パソコン上達日記2

日々の雑感を戯れに綴ります

90歳のある現実と幸せの基準

2024-04-23 20:18:22 | つぶやき

父は昨年の12月89歳になった。

昭和9年生まれ。今の中学を卒業するとすぐ働いた。(丁稚に出されたという、)そこで紳士服縫製の仕事を覚えた。

15歳から働き続け33歳で見合い結婚をして私が生まれ現在に至る。

父は真面目な人で、お酒をたしなむ程度。私が小学生の低学年頃までは煙草を吸っていた。私が中学生になった時にはもうやめていた。浮気もしない。家で一日中縫製の仕事をしている。趣味もない。ただ仕事をしている。今も朝ごはんを食べるとすぐミシンを踏んでいる。好きなのはテレビを見ることぐらいで、それも見飽きたのか最近は夜はすぐ寝る。

父は私が働き始めて5年後くらいに、交通事故にあった。自営業だから収入も途絶えた、私も妹ももう働いていたので、家のローンの残り数百万払った。だが、それよりも痛手だったのは、紳士服の問屋から仕事がもらえなくなったことだ。これは当時紳士服も中国で大量再産されるようになったため、職人の仕事が減ったことにある。紳士服の仕事が無くなったので、仕方なく婦人服の仕事をするようになった。

父はそれから腎臓がん、胃がん、胆嚢炎、また交通事故、前立せんがん、低ナトリウム血症2回(→NEW)7回入院している。最近入院した低ナトリウム血症の時に看護師から70歳に見えると言われた。これだけ入院しても足腰の筋肉は丈夫だし、あまり皺もない、驚かれるほど若くみえるし、実際治療した医師もかなり驚いていた。健康の秘訣は何か?はまた別の場所で語りたい。(というか、よく分からない。規則正しいストレスの少ない生活と運動、好奇心をもつこと、それくらいしか思いあたらない。)

 

75年間真面目に、週休2日とも程遠い生活で(職人だからサラリーマンのように休まない)ひたすら生きるために働いてきた。今は死ぬまで働くしかないと働いてるらしい。今は本当に1時間ミシンを踏んでも時給換算で200円もないと思うが、それでも踏んでいる。私はこれが普通なので可愛そうだとも何とも思わないが、傍からみると同情されることもある。年金もあるが、ひと月6万円ほど。

真面目に働いて税金もきちんと払ってきたけれど、ひと月6万円ほどしか年金がない。

SNSで高齢者は貰い過ぎだという声もあるが、戦後からひたすら真面目に正直に働き続けて6万円という例もがここに現実にある。父がもっと頭が良く要領のいい人間ならもっと稼げたかもしれないなぁと思う。ただ何となくもそういう人間なら、もっと前に亡くなってたような気もする。

神様は父に何を与えたのか、時間を与えた、長い時間の中に色々な喜びや悲しみ、それを人より少しだけ長く味わえる時間を与えた。

何故こんな文章を書いたかというと、今の時代、高齢者は多く貰いすぎだとか色んな意見がある。少なくとも父は6万円だし、それも週休1日もないくらいがむしゃらに75年働いてもこんな感じ日本ということを伝えたかった。ちなみに母はよくこのことで文句を言ってるが、父は年金が少ないと一度も嘆いたこともない。他人の暮らしぶりを羨ましがったりもしない。ただ口にしないだけなのか、そんなことを言っても仕方ないと悟っているのか分からない。

もしかしたら本人は意識していないかもしれないが幸せなのかもしれない。

 

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2024.02.12現在の私

2024-02-12 12:04:12 | つぶやき

何年もこのブログをほったらかしにしておいたのは、単にここに来る余裕、時間的な余裕がなかったため。現在も正社員でフルタイム勤務で家事をすると時間がもうとれない。若い時は夜更けまで起きていたが、そういう体力もなく。

他にやりたいこと好きなことを優先している

 

コロナ禍も母の予言通り3年経ち色々落ち着いたが…。2024年の年明けは能登半島地震から始まった。日本中の人々が平和と安寧を祈る日にこんなことになるなんて…神も仏もないと思った。今現在もたくさんの方が被災生活を送られている。自分で出来る些細な事をするしかない。それはまず働くこと。

 

春が来たらちょうど9年目。ステージⅡbの私だが、おかげさまで再発もなく元気に暮らしている。リンパ郭清をしたので浮腫は心配だけれど、目立ったような症状もない、本当にありがたい。今の仕事は肉体労働も多く重いものを持つ作業の連続だけに、浮腫にならないことは奇跡かも。

ただ人は毎朝起きられること、そのものが奇跡の連続、奇跡の連続の先に生がある。

 

