武弘・Takehiroの部屋

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歴史ロマン『落城』(4)

2024年05月13日 02時58分05秒 | 文学・小説・戯曲・エッセイなど

ちょうどその頃、鎌倉公方方にも明るい知らせが入った。それは安否が不明だった足利持氏が、駿河国まで逃げ延びて今川範政(のりまさ)に保護されたというのだ。また、同じく逃亡していた関東管領の上杉憲基は、越後国にいる伯父の上杉房方(ふさかた)のもとへ落ち延びたという。
これで京都の室町幕府は、公方と管領を助けるために、氏憲らの勢力を駆逐する方針を決めた。そして、関東を中心とした諸大名・諸豪族に呼びかけ、軍勢を動員して討伐作戦を開始するよう命じたのである。しかし、緒戦の勝利で氏憲方の勢力はまだ非常に強かった。関東を二分する大がかりな戦乱がこうして始まったのである。

しばらくして、氏憲方の連合軍1000人余りが山口城に攻めかかってきた。守る方はわずかに約130人である。しかし、兵力の差は圧倒的であっても城を攻めるのはけっこう難しい。守る方は地の利を得ているからだ。昔、楠木正成の軍勢が山城にこもり、鎌倉幕府の大軍を少人数で撃退したことは誰でも知っている。
だから、氏憲方の連合軍も山口城を見くびってはいない。最初から猛攻をかけてきた。矢が雨あられと降りそそぐ。中には“火矢”もかなり含まれていて、山口勢は防戦、防火に大わらわとなった。味方は3班態勢をとり、第1班と第2班はそれぞれ約50人で和田信春と稲村幸正が指揮をとっている。
武弘は第3班の約30人の指揮官だが、この班は遊軍的な性格を持っていた。情勢に応じて戦闘や補給、偵察など何でもこなす部隊である。この中には、武弘が親しくしている農夫の庄太もいた。
「殿、久しぶりの戦(いくさ)ですよ。腕が鳴りますな~、はっはっはっは」
「戦いは長引きそうです。十分に気をつけてください」
彼は気持よさそうに笑ったが、武弘は気を引き締めるように答えた。そして、館の方を見ると、女性たちが負傷者の手当てはもちろん、炊き出しなどで忙しく働いている。その中に、かいがいしく動く“たすき掛け”の小巻の姿もあった。こうして、山口城をめぐる攻防戦は次第に激しくなっていったが、頼みの援軍は石神井の方からまだ来なかった。

一方、鎌倉周辺の情勢は氏憲方が圧倒的に優勢だった。氏憲はすぐ北の藤沢氏に目をつけ、使者を出して藤沢忠道との面会を求めた。すでに述べたように、忠道は長年 氏憲に仕えて主従関係にあったため、当然、味方するようにとの催促である。ところが、当主の忠則は「中立」を堅持しており、氏憲方になかなか与(くみ)しようとはしない。
業を煮やした氏憲は、みずから藤沢城に乗り込むことにした。そして11月初旬のある日、氏憲は20数人の家来を引き連れて藤沢を訪れ、忠道にただちに面会した。彼は飛ぶ鳥を落とす勢いの氏憲に平伏する。
「殿、ご無沙汰しております。ご機嫌うるわしく拝察いたします」
すると、氏憲は威嚇するように詰問した。
「挨拶はどうでもいい! 当家はわが方の味方ではないのか? 早急に態度を決めてくれ」
「息子(忠則)は藤沢家は中立だと言っております。しかし、それがしは同意しておりません。今しばらくお待ちください。必ず、殿にお味方するようにいたします」
「そうか、一日も早くそうしてくれ」
忠道の答えに氏憲は納得したのである。

