いじめを許さない教師の会

世の中から「いじめ」を撲滅し、地球的正義の実現を目指す教師の会です。2007年6月24日に始まり、現在も活動しています。

人々を救うために生命を使ってほしい 

2018-04-16 07:26:32 | いじめ・教育
自殺したくなったら病院や墓地へ行ってみるとよい

 自殺の原因は、いろいろあるでしょう。その理由には、それなりに、もっともなところがあるだろうと思います。

 ただ、自殺した人と同じような状況に置かれた人は、ほかにもたくさんいるのです。「現在もおり、過去にもいたのだ」ということを知ってください。

 自殺したくなったら、どうか、一度、大病院にでも行って、闘病している入院患者たちの姿を見てください。病気をしても、まだ生きようとして頑張っている人たちや、その人を助けようと努力している医者や看護師たちの姿を見てください。あなたはピンピンしているでしょうが、病院で闘病しながら生きようとしている人たちの姿を見ていただきたいのです。

 自殺する人は、悩みは持っていますが、たいていの場合、エネルギーが余っています。生命エネルギー、活動エネルギーをたくさん持っているのに、悩みの解決がつかないために死んでしまうのです。

 病院へ行って、病気の人を見てください。ガンで、あと一カ月の生命、三カ月の生命という人が、どれほど、「生きたい」と思って頑張っているかを見てください。みずから生命を絶とうとする前に、重病でもまだ頑張っている人の姿を見てください。

 そして、大病院の次は墓地へ行ってください。普段は行かないでしょうが、どこかの霊園にでも行き、散歩してみてください。お墓がたくさんあり、「××家の墓」というものが、ずらりと並んでいます。それを眺めてください。

 そこに眠っている人たちも、かつては生きていました。子供時代があり、青春時代があり、恋をし、仕事をし、出世競争をして、敗れたり、あるいは目標を達成したりし、老い、病に罹り、そして死んだのです。誰もが、夢を抱いて、さまざまな努力をし、死んでいったわけです。

 死んで、あの世へ行けば、この世の悩みはなくなります。したがって、「悩みがある」ということは、生きている証拠なのです。この世に生きているから悩みがあるのであり、死んで、あの世に行ったら、その時点で、この世の悩みはなくなるのです。

 死んだ人々の墓を見て、「自分にまだ生命がある」ということの尊さを感じてください。「残された生命を、どのように使わなければいけないか」ということを考え、その生命の尊さを感じてください。

