尚が氏真の安堵状をもらった。
②そもそも直親は直盛の次の当主ではなく、当主候補がいなかった。

のどちらかが考えられます。

後者が正しいとすると、直親が直盛娘の許婚で、直盛娘が正当な後継者直政の養母として後見したというストーリーが揺らぎます。そして、候補不在の井伊家に関口氏経が落下傘候補として入り込む余地が生まれます。

永禄七年の割付は、名前不明の少年直虎がまだ幼すぎて、「代理人」が書いたと考えてよしとしましょう。

しかし、翌年の龍潭寺への寄進状は、内容が随分詳しい。龍潭寺の実状に詳しい人でなければ書けないです。でも、これも少年直虎が南渓和尚の言いなりだったかも知れないのでまあOK。
「次郎法師」という幼名の少年は、黒印を押せるようになったと解釈できます。
ただし、今川家中では寿桂尼も、早川殿も印判状を出しているので、黒印状が男性説を補強する事にはなりません。

鐘銘も大人の言いなりとしてスルーできますが、永禄十一年の直興書状は不自然です。「二郎殿」が関口氏経の息子なら、なぜ父親の意向に逆らっているのでしょう。また、直興も、氏経が自身で二郎殿を説得する事を期待せず、小野但馬に働きかけようとしています。

これは同年九月の氏真書状と組み合わせると、もっとおかしく思われます。瀬戸方久に徳政を免除する意思を持っているのに、いまだに幼名で「次郎法師」と呼ばれています。政治的意思を示せる成人男性ならば、元服していてもよいのではないでしょうか。

そして、それから二ヶ月足らずで、「次郎法師」が「次郎直虎」に変身して、関口氏経と連署することになります。また、八月に関口氏経に厳しく叱責された「井次」と同一人物なのか、疑問です。

従って、次郎直虎が関口氏経の子息である場合、九月に氏真に「次郎法師」と呼ばれ、徳政実施に乗り気でなかった人物とは別人と考えた方が自然です。

その場合、氏経の子息は、父親と井伊谷に乗り込むようにしてやって来て井伊家当主となり、代替わりの徳政をした形になります。

そして、その翌月徳川家康に攻められて井伊谷を追われたのでしょう。

このシナリオの「次郎法師」の性別は、女性の直盛娘の可能性がかなり高いと思われます。

まず、永禄九年の徳政に対し、銭主が難渋するからやりたくない、という政治的意思を持つ大人である。そして、成人男性なら元服して諱「直〇」あるいは信濃守直盛や肥後守直親など受領名や官途名を名乗るはずだがそう呼ばれず、氏真からは「次郎法師」と男性にとっての幼名で呼ばれている。

つまり、「次郎法師」「二郎殿」としか呼びようのない、諱も受領名も持たない人物、女性の次郎法師だった。

福満寺に鐘を寄進した頃には、大檀那になれる直平の直系子孫は直盛娘以外見当たらない。

そして、肉親直平のための鐘寄進の費用負担のために、銭主瀬戸方久に恩義を感じていても不自然ではない。

また、次郎法師女性説、次郎直虎男性説だと、小野但馬の「横領」も説明できます。

次郎法師から、次郎直虎への交代劇で小野但馬が何らかの役割を果たし、反対派がそれを「横領」と認識した、というわけです。

ただし、小野但馬は匂坂直興書状では、次郎法師と信頼関係を築いていた可能性もあるので、関口氏経の子息に井伊谷を託すのが女性の次郎法師にもよいことだ、と説得した可能性も十分あります。

井伊家と小野家の関係は良好だったので、後に直政が家康に出仕した際、小野但馬の甥万福も従い、再興なった井伊家の重臣となったのではないでしょうか。

井伊谷徳政実施は、家康の遠江国侵攻直前で、徳政では新城築城も焦点でしたから、合戦の矢面に立つのは女性では荷が重かろう、と説得したかも知れません。

そうすると、直盛娘は小野但馬の配慮のおかげて、井伊谷三人衆の内通で井伊谷が徳川方の手に落ちた後も、徳川方から敵として責められずに龍潭寺に住むことができた事になります。