このあと、氏憲は藤沢家に養子として入った“実子”の忠宗と会い、2人だけでけっこう長く話し合った。密談だったが、2人が何を話し合ったかはだいたい察しがつくだろう。氏憲の一行が帰ったあと、忠道はすぐに忠則と忠宗、それに志乃の方を呼び寄せた。
「氏憲公はもう我慢ができないと言っていた。一日も早くお味方をしなければ、藤沢家は間違いなく攻撃を受けるだろう。そして、取り潰しに遭うに違いない。 忠則、もう中立だなどと言っている場合ではないぞ! 早急に氏憲公にお味方しよう。そう決断すべき時だ」
忠道の激しい口調に、忠則は困惑の表情を浮かべて答えた。
「父上、待ってください。氏憲さまのご意向は分かりますが、幕府は氏憲追討の決定を下したやに聞いております。それはもうすぐ明らかになるでしょう。さすれば、当家は幕府軍と戦わねばならなくなります。したがって、まだ当分の間は各大名の動向を見守り、結論を出すのが賢明かと思われます。急ぎすぎては、対応を過つ危険性があります。ここはどうか、じっくりとお考えください。お願いいたします」
忠則の必死の説得に忠道はしばらく無言でいたが、やがて苦渋に満ちた表情で口を開いた。
「忠則、そなたの言うことも分かる。しかし、わしは氏憲公に長い間 仕えていろいろ恩義を賜ったし、忠宗を養子に頂いたりした。今さらあの人を裏切るわけにはいかない。そのことはよく分かるだろう。ここで態度をはっきりと決めなければ、もう残された時間はないのだ。そのことは志乃も忠宗もよく知っているだろう」
忠道の確信に満ちた言葉に、志乃も忠宗もうなずいた。しばらくして忠則が何か話そうとすると、忠宗がそれをさえぎるように言った。
「父上、兄上、先ほど氏憲さまと話し合ったことを報告します。氏憲さまは藤沢家が中立を固執し続けるならば、それがしの養子縁組を破棄し、ただちに上杉家にもらい受けるとの仰(おお)せでした。私もそれに同意しました。もし、これにご不満があるというなら、私をただちに成敗してください!」
忠宗の決然とした言上(ごんじょう)に、その場は静まり返った。どうやら勝負はついたのか・・・ 忠道も忠宗も志乃も、忠則の次の言葉を待っているようだ。やがて、忠則が重い口を開いた。
「分かりました。これ以上、話し合っても同じことです。忠宗は私の大事な弟です。いつまでも藤沢家に残って欲しい。ただ、あと1日だけ猶予をください。私はこのことを小百合に話し、納得のいく結論を出したいと思います」
「よかろう。奥方の気持も十分に配慮するようにな」
忠道が大きくうなずいて答えた。4人の話し合いが終わり、忠則は自室に戻った。そこには小百合が心配そうな顔つきで待っていた。子の幸(ゆき)と国松はとっくに寝ている。忠則は改まった様子で座ると、先ほどの4人の話し合いの内容を小百合に報告した。彼女は黙って聞いていたが、さもありなんという覚悟の表情を見せた。
「分かりました、ご苦労さまです。このことはすぐに、山口の兄に知らせてもよろしいですか?」
「もちろんだとも。私からも、貞清殿にお詫びの書状を送るつもりだ」
2人はそれ以上の会話を交わさなかった。無言である。来るべきものが来たという感慨が2人の心をよぎった。藤沢家と山口家は、こうして“敵対関係”に入ったのである。

忠則と小百合の書状は、ただちに貞清のもとへ送られた。それを届けたのは詩織である。彼女は山口城のことをよく知っていたが、なにせ“交戦中”だから届けるのに苦労した。陣中でなんとか佐吉に会い、書状を渡したのである。その時、詩織は言った。
「あなたと私はどうやら敵味方になりましたね。これからはなかなか会えそうもありません」
「詩織殿、それはまことか。藤沢家は中立をやめて完全に氏憲方になったのですね?」
佐吉の問いに、詩織はただうなずくだけである。彼女は佐吉と長話もできず、その場を立ち去るしかなかった。2人は名残惜しい感じもしたが、今や敵同士になったのだから仕方がない。佐吉から書状を受け取った貞清は、とうとう藤沢氏と敵対する時が来たと痛感したのである。

