令和5年10月25日最高裁大法廷決定を読んで 3 性同一性障害 | 団栗の備忘録

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心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく書きつけます。なるべく横文字を使はずにつづります。無茶な造語をしますがご了承ください。「既に訳語があるよ」「こっちのはうがふさはしいのでは?」といふ方はご連絡ください。

裁判官草野耕一の反対意見は、次のとおりである。

私は、本件規定を違憲無効であるとすることについては異存ないものの、本件事案に鑑みれば、5号規定についても違憲無効であるとした上で、抗告人に対して性別の取扱いの変更を認める旨の決定をすることが相当であると考えるものである。 以下、そう考える理由を述べる。

1 5号規定が有効に存続する限り、特例法3条1項に基づき性別変更審判の申立てをする者(以下「申請者」という。)が性別の取扱いの変更を受けるためには、同人の身体が5号規定の要件を充たしていなければならない。しかるに、男性から女性への性別の取扱いの変更を求める者が5号規定の要件を確実に充たすためには、陰茎の切除と外陰部形成のための性別適合手術を受けなければならず、女性から男性への性別の取扱いの変更を求める者が5号規定の要件を確実に充たすためには、尿道延長と陰茎形成のための性別適合手術を受けなければならない(「確実に」といったのは、後記3で述べるように、これらの手術を受けなくても5号規定の要件を充足し得る場合があるとする見解があるためである。)。しかるに、これらの手術はそれ自体が申請者に恐怖や苦痛を与えるものであり、加えて、これらの手術を受ける者は感染症の併発その他の生命及び身体に対する危険を甘受しなければならない。

2 「性自認に従った法令上の性別の取扱いを受ける利益」は、多数意見が指摘するとおり、重要な法的利益である。そうである以上、既に特例法が存在するにもかかわらず申請者がこの利益を享受するためには上記の如き手術を受けなければならないとすることは憲法13条が保障している「身体への侵襲を受けない自由」の制約に当たるといえる。したがって、5号規定が合憲であるというためには、5号規定が上記の自由を制約していることの目的(以下、単に「制約目的」という。)に正当性があり、かつ、その目的を達成するために5号規定が選択した手段が制約目的に照らして相当なものといえることが必要である。そこで、以下、これらの点について順次検討を加える。

5号規定の制約目的としては、一般に、公衆浴場等で社会生活上の混乱が生じることを回避するためなどと説明されることが多いが、5号規定が申請者にもたらす不利益との比較を行うためにはこれをできる限り自然人の享受し得る具体的利益に還元した表現を用いるべきである。この点から考えると、5号規定の制約目的は「自己の意思に反して異性の性器を見せられて羞恥心や恐怖心あるいは嫌悪感を抱かされることのない利益」(以下、この利益を(読みやすさを考慮して常にかぎ括弧を付けたままで)「意思に反して異性の性器を見せられない利益」という。)を保護することにあると捉えることが適切であろう。しかるに、性器を公然と露出する行為が刑法174条の罪(公然わいせつ罪)に当たることは確立された判例となっており、一定の区域内において性器を露出することが例外的に許容されている施設の代表である公衆浴場においても公衆浴場法の委任を受けた各地方公共団体の条例が、浴室等を性別によって区別すべきことを定めてきた。これらの事実に鑑みれば、「意思に反して異性の性器を見せられない利益」は尊重に値する利益であり、これを保護せんとする5号規定の制約目的には正当性が認められる。そこで、問題は、上記の制約目的を達成するために選択した手段(5号規定)が、上記の制約目的に照らして、相当であるといえるか否かということになる(以下、いわゆる目的手段審査のうち、手段の相当性に関する問題を「相当性問題」という。)。相当性問題についての判断を下すに当たりいかなる判断枠組みを用いるべきかについては講学上様々な見解がある。しかしながら、相当性問題の実質は、共通の指標によって大小を計ることができない関係者間の利益を比較衡量することであるところ、かかる比較衡量を普遍的ないしは類型的に行い得るような判断枠組みがアプリオリに存在するとは考え難く、相当性問題を考えるに当たって採り得る最善の思考方法は、結局のところ、判断の相当性を最も明確に示し得る視点を試行錯誤的に模索し、その結果として発見された「最善の視点」に立って問題を論じ判断を下すことであるように思える。そして、本事件において用い得る「最善の視点」は、5号規定が合憲とされる場合に現出されるであろう社会(以下「5号規定が合憲とされる社会」という。)と5号規定を違憲としてこれを排除した場合に現出されるであろう社会(以下「5号規定が違憲とされる社会」という。)を比較し、いずれの社会の方が、憲法が体現している諸理念に照らして、より善い社会であるといえるかを検討することであろう。(←裁判官のなすべきことは、どちらが良い社会になるかといふことを判断することではない。傲慢にも程があらう。憲法が善い社会を目指してゐる、といふのも何かの勘違ひである)