なお、関口氏経の子息が次郎直虎として井伊家の新当主となる際に、次郎法師の婿、あるいは養子として井伊家に入った可能性もあるかも知れません。

なぜなら、直盛娘=次郎法師が井伊家唯一の嫡子であり、次郎法師と何らかの関係を持つことで、関口氏経の子息による井伊家相続の正統性を高めることができるからです。

次郎法師は、この頃子供がいてもおかしくない年頃で、初婚としてはかなり晩婚と思われたでしょう。

井伊家嫡女との関係による正統性獲得は、後の彦根藩と祖山和尚も考えたので、直親と直盛娘が許婚で、直政が養子だったというストーリーにつながったと思われます。

ただし、これもある程度事実のベースがあったかも知れません。

直盛娘は父親直盛が大永六年(1526)生まれだとすると、早くても天文九年(1540)以降の生まれでしょうから、直親と直盛娘が許婚だったとしても、親が決めた許婚の可能性が高いです。後世想像されたような十歳くらいの相思相愛のカップルではなく、直親十歳、直盛娘五歳以下で直親の父直満が駿府で誅殺されて、直親と直盛娘は引き離されることになります。

直盛娘は幼いながらも直親との結婚を夢見たかも知れませんし、乳児で直親の存在を周囲の大人の話だけで知っていただけかも知れません。

直盛娘の出家願望は、直親が信濃で知らない女性と庶子をもうけたと知って失望したか、謀反人の息子とは結婚できないために世をはかなんだためかも知れません。

ちなみに「次郎法師」と言う名は、正式な僧侶の名ではないので、直盛娘は次郎法師と名乗るようになっても実際には在家信者に留まっていたと思われます。

それで、直盛死後、次郎法師は井伊家唯一の嫡流として、婿を取るか養子を取るか宙ぶらりんのまま、中野直由や新野親矩、曾祖父直平らに守られていたのではないでしょうか。

そして、彼らがことごとく死去したため、小野但馬らほぼ同世代の重臣の補佐を受けつつ、瀬戸方久からは財政支援を受けつつ井伊谷の地頭の役割を果たそうとした。

なお、直親が誅殺された後、遺児直政との関係がどれほど深かったかは不明です。少なくとも、直親の反逆に連座しないよう、穏便な処遇を望んだとは思われます。直政は新野親矩の叔父がいた浄土寺に預けられたという系図もあるので、直盛娘との接点は余りなかったかも知れません。

井伊谷が徳川方に攻め落とされた後、井伊谷は事実上井伊谷三人衆に山分けにされ、関口氏経の子息は逃走あるいは討ち死にして、井伊家は滅亡の危機にさらされます。

少なくともこの時点で、直政の存在がクローズアップされ、井伊家起死回生の希望が直政に託されたでしょう。

直親死後、直政は母の再婚相手の松下姓を名乗っていました。再び井伊姓を名乗るためには、直盛娘の許可が必要だったはずです。

直政が家康に出仕した天正三年(1575)には、直盛娘は正式に出家して佑圓尼と名乗っていたでしょう。正確な出家の時期は不明です。

井伊谷地頭の地位を関口氏経の子息に譲って出家したか、関口氏経の子息が井伊谷を追われるか、討ち死にした後か、井伊家が井伊谷を奪われた後か、不明です。

いずれにせよ、佑圓尼となった直盛娘は天正三年に直盛の虚空蔵菩薩を東光院に寄進した七年後、天正十年八月に亡くなります。

その後、小田原征伐の最中、天正十八年(1590)五月に、近藤石見守が虚空蔵菩薩の由緒を東光院の桂昌和尚に尋ねることになります。

家康の関東入りはまだ知らなかったでしょうが、合戦後、直政支配下の井伊谷の帰属が変化するかも知れないので、気になったのでしょうか。

いずれにせよ、当時の井伊谷周辺の人々が直盛と娘佑圓尼の関係を認識していた事は分かります。

以上、色々考察してみましたが、直虎男性説を採用すると、直虎登場直前まで当主の地位にいた次郎法師とは別人と考えた方が矛盾が少なく、政治的意思を持ちながら幼名のままなので、『井伊家伝記』の記述の通り、女性の直盛娘と考えた方がよさそうです。

そうなると、『おんな城主直虎』のあらすじは、大筋では史実と矛盾しないと言っていいでしょう。

仮に次郎法師も男性だったとすると、関口氏経の子息でもなく、直盛娘でもない、未知の第三の次郎法師を見つけなければなりません。

また、以上の考察からは、直盛娘が直虎でも次郎法師でもないとしても、祖山和尚、彦根藩、旗本近藤家が井伊家嫡流としての相続権を持っていた直盛娘に強い関心を抱いており、直盛娘が表舞台に出なかったとしても、井伊谷で影響力を保持していたのではないか、と思われます。

ちなみに、井伊達夫氏は、2017年4月に『河手家系譜』という新史料を公開しました。この史料では、「井ノ直虎」が関口氏経の子息とする一方、「次郎法師」が直盛娘と記述があるそうです。こちらも『守安公書記』と同様、徹底的な史料批判が待たれます。

以上、「井伊谷の日」の、直虎男性説の再検討でした。