 自殺したくなったら、闘病している人の姿や死んだ人のお墓を見てください。

 百パーセント、人は死ぬことになっています。焦らなくても、いずれは必ず死ぬので、「それまでのあいだを、どう生きるか」ということを考えてください。

自分の力を世のため人のために使う

 「自殺したい」と思っている人は、どうか、その生命を私に下さい。

 その生命を私に預けてください。

 死んでは、もったいないと思います。

 いずれは死ぬのですから、急ぐことはありません。

 その生命を使って、

 ほかに、やらなければいけないことが、あるのではないでしょうか。

 それを考えてください。

 私は、この世に生まれて、人間として生きている以上、

 六十数億人の人間のなかの一人として、有限の能力しか持っていません。

 私の持っている時間も一日に二十四時間しかありません。

 ところが、「きょう、ただいまにも自殺したい」と言っている、

 あなたの持っている時間も、同じ二十四時間です。

 私の時間も二十四時間で、あなたの時間も二十四時間です。

 これは不公平ではないでしょうか。

 私は、「世の中の人々を救いたい。大勢の人々を助けたい」と思っています。

 そういう人の時間が二十四時間しかなく、

 「いつ死んでもいい」と思って、自殺したがっている人の時間も、

 二十四時間あるのです。

 ずいぶん不公平だと思いませんか。

 それから、十代や二十代で、「自殺しよう」と思っている人がいるなら、

 考えてみてほしいのです。

 あなたは、自殺せずに順当にいけば、

 これから私よりも長い人生を生きることができます。

 あと何十年も生きることができるのに、もったいないことです。

 それだけの時間があったら、その時間を、

 どれだけ多くの人たちのために生かすことができるでしょうか。

 どれだけ多くの人たちを幸福にし、

 どれだけ多くの人たちを救うことができるでしょうか。

 それを考えたら、とても、もったいないことなのです。

 いずれ、あなたは死ぬでしょう。

 ただ、残された時間、許された範囲で、あなたの力を、

 どうか、世のため人のため、仏法真理のために使ってください。

 私は、大勢の人を救いたくても、限界があって救えないのです。

 毎日、とても辛い思いをしています。

 「私の体が百も二百もあればよいのに。

 私の時間だけ一日に二百四十時間ぐらいあればよいのに」と思いますが、

 実際には、ほかの人と変わりません。

 そのため、他の人の協力を得なければ、

 仏法真理を伝えることもできなければ、

 困っている人を救うこともできないのです。

仏法真理を伝道して、導きの光となれ

 「自殺したい」と思うぐらいならば、

 死ぬまでに百人にでも千人にでも仏法真理を伝道してください。

 多くの人を助けてから死んでください。

 そのほうがよいと思います。

 死にたくなくても、いずれ人は死ぬので、急ぐことはないのです。

 「自殺したい」と思っている人は、どうか、その生命を私に下さい。

 そして、私に代わって、私の仕事の一部を担ってください。

 人々を救う仕事をしてください。

 人を助けてから死んでもよいではありませんか。

 「誰も自分を助けてくれない」と言いつつ、

 自分は誰も助けることなく死ぬよりは、

 多くの人を助けてから死んでください。

 伝道をしてごらんなさい。

 実際に伝道活動をしたら、もう、自殺したくなるようなことばかり起きます。

 世の中の不信や無理解、揶揄、嘲笑、非難、差別、軽蔑などが、

 たくさんあります。

 「頭が狂っているのではないか」「おまえの妄想だろう」「狂信、妄信だ」など、

 さまざまな言葉を浴びせかけられ、ばかにされることもあります。

 それこそ、自殺したくなるようなことが次々に起きてきます。

 したがって、「自殺したい」と言うぐらいなら、むしろ伝道してください。

 そうすれば、もっともっと強くなるでしょう。

 世の中には、まだまだ、道を求めている人が数多くいます。

 どうか、その人たちのために導きの光となってください。

 そういうことをお願いして、本章を終わります。

(「生命の法」第二章 自殺を防止するためには 第七節 人々を救うために生命を使ってほしい 大川隆法著より)

いじめを許さない教師の会 会長 後藤克彦

心の修行によって無執着の境地へ

2018-04-14 07:26:26 | いじめ・教育
借金は年間の売り上げの二割以内に抑える

 以前、ある銀行が、融資先に対して、「おたくの宗教は仏教ですか。それはよかった。キリスト教なら、自殺が禁止されているから死ねないけれども、キリスト教でなければ問題ないでしょう。死んだら生命保険金が入りますから、ご主人に頑張ってもらいなさい」というようなことを言ったとして、マスコミから追及されたことがありました。

 銀行のやり方は昔からワンパターンです。銀行員には、融資をするときに、「あなたは生命保険に入っていますか」と、すぐに訊くような、嫌なところがあります。そういう、自殺を慫慂するような銀行の取り立てによって、迷惑を被っている人もいます。できれば、そんな“経済学”は持ちたくないものです。

 実際、私自身も、幸福の科学の初期に、銀行の担当者から、「ところで、先生は生命保険に入っているのですか」と訊かれたことがあります。ほんとうにワンパターンで腹立たしいことです。

 銀行の担当者が、「生命保険に入っていないと融資はできない」という言い方をするので、「最初から人に『死ね』と言うのか。そんなところから誰が借りるものか」と思いました。生命保険は担保の代わりなのでしょうが、そういう考え方は嫌なものです。

 商売においては、なかなか難しいとは思いますが、できれば無借金経営に持っていく努力をしてください。無借金経営をしていて首を吊った人はいないのです。首を吊った経営者は借金がある人ばかりです。

 もちろん、借金があっても、それを返せる人は首を吊りませんが、「借金を返せないため、高い利息を取る別のところに借り換えていき、それで追い込まれて死ぬ」というケースがほとんどなのです。