3 最初に、5号規定が合憲とされる社会について考える。この社会においては、特例法上の性別の取扱いの変更を受けるための要件のうち5号規定の要件以外は全て充たしているが5号規定の要件は充たしていない申請者(以下「5号要件非 該当者」という。)は、性別変更審判を受けることができない。したがって、5号要件非該当者は、公衆浴場等の施設において、性別によって区別されていて、自己の生物学的な性別と異なる性別の者については性器を露出したままで行動することが許容されている区域(以下「許容区域」という。)に入場することが許されず、 その結果、「意思に反して異性の性器を見せられない利益」が5号要件非該当者によって損なわれる事態は起こり得ない。他方、5号要件非該当者が性別の取扱いの変更を確実に受けるためには性別適合手術を受けなければならないのであるから、5号要件非該当者は、身体への侵襲を受けない自由の侵害を甘受するか、あるいは、性自認に従った法令上の性別の取扱いを受ける利益の享受を断念するかしかない。これを要するに、5号規定が合憲とされる社会は、「意思に反して異性の性器を見せられない利益」が5号要件非該当者によって損なわれることがおよそ起こり得ないという点において、たしかに静謐な社会であるといえるが、その静謐さは5 号要件非該当者の自由ないし利益の恒常的な抑圧によって購 あがな われたものにほかならない。

なお、性同一性障害者はホルモン療法を相当の期間にわたって受けるなどすることによって自己の性器についても外形上顕著な変化が生ずる可能性があるところ、性別適合手術を受けずとも、このような顕著な変化をもって5号規定の要件を充足し得る場合もあるとする見解があるが、そのような変化が生ずる者がいるとしても、そうではない5号要件非該当者の自由ないし利益に対する恒常的抑圧が続くことに変わりはない。