ちょうどその頃、山口城に豊島(としま)氏からの援軍がようやく到着した。兵員は200人ぐらいで、指揮を執るのは小巻の実父・筒井泰宗である。彼女はもちろん嬉しかったが、実家の豊島家からの援軍だけに牧の方の喜びようは大変なものだった。
「小巻殿、これで大丈夫。お味方は必ず勝つわよ!」
牧の方は小巻の両手を握って子供のようにはしゃいだが、それは戦争を知らない人の単純な見方でしかなかった。夫の貞清は冷静に戦況を読んでいたので、豊島勢の援軍には感謝しながらも、相変わらず苦戦は避けられないと判断していた。
はたせるかなその数日後、氏憲方の連合軍に常陸(ひたち)国の軍勢が加わり、城攻めの兵力は合わせて1500人余りに達した。常陸勢には大掾(だいじょう)氏、佐竹氏、小田(おだ)氏らの精鋭が加わっていたため、攻撃側の士気は一挙に勢いづいたのだ。
それから間もなくして、連合軍は猛烈な総攻撃をかけてきた。火矢が降りそそぐと館のあちこちで出火する。これは男も女も総出で消火に当たった。尾高武弘も約30人の部隊を指揮して防戦に大わらわだったが、そのうち、庄太の肩に矢が刺さり彼は呻き声をあげた。
「大丈夫か!?」
武弘が駆け寄ると、庄太が苦しそうに地面に身を伏せる。ほかの兵士がその矢を抜いたが、彼の傷は相当に重いようだ。
「早く館に行って、傷口の手当てをしなさい」
武弘がそう言うと、庄太は苦痛に顔をゆがめながら館の方へ姿を消した。武弘のような武士は鎧兜に身を固めているが、庄太らの“地侍”は軽装で、せいぜい腹当(はらあて)をしているに過ぎない。したがって、肩や脚は無防備に近く怪我もしやすいのだ。
寄せ手の攻撃はさらに強まり、やがて大勢の兵士が空堀(からぼり)を渡って土塁に迫ってきた。土塁には防備の逆茂木(さかもぎ)などを仕掛けているが、彼らはそれを乗り越え這い上がってくる。応戦する城側の兵士たちも盛んに矢を射かけた。寄せ手の十数人が悲鳴をあげて倒れ、空堀の底に落ちていく・・・ こうして山口城をめぐる攻防戦、肉弾戦は一段と激しくなっていった。

戦いは2時間以上続いただろうか。寄せ手の軍勢の一部が土塁に這い上がってきたが、山口勢は“防護柵”のところでよく守った。筒井泰宗の部隊も弓矢だけでなく、槍や刀を振り回して応戦する。攻撃側は土塁をやっと越えても、それ以上なかなか前へ進めない。結局、押し戻されて空堀の底へ転落する者が続出した。寄せ手の軍勢に死傷者が増え、氏憲方の連合軍はついに攻撃をやめたのである。
「父上、ありがとうございます。本当に助かりました」
武弘が筒井泰宗にお礼を言うと、彼は愉快そうに笑って答えた。
「なんのなんの、これしきのことで。久しぶりの戦いだから元気が出たわ、はっはっはっはっは」
義父の返事に婿は感謝の気持でいっぱいになる。2人が館の中に入ると、そこには小巻がいた。
「父上、ご無事でなによりです。あなたもご苦労さま」
「うむ、お前も元気そうだな。子供たちも息災かな?」
泰宗が聞くと、小巻が笑顔で答えた。
「はい、お蔭さまで」
「あとで会うのが楽しみじゃ」
そう言って、泰宗は負傷した豊島勢の兵士たちの様子を見に行った。武弘も庄太ら怪我人に会いに行ったが、陣営の雰囲気はまだ闘志に満ちているようだった。これは氏憲方の連合軍を撃退したという戦果によるものだろう。やがて、貞清と牧の方夫妻も慰労と激励のために兵士たちを訪れた。
こうして緒戦は山口勢がよく戦ったが、氏憲方も態勢を立て直して反撃の機会をうかがっていた。ちょうどその頃、甲斐(かい)国の武田信満の援軍などが到着して寄せ手の軍勢は2000人ほどに達した。そして、緒戦の失敗を反省し、佐竹氏が中心となって作戦会議を開いたのである。
それはバラバラだった指揮系統を改め、弓矢の部隊と突撃部隊をはっきりと仕分けし、隙のない攻撃態勢を取ることだった。突撃部隊には新たに小型の梯子(はしご)が数多く用意された。これを土塁にかけて登りやすくし、弓矢の部隊が援護しようというものだ。
ところが、氏憲方が作戦会議を開いたその晩、今度は山口勢が敵の陣に夜襲を仕かけてきた。これは稲村幸正が50人ほどの部隊を引き連れ城から打って出たもので、防戦一方ではないということを示したものだ。幸正は性格が勇猛果敢で、貞清に願い出て夜襲を仕かけたのだ。
幸正の奇襲はさほどの戦果を上げなかったが、これは氏憲方にも大きな衝撃を与えた。彼は例の大声を張り上げて「俺たちだってやればできるんだ!」と叫んだ。この奇襲は味方の士気を高めたが、敵もいっそう戦意を奮い立たせた。
翌日、氏憲方は再び総攻撃をかけてきたが、今度は弓矢の部隊と突撃部隊の連係を十分に立て、増強した兵力で城の背面にも迫ってきた。要するに、山口城を取り囲むように総攻撃をかけてきたのである。
「突撃ーっ」「わおーっ!」「かかれーっ!」
敵の喊声が周囲に鳴り響いた。