 経営者の自殺の原因は、ほとんどが借金です。あとは、脅迫をされたりして、追い詰められて死ぬ場合もあります。

 したがって、「借金は悪である」と思ったほうがよいのです。

 ただ、全国民が、私の言うことをきいて借金をしなくなったら、銀行が潰れて、また自殺者がたくさん出てしまうので、そこまで無借金経営を徹底させるのは極端でしょう。

 借金は、「するな」と言われても、どうしてもするものです。私は、それを知った上で、あえて、念のために言っているわけです。

 なるべく無借金経営を目指したほうが望ましいし、借金をする場合でも、できれば年間の売り上げの二割以内に抑えたほうがよいのです。売り上げの三割ぐらいまでは、借金ができる可能性はあるかもしれませんが、できれば二割ぐらいに抑えてください。

 年商が一億円ならば、借金は二千万円ぐらいまでに抑えておくことです。借金が、二千万円を超えて、五千万円、六千万円、あるいは、年商と同じ一億円ぐらいの金額になったりしたら、借金を返せなくなります。

 できれば無借金が望ましいし、それができないなら、借金は年間の売り上げの二割程度までに抑えてください。そして、チャンスがあれば返していき、借金の額を減らすことです。

 借金をつくる原因は、ほとんど、見栄による事業拡張や投資、あるいは、先見の明がなく見通しを誤ることです。もちろん、急激な環境の変化によって売り上げが減る場合もあるでしょうが、できるだけ無借金経営を願ってください。

金融機関には“日傘”しかないと思うこと

 トヨタ自動車は、現在、財務体質の強い会社ですが、昔は資金に困ったこともありました。そのときに銀行が融資をしてくれなくて苦労したため、トヨタは、「もう銀行からは借りない。これからは自己資金で生きよう」と考え、無借金経営を築いたのです。「銀行がお金を貸してくれない」という経験をして、そのような経営方針を採ったわけです。

 「金融機関は、こちらがお金を貸してほしいときには、貸してくれないものだ」と思わなければいけません。こちらが借りたいときには貸さず、こちらが借りたくないときには貸したがるのです。

 あまのじゃくで嫌な性格ですが、「金融機関には、日傘しかなく、雨傘はないのだ」と思ってください。雨が降ったときには傘を貸さず、晴れたときには傘を貸すのです。基本的に日傘しかないと思ったほうがよいでしょう。

 私にも、そういう経験があります。

 一九九一年ごろに、幸福の科学は、一部の悪質なマスコミから、いろいろと悪口を言われたことがあります。そういう記事が週刊誌などに出ると、金融機関は、とても怖がりました。当時、私は銀行の担当者を集めて融資の依頼をしたのですが、ただの一行も融資をしてくれませんでした。

 そのときに、銀行の人は、「幸福の科学は、先生お一人でもっているようなものなので、先生に万一のことがあったときに困るのです」「マスコミに、いろいろと書かれているので、怖いのです」など、いろいろと言っていました。

 ただ、そういうことを言っていた銀行は、その後、十年以内に、ほとんどが潰れたり別の会社になったりしています。どこも、「先見の明がなかった」ということでしょう。

 そのように、銀行は、大事なときにはお金を貸してくれないものですし、マスコミは、宗教に対して、“兵糧攻め”によって資金源を断とうとしてきます。

 そういうことがあったので、私は、「借入金があってはいけない。自己資金による無借金経営にしなければいけない」と考えて、幸福の科学を、そういう方向に持っていきました。

 もちろん、信者の協力もあってのことですが、当会は、現在、完全に無借金経営になっています。国内でも海外でも、支部や精舎を、すべて無借金で建てています。

心の修行によって無執着の境地へ

 無借金経営をするため、当会は、建物を建てることを、普通の宗教団体よりも十年ぐらい我慢したのです。無謀な投資はせず、自己資金をためたわけです。

 一定の段階まで粘ると、うまく回っていくようになります。最初は発展の速度が少し遅く感じられますが、うまくいきはじめると、その速度は速くなってくるのです。

 最初に三年分か五年分ぐらいの経営資金を借金すれば、一気に事業を始められるので、うまくいくような気がするものですが、それは焦りなのです。やはり、「小さく始めて、だんだん大きくしていく」ということが常道であり、実力以上の仕事をしてはいけないのです。