4 次に、5号規定が違憲とされる社会について考える。この社会については、 性別の取扱いの変更を受けた5号要件非該当者(以下、文脈上明らかである場合には、このような限定的意味で「5号要件非該当者」という言葉を用いることとする。)が許容区域に入場することによって当該許容区域の他の利用者が有している「意思に反して異性の性器を見せられない利益」が損なわれる事態が発生するのではないかとの懸念を抱く者がいるであろうことは理解し得るところである。しかしながら、ここにおいては二つの点に留意が払われなければならない。 第一に留意すべきことは、公表されている調査結果等によると、我が国の全人口に占める性同一性障害者の割合は非常に低く、その中でも(身体的特徴を他の性別のものと適合させたいとの気持ちから進んで性別適合手術を受ける性同一性障害者も少なくないであろうから)5号要件非該当者に当たる者はさらに少ない上に、「意思に反して異性の性器を見せられない利益」が尊重されてきた我が国社会の伝統的秩序を知りながらあえて許容区域に入場し、そこで自らの性器を他の利用者に見えるように行動しようとする者はもっと少なく、存在するとしても、ごく少数にすぎないであろうという点である。この点に鑑みるならば、以下に述べる点を措いて考えたとしても、5号要件非該当者によって許容区域利用者の「意思に反して異性の性器を見せられない利益」が損なわれる事態が発生する可能性はそもそも極めて低い。(←でも皆無といふわけではない) 第二に留意すべきことは、全ての許容区域は、これを公衆の用に供することを業として行う者の管理下にあるという点である。したがって、5号規定が違憲とされる社会に直面した許容区域の管理者は、①厚生労働大臣が各地方公共団体にする技術的助言及びこれを踏まえた許容区域の性別区分を定める諸条例においていうところの「男女」の解釈(なお、現行の上記技術的助言(令和5年6月23日付薬生衛発0623第1号)は「男女」の区分は専ら身体的な特徴によってなされるべきであるとしている。)や、②当該許容区域の利用者の意見等を勘案した上で、5号要件非該当者の当該許容区域への入場を禁止するか、許容するか(日時や曜日を限って入場を許容することなども考えられる。)、あるいは、その中間的な措置を講ずるか(無償又は有償で貸与する水着を着用することを条件として入場を許容することなども考えられる。)、いずれにせよ何らかのルールを利用規則として定める必要に迫られることになるであろう。しかるに、利用者間のトラブルの発生を未然に防止しつつより多くの利用者が満足し得るサービスを提供することは、許容区域の円滑な経営や適切な運営管理という観点からも許容区域の管理者が満たすべき喫緊の要請であるはずであるから、あらゆる許容区域の管理者は、5号要件非該当者の利用に関する当該許容区域の利用規則を定めるに当たっては、利用者が有している「意思に反して異性の性器を見せられない利益」が損なわれることのないよう細心の注意を払うとともに、定められた利用規則の内容を当該許容区域の利用者に周知徹底させるよう努めることが期待できる。この結果、許容区域の利用者の「意思に反して異性の性器を見せられない利益」が損なわれる可能性はさらに低くなるであろう。 以上を要するに、5号規定が違憲とされる社会であっても、「意思に反して異性の性器を見せられない利益」が損なわれる可能性は極めて低く、一方、この社会においては5号要件非該当者に性別適合手術を受けることなく性別の取扱いの変更を受ける利益が与えられるのであるから、同人らの自由ないし利益に対する抑圧は(許容区域への入場が無制限に認められるわけではない以上「完全に」とはいえないまでも)大幅に減少する。 なお、5号規定が違憲とされる社会においては、5号要件非該当者による許容区域の利用規則の有り様ようについての諸見解が、様々な公共空間において議論の対象となることが予想されるところ、そのような議論の結果によっては、追加的な立法措置や新たな司法判断により、5号要件非該当者とそれ以外の国民のいずれか又は双方の自由と利益に関して、上記に述べたものとは(もとより憲法上許容される限度においてではあるが)若干異なる事態が現出する可能性がないとはいえない。そして、この可能性がある点において、5号規定が違憲とされる社会は、5号規定が合憲とされる社会と比べるといささか 喧 かまびす しい社会であるといえるかもしれない。しかしながら、この 喧 かまびす しさは、5号要件非該当者とそれ以外の国民双方の自由と利益を十分尊重した上で、国民が享受し得る福利を最大化しようとする努力とその成果と捉え得るものである。(←ここまで開き直ってゐる人は初めて見た。陰茎のある人物が女湯に入ってきても、我慢しなさいといふのか。陰茎のある「女性」が同性愛者であって「女の人が大好き」といふ人物であったら、一体どうなってしまふのか)

5 以上によれば、5号規定が違憲とされる社会は、憲法が体現している諸理念に照らして、5号規定が合憲とされる社会に比べてより善い社会であるといえる。よって、5号規定の制約手段は5号規定の制約目的に照らして相当なものであるとはいえず、5号規定は本件規定と同様に違憲であると解するのが相当である。そして、抗告人が本件規定と5号規定を除く特例法上の要件を充たしていることは一件記録上明らかであるから、原決定を破棄した上で本件申立てを認める旨の決定を下すことが相当であると思料する次第である。