これに対し、兵力が300人ほどの山口勢は必死の防戦態勢に入った。すでに30人程度の死傷者を出しているのだ。城の背面は稲村幸正の部隊が守ったが、そこは空堀が浅く、寄せ手は容易に梯子(はしご)をかけて城に攻め入ることができた。
幸正の部隊は大急ぎで防護柵を増強したが、多勢に無勢で敵は館の近くまで侵入してくる。幸正の伝令が尾高武弘のところに走ってきた。
「大変です! 城の後ろが敵に破られました!」
「なにっ! そうか」
武弘の遊撃部隊30人ほどが城の後部に急行する。馬に乗った武弘は太刀を振りかざし、数人の敵の中に突入した。
「ぎゃーっ!」
敵の“足軽”が斬られて悲鳴を上げた。武弘たちはなおも敵に襲いかかったが、攻め手の兵はさらに増えてくるようだ。肉弾戦が続いた。 一方、城の正面と側面は和田信春の部隊、それに援軍の豊島勢が守っていたが、敵のこれまでにない火矢の攻撃に大変な苦戦を強いられた。
味方の兵士が射られるだけでなく、館に火の手が上がる。それを必死で消火するのだが、負傷する女性たちも出てきた。彼女らは水が入った桶(おけ)をリレーして消火に当たったが、火矢が次々に飛んでくるため正に命がけの作業である。この中には、かいがいしく働く小巻の姿ももちろんあった。
城の正面や側面は空堀が深く、土塁が高いため敵に侵入されることはなかったが、山口勢は防戦一方である。 しかし、午後になって雨が降り出した。これは館のある城側にとって一息つける事態だが、寄せ手は正面などからの火矢作戦をやめ、城の背面に集中攻撃をかけることになった。
これが攻撃側にかえって好都合だったのか・・・攻め口を城の後部に絞り、そこに1000人以上の兵士が殺到した。彼らは梯子を次々に上ってくる。そして、城側の兵士と大乱戦、肉弾戦となった。武弘や幸正らの部隊が懸命に戦ったが、圧倒的な敵の兵力に押されついに壊滅状態となった。
この戦いで、幸正は落馬したところを討たれ戦死、武弘も右腕や左脚に怪我を負った。相当の死傷者が出たのである。このあと、城側の兵士はなおも館にこもって抵抗したが、多勢に無勢では何ともしがたい。総大将の山口貞清が叫んだ。
「退散だ! おのおの、逃げるしかない!」
すると、筒井泰宗がすぐに話を引き取った。
「おのおの方、石神井城の方は安全だ。良かったら私どもについて来てほしい」
貞清と泰宗はすでに話をつけていた。安全な所と言えば今は石神井城ぐらいしかない。そこに逃げ込めば、当面はなんとかなるだろう。人々は納得し、山口城を脱出することにした。そして怪我人や女性、子供や老人をかばいながら城を出ていったが、氏憲方の連合軍は逃亡する山口勢を深追いはしなかった。
彼らも農民出身の兵士が大半だ。同じ境遇の人たちを哀れと思ったのか、あるいは勝利に大満足したのか、城と館を占拠したあとさっそく酒宴を開いていた。こうして山口城は陥落し、貞清夫妻をはじめ一族郎党や農兵たちは石神井城へ向かったのである。

(5)

