今朝のことだ。
母と朝食を取りながら見るでもなくついているテレビのニュースで、ガザの軍事侵攻について報道されていた。車椅子に家財道具を積んで避難しているラファ周辺の人々の映像を見て母が言った。
「こうして特別ではないけど、毎日ちゃんと朝ご飯食べれるのは幸せな事なのかもね」と。
僕の中の何がそうさせたのかはわからない。だけれども、僕の口から出たのは、
「その理屈だと、静岡の知事の理屈と大して変わらなくなるよ」というものだった。
もちろん、母の意図も、知事の理屈とも僕の言う事は違うのだけれど、何故かその言葉が口をついて出た。
静岡の知事、もう前知事なのかな?彼が度々していた失言の共通点は他者を腐して二人称で呼びかける人々を上げる事だと思う。そして、母が言わんとしていたのは、何気ない朝食の幸せをラファの困難な人達を見て改めて気付いただけの事だ。要は、コントラストなんだと思う。
最近、好きな子とのライン上の会話で、公園でのんびり過ごしてるときほど世界が美しく見えると言う僕に対して、彼女は補足的に、元々、美しい世界に余裕がある時に気付くんだみたいなことを言ってくれた。その通りだと思った。
世界は、僕らも含めた世界は、僕らに関係なく美しいし、幸福なんだと思う。
でも、それに気づくにはコントラストが必要で、美しさも幸福感も知覚するのに?いや、厳密には知覚して対象として扱うとなると、相対的な存在にならざるを得ないのだろう。
知覚する段階ではきっと世界の美しさや、幸福感は絶対的な存在で、それを言葉にしようとしたり、反芻する時に相対化され、比較対象が生まれてそれによって初めて他者と共有できる状態になるのだと思う。
でね、思ったんだ。
別に幸福感を他者と共有する必要なんて無いし、自分勝手に幸福であって良いのではないか?
でも、それが難しいのは、僕らは世界そのものだからだ。要するに、自分の範囲を決めているその枠組み?具体的に言えば素っ裸の僕は僕なのか?と言うと、髪の毛やヒゲ、それらが有る無しで考えられることから、もしかしたら髪の毛や、ヒゲなんかもアタッチメントでそれらも自分から取り外しても良いのかも知れない。そんなこと言ったらカラコンとか使えば瞳の色や大きさも変えられるし、身体パーツは代替可能なものがあり、時間軸まで含めると、結局のところ、僕のオリジン、最小限の僕なんてものはどこにも無いように感じてしまう。
もしかしたら、この辺の事を精密に考えていけばそれなりにアカデミックな価値のあるテーマなのかも知れないけど、僕は、僕が幸福であれさえすれば良くて、多少世間に、愛する人に認めてもらいってのはあるから、そっちが優先されちゃう。
で、結局はさ、僕は相対的な幸福感を求めているのだと思う。
だとしたら、今朝の母の言葉に異を唱えるようなことを言ったことを後悔しているのだ。
なんかさ、ホント情けないけど、いや、情けないと思うのがそもそもって話もあるけどさ、自分が幸せであることを切に願っていると、自分が分からなくなり、かと言って人間とか社会とか、世界だとか、宇宙なんて規模で考えると、途端に自分なんて小さな存在は誤差であり、外れ値なんだよね。
実際、そう言ったのかは知らないが、項羽の気持ちがちょっとわかる気がする。
あ、結局、項羽も汝を如何せんって女のこと考えたのか(笑)
なら、僕はきっと項羽だ(笑)