 自殺した経営者は、かわいそうではありますが、たいていの場合、無理や無駄、見栄などが、かなりあったはずです。

 社長でなくなったからといって、人生が終わるわけではありません。まだまだ、ほかに生きていく道はあるし、これからも幾らでも道は開けます。

 無理や無駄、見栄のために首を吊るのは愚かな話です。遺された家族は、たまったものではありません。「保険金さえ下りれば、それで終わりだ」と思っているなら無責任です。自殺者を親に持ったりしたら、子供は大変ですし、かわいそうです。

 さらには、たいていの場合、自殺者は天国へ行けないので、家のなかをうろついたり、マンションや会社の跡地に居座ったり、奥さんや子供に憑いて何十年も苦しめたりします。

 なかには、家族を引きずり込んで、奥さんや子供を自殺させたりすることもあります。そういう悪の連鎖は断たなくてはいけません。

 どうか、無理や無駄、見栄の部分を捨て、考えを改めてください。

 仏教では昔から無執着を説いています。無執着の境地になり、生かされていることの喜びを感じたなら、どんな職業に就いていても生きていけるのです。

 そのために大切なことは心の修行です。心の平静を得ること、穏やかな心を得ること自体が人生の一つの修行目標なのです。

 外見的な成功や失敗だけにとらわれてはいけません。そのなかにおいて、よりよい人間関係を築き、生き抜くことが大事です。

(「生命の法」第二章 自殺を防止するためには 第六節 経営者は「無理・無駄・見栄」を捨てよ 大川隆法著より)

いじめを許さない教師の会 会長 後藤克彦

経営者は「無理・無駄・見栄」を捨てよ 

2018-04-09 17:16:06 | いじめ・教育
不可抗力と思える事態や事故による危機もある

 病気以外には経済苦による自殺があります。

 悲しいことに、事業で失敗する人は数多いのです。

 自分としては一生懸命にやっていても、不可抗力と思える事態が起きることもあります。たとえば、鳥インフルエンザや、いわゆる狂牛病(BSE)が流行ったりすることがあります。

 また、事業そのものは順調であっても、事故が起きることもあります。たとえば、本業は順調だったのに、運営しているビルの回転ドアが死亡事故を起こした会社もありました。

 鳥インフルエンザが流行したとき、焼き鳥屋などは、かなり苦しんでいたので、家の職業が焼き鳥屋でなかった人は感謝すべきでしょう。それから、アメリカで狂牛病が発生したときには牛丼屋も大変でした。

 そのように、一つの商品で一本勝負をしているところは、うまくいっているときにはよいのですが、「いざ」というときには大変なことになります。いつ危機が襲ってくるか分からないので気の毒です。

 そういう危機に対する備えができていればよいのですが、できていない場合には、あえなく敗れていくこともあるでしょう。それもまた人生の一局面です。

時代の流れを恨んでも、しかたがない

 また、繁盛していたのに、向かいに大きなスーパーができて、店が潰れることもあります。スーパー進出の反対運動を一生懸命にやったとしても、できるものはできるし、こちらが潰れるときには潰れるのです。

 ただ、全国的に見ると、酒屋や米屋など、「パパママ・ストア」といわれる個人商店は、ここ数十年、次々と消えています。

 ところが、それで国民全体が不幸になったかといえば、必ずしもそうではありません。

 スーパーがたくさん進出したために、パパママ・ストアはなくなっていきましたが、そういうところがどうなったかというと、ほとんどはコンビニのチェーン店などに切り替わって生き延びています。それを潔しとしないで、「うちは、いまの商売をずうっと護るのだ」と言っていたところは、やはり潰れています。

 プライドの問題もあるかもしれませんが、コンビニ・チェーンなどの傘下に入って生き延びたところもあれば、商売を諦めて転業したところもあり、道は、いろいろなのです。

 世の中には、自分の思うようにならないことは、たくさんあります。それは、しかたがありません。自分としては、よいと思っても、周りの状況が許さないこともあります。

 客観的に見て、どうしても必要なものであれば、生き延びていくはずですが、「生き延びられない」ということは、「厳しい競争にさらされている」ということなのです。もっとよいサービスを提供したり、もっとよい商品を出したりするところが必ず出てくるわけです。

 それは、生き延びられないところにとっては、悲しいことではありますが、他の多くの人々にとっては、有利なこと、便利なことでもあるのです。

 そういう競争に打ち勝てなければ、敗れていくことになります。敗れる者は悲しいけれども、「それによって、社会全体としては進歩しているのだ」と思って、諦めることです。どこかの傘下に組み入れられるなり、別の職業に就くなりして、自分の居場所を探さなければいけません。古いままで、いつまでも、いまの商売を護ろうとしても、護り切れるものではないのです。

