*認知症の人間の言動は理解不可能か・第3回
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ではここでひとつ想像してみてほしい。いまみなさんは、Cさんというひとの実際のありようを、みなさんの頭のなかにある「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージと比べている。
Cさんのありようは、みなさんの頭のなかのそのイメージに合致していない。
そんなとき(精神)医学ならどうするか?
(精神)医学なら、先ほど確認したように、そのイメージに合致していないことをもってCさんのことを問題有りと考える。つまり、「人でなし」と見なす。それが、何度も言うように、そのひとのことを異常と判定するということである。
けれども、イメージに合致していないそのときにしなければならないのは本当にそんなことだろうか? イメージに合致していないことをもってCさんのことを問題有りと考えるそんなことだろうか?
違うだろ?
そのときみなさんが本当にしなければならないのは、みなさんの頭のなかにあるその「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージのほうを、Cさんのありようとも合致するものとなるよう、すなわち、そのCさんをも正常と見ることができるようになるよう修正し、豊かにすることだろ?
まさにそれこそが「学び」だろ?
そもそもCさんのありようが、みなさんの頭のなかにある「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致していないというのは何を意味するか。
それは、みなさんがひとというものに対して持っているイメージが未熟である、ということを意味するのではないか?
俺たちが、俺たちの頭のなかにある「ひととはコレコレこういうものだ」というイメージに合致していないと思われるひとに出くわす度にすべきことは、そのイメージのほうを、そのひとのありようとも合致するものとなるよう修正する、豊かにすることである。したがって、異常(人でなし)と判定されることになるひとは、この世にひとりも出てくるはずはないわけである。