*認知症の人間の言動は理解不可能か・第3回
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ふだんみなさんが健康や病気という言葉を切実に口にするときのことを思い返してみてほしい。自分の胸に手を当ててそのときのみなさんの心の声に耳を澄ませてみてほしい。たとえば、「今年一年健康でいられますように」とか「病気が治りますように」と神頼みしているときみなさんの心は何を要望しているか。
健康とは「健やかに康らかに」と書く。ふだんのみなさんにとって健康という言葉は、「苦しんでいない」ということを意味するものではないか。
かたや病気とは「気を病む」と書く。「気を病む」とは苦しむということである。「病気が治りますように」と祈念しているときのみなさんにとってその病気という言葉は、「苦しんでいる」ということと、その苦しみが「手に負えない」ということを表現するものではだろうか。
要するにふだんみなさんが、やれ健康だ、やれ病気だとしきりに言うことで問題にしているのは「苦しくないか、苦しいか」ではないか、「正常か、異常か」ではなくて?
みなさんが医学にその使命とするよう所望してきたのは、「苦しんでいるひと」に手を差し伸べ、「苦しまないで居てられるようになる」手助けをすることではないか。
異常なひとを正常にすること、すなわち、医学の頭のなかにある「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致するありようになるようひとを矯正すること、ではなくて?
みなさんは医学にそんな、ひとの言動の中身、言い換えると、「内心」、にまで踏み込む警察たることを果して求めてきたのだろうか。
今回俺たちは、認知症や軽度認知障害と診断され、「異常」と見なされることによって自尊心を傷つけられても、それは仕方のないことだと諦めて我慢しないといけないのか考察した。俺たちのたどり着いた答えは否だった。異常な人間などこの世に存在し得ないというのがその理由であり、みなさんが医療に問題とするよう求めてきたのはそんな「正常か、異常か」でなく、「苦しくないか、苦しいか」であると思われるということだった。
(→次回)