裁判官宇賀克也の反対意見は、次のとおりである。

1 私は、本件規定による身体への侵襲を受けない自由の制約は必要かつ合理的なものということはできず、本件規定が違憲であるとする点については、多数意見に全面的に同調する。多数意見が述べるように、現在では、生殖腺除去手術は、治療の最終段階ではなく、基本的に本人の意思に委ねられる治療の選択肢の一つにすぎなくなっているのであるから、生殖腺除去手術は、医学的観点から必要性が肯定されることに加えて、本人の真の同意がある場合に限り認められるべきといえよう。したがって、医学的必要性の有無にかかわらず、また、本人が生殖腺除去手術を受けることを望んでいるかを問わず、生殖腺除去手術を受けなければ法的性別の変更を認めない制度は、自認する性別と法的性別の不一致により多大な不利益を受けている者に、法的性別を自認する性別と一致させるために生命・身体への危険を伴う生殖腺除去手術を受けることを選択するか、危険を伴う生殖腺除去手術を回避するために自認する性別と法的性別の不一致に伴う社会生活における様々な不利益を甘受するかという過酷な二者択一を迫ることになる。そして、本件規定は、生殖腺除去手術を受けない者は真正の性同一性障害者ではないという、医学的根拠のない不合理な認識を醸成してしまうおそれがあると思われる。本件規定が設けられた主たる理由は、生殖能力を残存させたまま法的性別の変更を認めた場合、女である父、男である母が生じ得ることとなって、社会的混乱が生ずることであるが、多数意見が指摘するように、平成20年改正により、既に成人の子がいる場合には、女である父、男である母の存在が法的に認められており、同改正から15年以上を経過した今日において、そのことによって社会的混乱が生じているとは認められない。また、法的な観点とは別に、外見上は男性である者が子を出産する事態はあったとしても極めてまれであるのみならず、それは法的性別の変更如何と関わりなく生じ得る事態であり、本件規定には、かかる事態を防止する意義が認められない。さらに、性同一性障害者がホルモン療法や生殖腺除去手術の前に精子や卵子を凍結保存し、性別変更後にそれを利用して子をもうけることが医学的に可能になっているが、そのような事態は生ずるとしても極めてまれであるの みならず、本件規定によってかかる事態を防止することはできないから、その点においても、本件規定の存在意義は認められない。

そもそも、性同一性障害者は、法的性別の変更によって、突然、自認する性別による生活を開始するわけではなく、ホルモン療法等によって外見上の性別が変化し、さらに家庭裁判所の許可を得て名の変更を行い、外見も名も自認する性別に合致した生活をしているのが一般的であると考えられる。したがって、外見や名からうかがわれる性別と法的性別が不一致であることの方が、社会的混乱を招くことが少なくないように思われる。

2 本件規定は、生殖に関する自己決定権であるリプロダクティブ・ライツの侵害という面においても重大な問題を抱える。この点については、前掲最高裁平成3 1年1月23日第二小法廷決定の共同補足意見においても、性別適合手術による卵巣又は精巣の摘出が、生命ないし身体に対する危険を伴うとともに、生殖機能の喪失という重大かつ不可逆的な結果をもたらすと指摘されていたところである。リプロダクティブ・ライツも、憲法13条により保障される基本的人権と解してよいと思われるところ(←自由権に限定すべきである。また本人の同意なく強制的に行はれる手術とは、やはり異なる)、自認する性別と法的性別を一致させるために、自己の生殖能力を喪失させる生殖腺除去手術を不本意ながら甘受しなければならないことは、過酷な二者択一を迫るものであり、リプロダクティブ・ライツに対する過剰な制約であると考える。リプロダクティブ・ライツについては、身体への侵襲を受けない自由とは別に保障されていると解することもできるが、身体への侵襲を受けない自由に包摂されるという理解もあり得ると思われる。すなわち、2011年(平成23年)、ドイツの連邦憲法裁判所は、性別取扱いの変更について生殖能力喪失を要件とする規定を違憲であると判示したが、そこでは、人間の生殖能力は、基本法2条2項によって保護されている身体不可侵の権利の要素であると述べられている。(←外国の裁判所が何を言はうが関係ない。憲法76条3項は、裁判官はこの憲法及び法律にのみ拘束される、と規定してゐる)