 時代は変わっていきます。時代の流れだけは、どうしようもないところがあるので、そのなかで生き方を決めていかなければなりません。時代の流れを恨んでも、しかたがないのです。

 倒産は辛いことです。ただ、それが自分の不見識によるものであるならば、自分に責任があるのは当然です。また、自分が頑固であるために潰れることもあります。

生命保険で借金を返そうと考えてはならない

 最近は、生命保険に加入して一年か二年たてば、保険金目当ての自殺でも保険金が下りることになっているようです。そのため、「事業経営者が生命保険に入って自殺し、保険金で借金を返す」ということが増える可能性があり、暗澹たる気持ちになります。

 「生命保険で借金を返そう」という考えは持つべきではありません。そこまでして、自分が社長でいなければいけない理由もないでしょう。プライドや、これまでの行きがかりで、そういうことを考えるのでしょうが、悲しいことです。

 そして、生命保険に入り、「これで、自分が死ねば借金を返せる」と思っていると、その思いに、ぐうっと引き寄せられていって、自殺してしまうことになりやすいのです。

 また、自殺して借金を返すつもりではないとしても、「自分が死んだあとに、保険金が何千万円か何億円か入れば、妻や子供は何とかやっていけるだろう」という気持ちで保険に入る場合もあるでしょう。しかし、多額のお金が入ると、それが人間を迷わし狂わせることは多いのです。多額の保険金が入ったために、そのお金で事業を始めて、失敗したりすることもあります。

 「生命保険金を元手にして事業経営を始める」ということは、“ウルトラC”として、成功することもまれにありますが、普通は、やめておいたほうが賢明です。

 それから、自分が死んで遺族に一億円の保険金が入ったら、遺された奥さんが、そのお金を持って、ほかの男と結婚してしまったので、あの世で怒り狂っている人もいます。「女房や子供のためと思ったのに、なんだ。おれが死んだら、一年もしないうちに、ほかの男と再婚するなんて。生命保険金が惜しい」と言って、あの世で暴れている人はたくさんいます。

 したがって、お金は、ほどほどでよいのです。

 「いざとなったら、生命保険で借金を返す」という考えは、実際にそうなることもあるので、ほんとうに“縁起でもない”ことだと言えます。

(「生命の法」第二章 自殺を防止するためには 第六節 経営者は「無理・無駄・見栄」を捨てよ 大川隆法著より)

いじめを許さない教師の会 会長 後藤克彦

病気も人生の一部である 

2018-04-07 07:14:45 | いじめ・教育
闘病中であっても心の修行はできる

 次に、老壮年期の自殺の問題に入ります。

 老壮年期においては、病気をして将来をはかなみ、「家族に迷惑がかかる」という理由で自殺するケースが多いのです。

 しかし、釈尊の時代から、「生」「老」「病」「死」という「四苦」の教えがあり、「人間は、生まれる苦しみ、老いる苦しみ、病気の苦しみ、死ぬ苦しみからは逃れられないのだ」と説かれています。

 その意味で、この世の今生については、「苦悩こそ人生の真実である」という見方もあるわけです。

 大昔から病気というものはあり、人は年を取って、やがて死んでいくのです。

 病気になり、それを苦にして自殺する人もいるわけですが、人間は、病気になるのが普通です。したがって、病気になることは、ある程度、人生に織り込み済みでなければいけないのです。

 ただ、人間は、病気になっても、ならなくても、死ぬときには死にます。

 病気になると、闘病生活は苦しいでしょうし、職業を失ったり、仕事がうまくいかなくなったりと、いろいろなことがあると思いますが、生かされているかぎりは、「まだ、この世に使命があるのだ」と思って、自分がやれるだけのことをやり終えてください。それが大事です。

 自殺すると、遺された家族に、さらなる悲しみで追い打ちをかけることになります。そして、その後、不成仏霊となり、家族や親族を頼っていきます。いま、生きているときに、「迷惑をかけている」と思うかもしれませんが、死んだあとも、不成仏霊となり、家族や親族に取り憑いて障りを起こし、彼らを苦しめてしまうのです。

