*認知症の人間の言動は理解不可能か・第3回
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「お前は、そのひとたちには何ら問題がない、放っておけばいいと主張するのか! お前こそ真の人でなしだ! 人間の心がないのか! 恥を知れ、恥を!」
けれども俺たちはそのひとたちに問題がないなどとは一度も言っていない。放っておけばいいと示唆したこともない。異常なひと(人でなし)はこの世に存在し得ないという極々当たり前の論理を示したまでである。そうすることで俺たちがしているのは、「そのひとたちのことは放っておけばいい!」と仄めかすことなんかでは決してなく、ひとを診るときに「問題」とするところが違っている、という論理的異議申し立てである。
要するにこういうことである。
医学がひとを診るときに「問題」としてきたのは何か。
医学が「問題」にしてきたのは、ここまで見てきたように正常か、異常かである。
もっと詳しく言うと、医学の頭のなかにある「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致しているか、していないかである。
つまり、医学にとっての治療の目的はそのひとたちを、医学の頭のなかにある「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致するありように矯正することである。
ところがちょうどいま理論的に証明されたのは、そもそもそんなイメージに合致しているか、していないかを「問題」にすることは無意味だ、ということである。誰かのありようが、こちらの頭のなかにある「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致していないと思われたときに俺たちが真にしなければならないのは、俺たちがひとというものに対してもっているそのイメージのほうを、そのひとの実際のありようとも合致するものとなるよう修正する(豊かにする)こと、すなわち学びである。
なら、ひとを診るときに真に「問題」とされるべきは何か。
それは「苦しみ」ではないか。
俺たちが心の底でずっと望んできた医療とは、「苦しまないで居てられるようになること」を手助けするものではないか。
ひとつふり返ってみてほしい。みなさんはふだん健康、病気という言葉を、医学のようにそれぞれ、正常であること、異常であることとして使って生きてきただろうか?
つまり健康、病気というそれら二つの言葉をそれぞれ、医学の頭のなかにある「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致していること、合致していないこととして使ってきただろうか?
*問題を「正常か、異常か」ではなく、「苦しくないか、苦しいか」であるとすれば、治療から得る利益、こうむる不利益とは何を意味することになるか。