尾高武弘にとって、稲村幸正が討ち死にしたことは非常なショックだった。主君の貞清はもちろんそうだったが、武弘と幸正は良きライバルという関係だっただけに、余計に衝撃だったのである。また、幸正は山口城攻防戦で敵に奇襲を仕かけるなど大いに活躍したから、今度こそ自分が先頭に立って戦わなければならないと武弘は思うのだった。
石神井城に着くと、貞清はすぐに義父の豊島範泰に挨拶した。
「父上、このような結果になりまことに相済みませんでした。しばらくご厄介になりますがよろしくお願いいたします」
「なんのなんの、婿殿はよく戦われたわ。ここで英気を養ってまた反撃に出ればよろしい。われわれの援軍は少なかったが、これからは十分に応援しようぞ」
範泰はそう答え、逆に貞清の労をねぎらった。彼の父・武貞と母の薫も範泰に丁重に礼を述べ、山口一族と家臣らは豊島家の世話になることになった。こういう時、実家に帰った牧の方の明るい振る舞いがみんなを元気にさせる。
「皆さま、今夜はゆっくりとくつろいでください。お酒の好きな人は酒盛りでもどうぞ。ほっほっほっほ」
「これ、お牧、お前は相変わらず“能天気”だな」
牧の方の言葉に範泰が苦笑いして答えたが、その場にいた人はみな和やかな気分になった。しかし、貞清も武弘たちも内心は肩身の狭い思いがしている。一日も早く、山口城を奪還しなければと決意を固めるのだった。不幸中の幸いと言うか、武弘の負傷もそれほど重くはなかったのである。
それから数日して、武弘がほっと安堵する出来事があった。それは秩父の方へ逃げたまま音信が途絶えていた姉の忍(しのぶ)が、柴山家の人たち数人と石神井城に現われたのである。忍は弟らがここに身を寄せたことを聞きつけ、敵の陣営が手薄なうちに姿を現わしたのだ。
「姉上、よくご無事で。兄上の悲報は聞いていましたが、大変な目に遭いましたね」
「ええ、夫(後藤吉勝)は戦死しましたが、私はどうにか逃げ延びました。山口家の人たちがここにいると聞いて、なんとしても会いたいと思ったのです」
姉弟は久しぶりの再会に目をうるませたが、両親の武則と栞の喜びはひとしおだった。このあと武弘らは忍の話を聞いたが、秩父方面へ逃げた人たちはいろいろ悲惨な目に遭い、命を落とすなど残酷な出来事があったという。それを聞いて、武弘らは戦乱の恐ろしさを痛感したのである。

一方、石神井城とは反対に、藤沢城の方は気勢が上がっていた。緒戦の氏憲方の勝利に気を良くして、藤沢家は北方の敵を攻めることになった。これは氏憲の催促もあったが、忠道と忠宗が特に望んだことだ。北方には小豪族だが太田家というのがあって、鎌倉公方の足利持氏を熱心に支持していた。
12月中旬を過ぎたある日、藤沢忠宗が300人ほどの手勢を率い、太田家の攻略に出発したのである。ちょうど初雪の降る日だったが、藤沢勢の戦意は盛んだった。

太田城に到着すると、忠宗の軍勢は二手に分かれ城の前後から攻撃を始めた。ところが、この城は堀が深く、一部に水堀(みずぼり)もあって攻めにくい特徴があった。その上、太田勢は150人ほどの兵力しかなかったが、みな闘志が盛んな武者ばかりだった。
領主の太田資正(すけまさ)はみずから陣頭に立ち、大声で部下を叱咤激励する。
「いいか、この城を守り切れば、敵はもうこれ以上 北方へは進撃できない。さすれば、武蔵国などからじきに援軍が到着しよう。みなの者、この城が勝敗の分かれ目になるのだ! こぞって奮闘せよ!」
資正は50歳近い初老の武将だが、まるで若武者のように血気盛んなところがあった。彼の勇ましい下知を受けて、太田勢は勇気凛々と戦(いくさ)に臨んだのである。攻め手はこんな小さな城はすぐに陥落すると思っていたが、守る方の防備は堀が深いなど意外に堅固なものがあった。このため、戦いは長期化の様相を呈していったのである。
ちょうどその頃、藤沢城に上杉氏憲が姿を現わした。彼は忠道・忠則親子に対し、静かな口調だがきっぱりとこう述べた。
「鎌倉公方には足利満隆さまが就任され、関東はわれわれが完全に制圧することになった。ついては他の領主たちと同様に、藤沢家からも人を引き取りたいと思う。縁のある婦女子を早急に決めて、鎌倉に送って欲しい。1人でも複数でもどちらでも良いぞ。よろしく頼む」
氏憲はそれだけ言うと、あわただしく帰っていった。人を引き取るとは“人質”のことである。要するに、親類縁者の誰かを鎌倉に送れということだ。忠道と忠則はさっそく協議し、小百合の方と2人の子供を差し出すのが良いのではと考えた。そして、それを小百合と志乃の方に伝えると、志乃が厳しい顔付きをしてこう言った。
「小百合殿と子供たちに、万一 何か起きたらどうなるのですか。藤沢家は断絶します。ここは私のような“老女”が人質になるのが、最もふさわしいのです。考え直して、私をぜひ鎌倉へ送ってください。遠慮は無用です」
志乃の強い抗弁を忠則らは受け入れざるを得なかった。いや、内心では納得したかもしれない。こうして小百合と子供たちは藤沢城に残り、志乃が人質として鎌倉へ行くことになったのである。
「母上、申し訳ございません。私らが行くべきところを・・・」
「なんのなんの、小百合殿、あなたは幸と国松を守り切るのですよ」
小百合が首(こうべ)を深く垂れると、志乃はまるで諭すかのように答えた。(続く)


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