3 私見によれば、身体への侵襲を受けない自由のみならず、本件のように、性同一性障害者がその性自認に従った法令上の性別の取扱いを受けることは、幸福追求にとって不可欠であり、憲法13条で保障される基本的人権といえると思われる。身体への侵襲を受けない自由との関連で問題になるのは本件規定及び5号規定に限られるが、性自認に従った法令上の性別の取扱いを受ける権利が憲法13条により保障された基本的人権であるとすれば、特例法3条1項の他の規定に関しても、基本的人権への制約が許されるかが問われることになる。 性自認に従った法令上の性別の取扱いを受ける権利が憲法上の権利として認められるという見解は、我が国の学説において有力であるのみならず、海外においても、国際人権法上又は憲法上、かかる権利が保障されるという考え方は、相当に有力であるといってよいと思われる。すなわち、2011年(平成23年)に、ドイツの連邦憲法裁判所は、性別適合手術を性同一性障害者による法的性別の変更のための要件とすることは違憲であると判示したが、その理由として、(ⅰ)基本法2条2項によって保障される個人の身体的不可侵性に対する過剰な制約、及び(ⅱ) 人間の尊厳を定める基本法1条1項及び人格の自由を定める基本法2条1項によって保障される基本的人権の過剰な制約、の2点を挙げている。後者の(ⅱ)について、ドイツ連邦憲法裁判所は、人間の尊厳は、人格の保護を求める基本的人権と結合し、自己の性自認の法的な承認を要求すると判示している。また、2017年 (平成29年)に、欧州人権裁判所は、法的性別の変更に生殖不能要件を課すことは、欧州人権条約に違反するとしたが、そこにおいては、性同一性障害者の性自認に従った法的性別への変更に生殖不能要件を課すことは、身体的完全性の権利の侵害のみならず性的アイデンティティの権利の侵害についても、欧州人権条約に違反すると判示している。 性自認は多様であるので、性自認に従った法令上の性別の取扱いを受ける利益といっても、その外延が明確性を欠くという議論はあり得るが、特例法2条が定義する性同一性障害者がその性自認に従った法令上の性別の取扱いを受ける利益に限れば、その外延は必ずしも不明確とはいえないと思われる。また、いささかでも外延が不明確であれば、憲法13条後段に基づく新しい基本的人権として認めないという考えをとれば、憲法に列挙されていない新しい基本的人権はおよそ考え難いことになる。当審がこれまで憲法13条後段に基づく新しい基本的人権として明確に認めた「みだりにその容ぼう・姿態(…)を撮影されない自由」(最高裁昭和40年 (あ)第1187号同44年12月24日大法廷判決・刑集23巻12号1625 頁)、「みだりに指紋の押なつを強制されない自由」(最高裁平成2年(あ)第8 48号同7年12月15日第三小法廷判決・刑集49巻10号842頁)、「個人に関する情報をみだりに第三者に開示又は公表されない自由」(最高裁平成19年 (オ)第403号、同年(受)第454号同20年3月6日第一小法廷判決・民集 62巻3号665頁)にしても、いずれも「みだりに」という不確定概念が用いられており、何が「みだりに」に当たるかは決して一義的に明確ではなく、その外延をめぐり学界で多様な議論があり、また、訴訟で争われることがあることは周知のとおりである。さらにいえば、憲法13条以外で規定された基本的人権も、表現の自由や信教の自由を考えれば明らかなとおり、決してその外延は明確ではなく、憲法学者の研究の大部分は、憲法上基本的人権として明記された権利の外延についての様々な解釈の優劣に関するものといってよいと思われる。検索エンジンやSNSの登場によって、表現の自由の外延について新たな議論が必要になったように、技術の進展等を含む社会情勢の変化に伴い、基本的人権の外延は変動の可能性を伴うのであり、変動する外延を確定していく努力は、判例や学説に委ねざるを得ないであろう。また、性自認が多様であり得ることは、日本に固有の事情ではないにもかかわらず、ドイツの連邦憲法裁判所や欧州人権裁判所が、前述のように、性自認に従った法令上の性別の取扱いを受ける権利を基本的人権として承認したことも、外延を完全に明確にできないからといって基本的人権としての承認を拒むのではな く、コアの部分を基本的人権として認めた上で、その外延をより明確化する作業は、その後の判例や学説に委ねるという立場をとったものと思われる。 そして、自認する性別と生物学的な性別が一致する者が誤って自認する性別と異なる性別を戸籍に記載され、その訂正が許されず、生涯、自認する性別と異なる法的性別を甘受しなければならない状況を想像すれば、性自認に従った法令上の性別の取扱いを受ける利益が人格的生存にとって不可欠であることについて、大方の賛同を得られると思われる。(←戸籍の訂正が許されることになる理由は「自認する性別と戸籍上の性別が食ひ違ってゐるから」ではなく「生物学的な性別と戸籍上の性別が食ひ違ってゐるから」ではないか?)さらに、性別変更審判が認められた例は、累計で1万件を超えているが、それによって社会的な混乱が生じていることはうかがわれず、また、特例法に基づく法的性別の変更が記載される戸籍は、一般に公開されないものであり、通常は既に変更されている外見や名に合致した法的性別に変更するものである以上、他者の権利侵害が、性同一性障害者の法的性別の変更に伴って生ずるとは考え難い。したがって、性同一性障害者が性自認に従った法令上の性別の取扱いを受ける利益は、憲法13条によって保障されると考えてよいと思われる。