今はまだホルモン剤を飲んでいる。この副作用で太りやすくそれが悩みだけど、薬のせいではなくたぶん不摂生が原因で太るんだろう。最近骨粗しょう症になりやすい体質で値もあまり良くないため、カルシウムは意識して接種している。運動は会社で働いていればかなりの量になるので、していない。スクワットくらい。

乳がんに罹患された方のためになるような、内容をと思ったがなんのためにもならない。

一番いいのはストレスをためず、好きなこと楽しいことを見つけて満足度の高い生活を送ることだと思う。

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乳がん 術後から7年目

2022-07-17 14:39:24 | 乳がん

久しぶり(1年半ぶり)にblogを更新する。

このブログの名前は最初パソコン苦手日記だったが、現在はパソコン上達日記となっている。苦手日記の時は、色々とPCの勉強していたが今は、勉強していない。でも毎日仕事でパソコンを使っている。そう、私は進化した。ただ誰でも出来るパソコン仕事を任されたレベルなので、たいしたことはない。会社のパソコンは、前任者が作成した書式や法則を読み解き、自分ようにうまく仕様変更させることが大事かと思う。人の作成した表や、規則や数式は分かりづらいけれど、基本がわかっていればここを読み解くことが出来る。自分用に仕様を変更させるまで、しばらく我慢して信用の実績を確実に積み上げるのも大事ですが。

今はあらゆることがやる気さえあれば、自分でネットで検索して調べられる。上達しようという気持ちがあれば、誰でも出来るもの。パソコン作業だとまぁ最先端を走る方達はエクセルも使わないだろうな。自分でエクセルを使わず、クラウドとかにやってもらう?感じ。簡単な入力作業は、人の手ではなく、ロボットがやってくれる時代。

 


パソコン仕事は乳がん治療後の仕事復帰における、会社の優しい取り計らい…ではなく、たまたま結果的にそうなっただけだ。

仕事そのものも、一日中ではなくて、2~3時間くらいじゃないかな。その他の時間は、肉体労働他色んなタスクをこなしている。

2015年の4月に乳がんステージⅡbの診断を受け、右全摘放射能治療、抗がん剤半年治療、仕事復帰は1年後で今年でもう6年を過ぎた。色々あったけれど、メンタル強くなったと思う。普通ならメンタルやられてるんじゃないかなと思うことも、たくさんあったけど、かいくぐってきた。

支えてくれた、たくさんの人達に感謝の気持ちでいっぱい…。

 

治療直後は、5年先が遠く感じたし、ネットで乳がんを治療して5年後の生活がどうなっているか探しても見つからなかった。多分、その普通に戻ったのであまり記録が書かれないということなのかなぁと今になって思う。あと忙しいとか。

働くのは、生活費を自分で稼ぐためだけど、乳がんの場合この治療費が結構かかるせいもある。一年に10万くらいは必要。よくがん治療後も働ける社会というが、このあたりに現実的な理由がある。高額な医療費の問題。

7年前の暮らしと比べて見ても、お給料は上がらないけど(むしろ治療で休んでいてた時期はダダ下がり)物価はすさまじく上がっている。今日もスーパーでため息が出たほどです。乳がんにかかって手術もして幸い再発もしていないけれど、毎月の治療費に頭を悩ませる方も多いだろう、しかも長い… ことを思うと、働けるチャンスがあるなら、その人のペースで働いた方がいいかもしれない。私はペースとか関係なくガンガン仕事してて、乳がん前よりタスク増えて大変だけど。楽しい時も結構あるからやっていける。

仕事から離れて病院に通い、また職場に戻った時の安心感、ホーム感というのは独特。自宅に帰るのとは違う、自分の場所があるという安心感。毎日毎日同じことを繰り返すようだけど、そこにある悲喜こもごもも何だか愛おしくなる。

 

 

 

 

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自分を大事にしてくれる場所はどこか?

2021-01-24 20:29:02 | つぶやき

ふと思うことがある。それは自分のメンタルの強さだ。特に乳がんの治療を終えてから仕事に復帰してから、時々思う。

メンタルの強さというか、よくまぁ自分は鬱病にならないなぁみたいなこと。元々ネグラ(死語)なので。いつ鬱病になっても不思議じゃない状況…、独り身だから働かなくてはいけないし色々大変だ。例えば右腕が前のような重労働に耐えられない。それで最近はデスクワークを3時間ほどやっているけれど、それ以外の時間は重労働にはないにせよ、前と同じで負担がかかる作業ばかりだ。ただリンパを摘出した後の不快感や悩みを、私は会社では全く口にしない、家で母にたまに話すくらい。見た目が普通だから、胸にこんな大きな傷があるなんて知らない人は想像がつかないだろう。でも仕事では10キロ以上のものは持てないと自分から言って助けてもらってる。前は率先して重いものを自分から持っていたからそれを思うと悲しくなる。仕方がないけれど。

