感受性とは(4) | Let's play!

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アレクサンダー・テクニーク教師 かつみの日常のブログです。

感受性と老い、病気などについての、宇野多美恵さんの文章です。
この文章を読んでみると、アレクサンダー・テクニークや分離唱で扱っているものとつながってきます。
それは、通常の意識に上ってこないまま、退化に気づかず、失ってゆくものです。
なぜ気づかないのか。
そこに「感受性」が大きく関わっていると、宇野さんは書いています。
そして、それを教育することができる、という希望がアレクサンダー・テクニークや分離唱、魂合気にあると、私は思っているのです。


人間の進化した脳の困ったクセを「脳の落とし穴」いうのは、そのような脳の働き方(感受のない観念の能力)ばかり使っていると、(実は、その能力のおかげで人類は今日の文化と繁栄をものにしたのだが、しかし、そのような脳の使い方しか知らずに生きていると、)感受性が悪くなり、生命カンが退化して、生命の感受性に基づいてスナホに考える、と
言うマットウな脳の使い方ができなくなってしまうからである。 
 
しかも、現代人は、多かれ少なかれ、殆んど誰でも、その困ったクセが、こびりついてしまっているので、自分で、自分の困ったクセに、気がつくことがない。反省する、とか、発想を変える、とか、発明・発見・創作・独創などといっても、観念のレベルでしかできず、それ以外の脳の使い方があるとは、全く考えられない。 
 
我々は日常何をするにも、(立っていても座っていても歩いていても、食べたり飲んだり、入浴やトイレの際でも、)常に、絶え間なく脳が働いていて、感受性はお留守の状態になっている。 
 
立ったり座ったり歩いたりする姿勢が悪くなっていても、手足や首の動かし方が無理な緊張をため込んでいても、また、胃腸や肺や心臓などの内臓の状態が、疲れや歪みを来していても、そして、そのために、なんとなく、アンバランスが不快感や嫌悪感を抱えていても、すでに、それが、無意識の癖になってしまっているから、その不快感や嫌悪感を意識に上らせることなく押し流して、(あきらかな病気の苦痛や癌の症状が出るまで、)気がつかない。 
 

宇野さんの文章は、もっとカタカムナの言葉を使って、相似象的に書かれています。でも、とても読めなくなってしまうと思うので、カタカムナの言葉は省略しました。
私たちはオーダーする脳の部分ばかりを意識してしまいますが、そうではない部分の方が元々の役割である、と言っています。どれだけの情報を受け取れなくなっているのか、カタカムナを使っていた上古代人にまだまだ追いつくことができない、という今まで教わってきたことと全く逆のお話です。


わたしは「感受性」というものは、もっとアーティスティックで、表現に必要なものだとシンプルに思っていたのですが、宇野さんの文章を見ると、生きるのに必要、必須なことであるのがよくわかります。
感受性を失っていくことは、ただの機械になってしまうことではないのでしょうか。
感受性とは、その人たらしめているもの、その人の生きる力と大きく結びついているものだと思います。
今一番大切なことは、感受性の復活なのではないのでしょうか。


荒川克美ホームページ