4 抗がん剤の投与等によって生殖腺の機能が永続的に失われているような特別の事情がある場合には生殖腺除去手術なしに生殖能力が失われることによって本件規定の要件を充足する場合があり得る。5号規定についてもホルモン療法等によって手術をすることなくその要件を満たすことはあり得る。女性から男性への性別変更審判を受けた者については、そのような例が多いという調査結果も存在する。もっとも、5号規定についても、男性から女性への性別変更審判を求める者の場合には通常は手術が必要になるところ、その手術も、身体への侵襲の程度が大きく、生命・身体への危険を伴い得るものである。また、5号規定の要件を充足するための手術は不要な場合であっても、当該要件を満たすために行われるホルモン療法も、重篤な副作用が発生する危険を伴うものである。したがって、5号規定も、性自認に従った法令上の性別の取扱いを受ける権利と身体への侵襲を受けない自由との過酷な二者択一を迫るものであることは、本件規定の場合と異ならないといえる。他方において、5号規定を廃止した場合に社会に生じ得る問題は、もとより慎重に考慮すべきであるが、三浦裁判官、草野裁判官の各反対意見に示されているとおり、上記のような過酷な選択を正当化するほどのものとまではいえないように思われる。したがって、私は、5号規定も、本件規定と同様に違憲であるとする点で、三浦裁判官、草野裁判官の各反対意見に同調する。そして、抗告人が本件規定及び5号規定以外の特例法の要件を充たしていることは明らかであるから、原決定を破棄し、本件申立てを認める旨の自判をすべきものと考える。 (裁判長裁判官 戸倉三郎 裁判官 山口 厚 裁判官 深山卓也 裁判官 三浦 守 裁判官 草野耕一 裁判官 宇賀克也 裁判官 林 道晴 裁判官 岡村和美 裁判官 長嶺安政 裁判官 安浪亮介 裁判官 渡 惠理子 裁判官 岡 正晶 裁判官 堺 徹 裁判官 今崎幸彦 裁判官 尾島 明)

 

(令和5年11月5日 加筆)