何かのデータで乳がんで仕事復帰しても5年位で辞める人が多いと見た。それはすごくよく分かる。5年位で本人の頑張った気持ちがきれるというのもあるかもしれない、また5年位すると周囲の理解も減るので普通の人と同じように働かなくてはいけなくなる。それも辛い。

私もこれまで何度となく頑張ることに疲れたり、色々や体調に関する不安ばかりで死にたくなることもあった。そういう時は嵐が過ぎるのを待つようにただ、ジッと待っている。感情の嵐は何日も続かない、規則正しい生活をすることで気持ちが晴れることがあるのでそれが分かってから、ネガティブな時はそれを受け入れてひたすら気分が変わるのを待っている。あとは趣味を持つこと、自分を受け入れてくれるスペースをいくつかもつ、ネットの趣味仲間でもいい。

昨年の3月仕事を辞めようかと思った出来事があり、以来私は自分の会社に対する依存度(ワーカーホリック)をつくづく考えるようになった。その時辞めなかったのは周囲に止められたのと、(辞める必要がない)あと自分でコロナの時に辞めるのは良くないかなというその2点だった。経済的なことももちろんあるけれど、その時はあまりそういうことは考えられない。たぶん辞めてから経済的な困窮に直面してから、あぁと思うものかもしれない。今も辞めたいなと思っているけれど、その理由は自分を大事にしてくれる空間に身を置きたいなと考えるようになったからだ、きちんと正当に評価してくれる場所で働きたい。けどこれは夢だろう。だからせめて自分で自分を大事にしたい。ネガティブになってもそこで自分を見放さず、迷い悩み悲しむ自分を迎え入れる心をもう一つもつ。そして過去は振り向かない、過去の頑張りや失敗後悔、色んな感情はもう自分の妄想でしかないのだから。

私という人間の後ろにはいつも妄想の自分が立っているけれど、後ろを振り向かず前をいつも見る習慣をつけること。追いかけてくる妄想の自分にとらわれたら、そこから抜け出る手立てを考えること。

働き方で悩むことが多いけれどこれまでと全く違う自分を演じてみせると思うと、それも楽しいかもしれない。

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昭和の隔離病棟

2021-01-17 10:51:43 | 日記

母が今朝語った隔離病棟の話。おそらく昭和30年頃の体験かと思う。

母は岐阜県郡上市出身だが、集団就職をして一宮の紡績工場に勤めていた。年に2回帰省する。母が帰省した時、郡上で(日本各地かもしれないが)赤痢やチフスが流行していたので、実家の住まいにも保健所がやってきたという話を、家族から聞いた。保健所の人にみんなお尻をみせて赤痢じゃないかどうか確かめたという。たぶん家の消毒もしたんだろう。母はその時ちょうど紡績工場にいたから、お尻を見せずに済んだと思いとてもホッとしたと話していた。(若い女性だったから、そう思うよね…。)母の話によると郡上の駅近くに隔離病棟もあった。それは一般の病院ではなく、当時感染症になった人がそこに強制的に隔離される場所だ。平屋建てで立派な建物でもない。おそらくベットもなく、広い畳敷きの部屋に布団が敷いてあるようなもので患者はそこに寝かされたらしい。感染症の患者がいない時は誰もいない。田んぼの真ん中にポツンとその建物があったと話していた。今はもう道路や住居が立ち並び郡上の駅近くのどこにその病棟があったかは分からないという。

母がその感染病棟のことを記憶していたのは、そのお尻を見せるという恐怖もあったと思うが、数年後郡上で仕事の用事で保健所にいくことがありその記憶に起因していると思われる。保健所の女性と親しくなり、そこでその建物の話になった時誰もいない病棟を見学したのかもしれないと言っていた。親戚や家族で誰かが隔離されたということはなく、どうして自分がその風景を覚えているのか考えたら、たぶんそれだろうと。60年程前にはおそらく郡上のような山奥にも隔離病棟があった話は興味深い。

母の記憶を呼び起こしたものはもちろんコロナ報道だ。今のコロナ禍は当時のそれとも比較にならないほど酷い。母は今の現状を、戦争をしているのと同じだから、今はじっと耐えて辛抱するしかない、たぶん3年はかかるだろうといつも言っている。

80年以上も生きていてもまだ未曾有な体験をくぐっていく母。阪神大震災が起こった今日1月17は母の83歳の誕生日でもある。

 

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