 そのように、自殺したあとには、家族などに、もっと迷惑をかけることになるので、生命のあるかぎり闘っていただきたいのです。

 「自分は、もう終わりだ」と思うかもしれませんが、そんなことはありません。まだまだ、やれることはあります。

 今世において最後に残るものは心の修行です。それしかないのです。

 闘病中であっても、心の修行は可能なはずです。病気をしていても、「自分は、どのような心境を維持し、獲得することができるか」という修行はあるはずなのです

文明国では、老壮年期の病気は、ほとんどが生活習慣病

 ある人に病気が与えられたならば、それには、それなりの理由があります。

 もちろん、肉体的な欠陥による病気や遺伝性の病気もあるでしょうが、現代の文明国において、老壮年期の病気のほとんどは、食べ物、飲み物などの食事や、「どのような生活をしているか」という生活習慣から来るものです。仕事上、無理をしたり、運動不足であったり、食べすぎや飲みすぎをしたり、食べ物の内容が悪かったりすることが病気の原因なのです。

 このように、文明国における老壮年期の病気は、ほとんどが生活習慣病です。一方、発展途上国においては、栄養失調で死ぬ人が、いまだにたくさんいます。不公平なことですが、発展途上国では、栄養を摂れずに死んでいるのに、先進国では、栄養過多、運動不足、不養生で死んでいるのです。

 五十歳を過ぎてからの病気は、ガンであろうと、心臓病であろうと、脳出血や脳梗塞などの脳系統の病気であろうと、ほとんどは生活習慣に基づくものであり、ある意味で自業自得で起きているものです。

 早めに生活を改善し、健康生活に入らなければいけなかったのに、無理をしたか、運動をサボったか、そのどちらかのために、そうなったのです。

 避けられるものは避けるように努力したほうがよいと思いますが、最後は、どうしても病気をします。そのときには、避けられない運命として受け入れるしかありません。

 それも人生の修行課題なのです。あなたの人生の問題集の一章として、「肉体的な苦しみ」という課題が入っているのでしょう。「病気になり、肉体的な苦しみのなかで、どのように生きるか」という一章が、問題集のなかに入っているのでしょうから、その問題を頑張って解いてください。

 しかし、やがて死は訪れます。

 現代医学においては、人間の寿命を少し延ばすことができますし、死にかけた人を二度や三度は治すことも可能にはなっていますが、現代医学は、百パーセント、最後は死に敗れます。死に打ち勝った医学はないのです。いくら戦おうとも、必ず死に敗れることになっています。死は百パーセント勝ち、人は必ず死ぬことになっているのです。

 一つや二つの病気を克服しても、人は、やがて死にます。現代医学は、人間の寿命を少し延ばすことはできても、死から救うことはできないのです。現代医学にできるのは、その人にとって大事なときに病気で死なないように、死期を遅らせることぐらいです。医学は、最終的には病気に勝てず、死が百パーセント勝つことになっているわけです。

 これは「百対ゼロ」の勝負なので、医学に勝ち目はありません。そういうものだと思ってください。

病気のときに人は信仰に目覚めることもある

 厳しい闘病生活をしているとしても、その病気の原因は自分でつくっているのです。前述したように、生活習慣病は自分で原因をつくっている場合がほとんどですが、それ以外では心のマネジメントに問題があります。ストレス・マネジメントに失敗して病気が起きる場合も多いのです。

 ただ、それを乗り越えても、病気が起きることはあります。それは、逃れることができないものです。この世の人生には必ず終わりが来るからです。諦めて受け入れてください。

 病気も、あなたの人生の一部なのです。

 したがって、悲しい最期になるのならば、その悲しい最期を迎えなければいけないのです。そのような人生のシナリオもあると言わざるをえないので、そのときは、「自分には、こういう課題が残っていたのだ」と考えてください。

 しかし、病気のときに人は信仰に目覚めることもあります。それは大事なことです。健康で、仕事もうまくいき、「ハッピー、ハッピー」で生きていった場合には、信仰に出会わずに人生を終わることも多いのです。

 もちろん、信仰に出会ったとしても、やがて人は死にます。しかし、死ぬ前に信仰に出会い、信仰を手にしたならば、それは大きなことです。その意味で、病気も、信仰に入るための一つの大きな入り口なのです。

