いじめを許さない教師の会

世の中から「いじめ」を撲滅し、地球的正義の実現を目指す教師の会です。2007年6月24日に始まり、現在も活動しています。

病気も人生の一部である 

2018-04-07 07:14:45 | いじめ・教育
闘病中であっても心の修行はできる

 次に、老壮年期の自殺の問題に入ります。

 老壮年期においては、病気をして将来をはかなみ、「家族に迷惑がかかる」という理由で自殺するケースが多いのです。

 しかし、釈尊の時代から、「生」「老」「病」「死」という「四苦」の教えがあり、「人間は、生まれる苦しみ、老いる苦しみ、病気の苦しみ、死ぬ苦しみからは逃れられないのだ」と説かれています。

 その意味で、この世の今生については、「苦悩こそ人生の真実である」という見方もあるわけです。

 大昔から病気というものはあり、人は年を取って、やがて死んでいくのです。

 病気になり、それを苦にして自殺する人もいるわけですが、人間は、病気になるのが普通です。したがって、病気になることは、ある程度、人生に織り込み済みでなければいけないのです。

 ただ、人間は、病気になっても、ならなくても、死ぬときには死にます。

 病気になると、闘病生活は苦しいでしょうし、職業を失ったり、仕事がうまくいかなくなったりと、いろいろなことがあると思いますが、生かされているかぎりは、「まだ、この世に使命があるのだ」と思って、自分がやれるだけのことをやり終えてください。それが大事です。

 自殺すると、遺された家族に、さらなる悲しみで追い打ちをかけることになります。そして、その後、不成仏霊となり、家族や親族を頼っていきます。いま、生きているときに、「迷惑をかけている」と思うかもしれませんが、死んだあとも、不成仏霊となり、家族や親族に取り憑いて障りを起こし、彼らを苦しめてしまうのです。

 そのように、自殺したあとには、家族などに、もっと迷惑をかけることになるので、生命のあるかぎり闘っていただきたいのです。

 「自分は、もう終わりだ」と思うかもしれませんが、そんなことはありません。まだまだ、やれることはあります。

 今世において最後に残るものは心の修行です。それしかないのです。

 闘病中であっても、心の修行は可能なはずです。病気をしていても、「自分は、どのような心境を維持し、獲得することができるか」という修行はあるはずなのです

文明国では、老壮年期の病気は、ほとんどが生活習慣病

 ある人に病気が与えられたならば、それには、それなりの理由があります。

 もちろん、肉体的な欠陥による病気や遺伝性の病気もあるでしょうが、現代の文明国において、老壮年期の病気のほとんどは、食べ物、飲み物などの食事や、「どのような生活をしているか」という生活習慣から来るものです。仕事上、無理をしたり、運動不足であったり、食べすぎや飲みすぎをしたり、食べ物の内容が悪かったりすることが病気の原因なのです。

 このように、文明国における老壮年期の病気は、ほとんどが生活習慣病です。一方、発展途上国においては、栄養失調で死ぬ人が、いまだにたくさんいます。不公平なことですが、発展途上国では、栄養を摂れずに死んでいるのに、先進国では、栄養過多、運動不足、不養生で死んでいるのです。

 五十歳を過ぎてからの病気は、ガンであろうと、心臓病であろうと、脳出血や脳梗塞などの脳系統の病気であろうと、ほとんどは生活習慣に基づくものであり、ある意味で自業自得で起きているものです。

 早めに生活を改善し、健康生活に入らなければいけなかったのに、無理をしたか、運動をサボったか、そのどちらかのために、そうなったのです。

 避けられるものは避けるように努力したほうがよいと思いますが、最後は、どうしても病気をします。そのときには、避けられない運命として受け入れるしかありません。

 それも人生の修行課題なのです。あなたの人生の問題集の一章として、「肉体的な苦しみ」という課題が入っているのでしょう。「病気になり、肉体的な苦しみのなかで、どのように生きるか」という一章が、問題集のなかに入っているのでしょうから、その問題を頑張って解いてください。

 しかし、やがて死は訪れます。

 現代医学においては、人間の寿命を少し延ばすことができますし、死にかけた人を二度や三度は治すことも可能にはなっていますが、現代医学は、百パーセント、最後は死に敗れます。死に打ち勝った医学はないのです。いくら戦おうとも、必ず死に敗れることになっています。死は百パーセント勝ち、人は必ず死ぬことになっているのです。

 一つや二つの病気を克服しても、人は、やがて死にます。現代医学は、人間の寿命を少し延ばすことはできても、死から救うことはできないのです。現代医学にできるのは、その人にとって大事なときに病気で死なないように、死期を遅らせることぐらいです。医学は、最終的には病気に勝てず、死が百パーセント勝つことになっているわけです。

 これは「百対ゼロ」の勝負なので、医学に勝ち目はありません。そういうものだと思ってください。

病気のときに人は信仰に目覚めることもある

 厳しい闘病生活をしているとしても、その病気の原因は自分でつくっているのです。前述したように、生活習慣病は自分で原因をつくっている場合がほとんどですが、それ以外では心のマネジメントに問題があります。ストレス・マネジメントに失敗して病気が起きる場合も多いのです。

 ただ、それを乗り越えても、病気が起きることはあります。それは、逃れることができないものです。この世の人生には必ず終わりが来るからです。諦めて受け入れてください。

 病気も、あなたの人生の一部なのです。

 したがって、悲しい最期になるのならば、その悲しい最期を迎えなければいけないのです。そのような人生のシナリオもあると言わざるをえないので、そのときは、「自分には、こういう課題が残っていたのだ」と考えてください。

 しかし、病気のときに人は信仰に目覚めることもあります。それは大事なことです。健康で、仕事もうまくいき、「ハッピー、ハッピー」で生きていった場合には、信仰に出会わずに人生を終わることも多いのです。

 もちろん、信仰に出会ったとしても、やがて人は死にます。しかし、死ぬ前に信仰に出会い、信仰を手にしたならば、それは大きなことです。その意味で、病気も、信仰に入るための一つの大きな入り口なのです。

 そういうこともあるので、もし、信仰に入るチャンスとして病気になったならば、それもまた、ありがたいことだと思うべきです。

(「生命の法」第二章 自殺を防止するためには 第五節 病気も人生の一部である 大川隆法著より)

いじめを許さない教師の会 会長 後藤克彦

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