 そういうこともあるので、もし、信仰に入るチャンスとして病気になったならば、それもまた、ありがたいことだと思うべきです。

(「生命の法」第二章 自殺を防止するためには 第五節 病気も人生の一部である 大川隆法著より)

いじめを許さない教師の会 会長 後藤克彦

大人になれば親とは別の家庭を築ける 

2018-04-03 09:36:26 | いじめ・教育
子連れ再婚の家庭で起きた事件

 それから、青春期には、家庭環境の問題で自殺する人も多いようです。

 子供時代は辛いかもしれませんが、やがては大人になります。大人になったら、あなたはあなたで別の家庭を築くことは可能なのです。

 自分の家庭が嫌だったら、「親のようにはなるまい」と思って、まったく違う家庭をつくればよいのです。

 したがって、「あと数年ぐらい我慢できませんか」ということです。

 以前、ある新聞に、家庭問題が原因で自殺した少女の記事が載っていました。

 記事によると、その少女の家庭は、母親が娘を連れて子連れ再婚をした家庭でした。

 一般に、再婚の場合、子連れだと条件が悪くて非常に不利なのですが、男には、いやらしいところがあり、「子連れでも、息子の連れ子は嫌だが、娘の連れ子ならいい」と考える男性は、けっこう多いのです。

 男性にとって、息子を連れてこられるのは、うっとうしいものです。最初は小さくても、やがて大きくなるため、男同士で戦いになります。家のなかで中学生や高校生の息子が暴れる姿など、想像するだけでも嫌なので、連れ子でも、「息子は嫌だが、小さい娘が一人だけならよい」と考える男性は、わりに多いのです。

 それで、母親のほうは、「『娘がいてもよい』と言ってくれて、ありがたい。優しい人だ」と思って結婚するのですが、やがて娘は大きくなってきます。親子といっても、義理の父親と娘とは血がつながっていません。

 そのため、娘が大きくなり、体が大人になってくると、義理の父親のほうは、若い愛人を囲っているような気分になることがあるのです。

 その新聞記事によると、「義理の父親が十五歳の娘を強姦した」ということでした。それで娘が妊娠してしまい、法律上、中絶のできる、ぎりぎりの時点になったため、とうとう、その事実を父親が母親に告白したわけです。

 その後、父親は家を出たのですが、ストーカーのごとく家の近辺を徘徊するようになったため、告訴され、警察に強姦罪で逮捕されました。しかし、父親は、「娘のほうから誘われた」と言って無罪を主張したのです。

 結局、娘は十七歳で飛び降り自殺をしてしまいました。

 不幸な悲しい事件ではありますが、そういうことは、ある程度、結婚前に予見されることでもあります。「子連れ再婚では、そういうことがよく起きる」ということを、あらかじめ知っておいたほうがよいのです。

不幸な出来事のあとの生き方は人それぞれ

 家庭内の問題は、外に漏れないようにされることが多いのですが、ときどき、ちょろちょろと漏れてきます。おそらく、水面下には、もっとたくさんあるだろうと思います。

 男女の問題は、現実に、いろいろと起きてくるものです。

 その新聞記事のように、義理の父親に性的な虐待をされて自殺する子もいれば、同様の体験を小説に書いて作家になった女性もいます。

 二千五百年前の釈尊の時代にも、やはり、似たようなことはありました。

 ある女性が結婚して娘を産んだのですが、その女性は、娘が小さいころに夫の家を出てしまい、別の町で大商人に見初められて、その人の妻になりました。しばらくして、その夫が第二夫人を連れてきたのですが、その女性は、実は自分の別れた娘であり、母子で同じ男性を共有していたことが分かったのです。

 それで、その女性は世をはかなみ、出家して仏陀教団に入り、有名な代表的尼僧になったと言われています。

 世の中には、そういう女性もいるのです。

 人生には、いろいろと不幸な出来事はありますが、その後の生き方は人それぞれなのです。人生は長いので、逆転することは可能です。まだまだ、よいことはたくさんあるので、どうか、思い詰めずに粘り抜いてください。

 青春期には、以上のような問題が多いと思います。

(「生命の法」第二章 自殺を防止するためには 第四節 大人になれば親とは別の家庭を築ける 大川隆法著より)

いじめを許さない教師の会 会長 後藤克彦