読むなら心して | 無精庵徒然草

無精庵徒然草

無聊をかこつ生活に憧れてるので、タイトルが無聊庵にしたい…けど、当面は従前通り「無精庵徒然草」とします。なんでも日記サイトです。08年、富山に帰郷。富山情報が増える…はず。

 ← アンヌ・ブッシイ 著『神と人のはざまに生きる 新刊 近代都市の女性巫者』(東京大学出版会) 「20世紀の大阪、稲荷神・狐の神さまである「白高(シラタカ)」からのお告げをうけた一人の女性。彼女に憑依するさまざまな神々と助けを求める人びととの仲立ちとして、彼女は激動の時代を巫者として生きぬいた。日本近代の豊穣な民間信仰の姿を生き生きと描き出す。」 参照:「神と人のはざまに生きる - 東京大学出版会

 

 例によって丑三つ時に起き出してトルーマン・カポーティ作の『ここから世界が始まる』 ( 小川高義訳 新潮文庫)を読み出したり、このようにブログ日記を書いたりしている。しかも、下記するような感想文を綴ったり。

 幸い、夕方にも関わらず熱気の残る庭でのハードな作業の疲れも(恐らくは、希望的観測ながら)残っていない…ようだ。(08/14 03:48)

 

 

 アンヌ・ブッシイ 著の『神と人のはざまに生きる 新刊 近代都市の女性巫者』(東京大学出版会)を13日(日)の夜、一週間余りを費やして読了。内容の濃さ特異さからしてせっせと読む類の書ではなかった。

 本書はそもそも、画像にあるように、《書物復権2023》フェア開催店にて、まさにそのフェアの特設売り場にて目にし、パラパラ捲ってこれは是非読まなければとゲットしたもの。こうした機会がないと巡り会わなかっただろう。このフェアで既に数冊入手している。

 内容については、「20世紀の大阪、稲荷神・狐の神さまである「白高(シラタカ)」からのお告げをうけた一人の女性。彼女に憑依するさまざまな神々と助けを求める人びととの仲立ちとして、彼女は激動の時代を巫者として生きぬいた。日本近代の豊穣な民間信仰の姿を生き生きと描き出す」という出版社の説明に尽きる。

 帯には、東大名誉教授で宗教学の島薗進氏推薦の言葉が載っている。「本書で描き出された宗教儀礼のあり方やシゲノが取り次いだ神の言葉などは、近代日本の宗教文化について考察する上でも貴重なものだろう。多くの読者は中井シゲノという人物の苦難に耐え、潜り抜けて熟していった精神史に心を動かされることだろう。小説や物語としても読めるような学術作品でもある。」

 中井シゲノはアンヌ・ブッシイの畳みかけるような質問に抜群の記憶力で、恐らくは関西弁で答えている。が、本書の訳では東京弁(標準語)になっている。あるいはその辺りが、原書がフランス語で、日本語に翻訳される際、アンヌ・ブッシと阿部哲三氏との共訳であるにも関わらず、阿部氏が翻訳者としての銘記を固辞された理由なのか。あるいは何か不本意な点が残っているのか。

 話(研究)の主人公は中井シゲノ。彼女はオダイ。オダイとは、「自らの身に天下る神の言葉を伝える者のこと。」俗にいう、神がかり、狐憑き。僭称と思うかどうかは受け取る側次第。インタビュー(実際は対話でもある)を受けた際は既に80歳。

 憑依とは違うかもしれないが、本書にもあるようにソクラテスのデルフォイの神託のことは連想せざるを得ない。「ソクラテスはアポロンの託宣を通じてもっとも知恵のある者とされた。ソクラテスはこれを、自分だけが「自分は何も知らない」ということを自覚しており、その自覚のために他の無自覚な人々に比べて優れているのだと考えたとされる。」(Wikipediaより)ソクラテスは神の声を時に一晩中その場に立ち尽くして聴き入ったという。

 本書にはないが、卜術をよく行う巫女(シャーマン)とされる卑弥呼のこともついつい思い浮かべてしまった。「卑弥呼は鬼道に仕え、よく大衆を惑わし、その姿を見せなかった。生涯夫をもたず、政治は弟の補佐によって行なわれた」日本の源流、底流に脈々と流れる道教的信仰。

 本書末尾の鈴木正崇の解説から一部抜粋する:「著者が本書を通じて探求したかったのは、日本の高僧伝や修験の記録、物語などには、神霊との対話を行う巫女や行者についての話が沢山記され、憑依・託宣・呪術に溢れているが、どのような経緯をたどって、見えざる世界に立ち入るようになるのか、内なる過程について語るものは少ないと感じたことにある。文献で読んできたことが、現実の目の前で展開すると著者には思えた。各章の冒頭にある、古代から現代に至る、神仏との交渉を語る物語、神歌、端唄などの印象的な引用は、文献と現実の連続性だけでなく、日本の民間信仰が古代・中世・近代、そして現代へと時と場所を問わず地下水脈として継続し、民衆の想像力や生活の生きる智慧として存在してきたことを表現しようとしているのである。」

 ともすると、スピリチュアルな流れに堕しそうだが、ギリギリ現実感生活感が保たれているのは、やはり中井シゲノの卓抜な巫女的資質の故なのだろう。

 いずれにしても本書を読むのなら、心して、とだけ言っておく。

 

 ← 気が付いたら夕方の七時。下着どころか作業着まで汗でびっしょり。ふと見ると空が赤い。夕焼け。気付くのが遅くて夕焼け空は撮れなかった。 (08/13 21:56)

 

 今日は休み。例によって5時前から庭仕事。今日も肝心の仕事(納屋に溜めてる枝葉の整理)に辿り着かず。隣家との間の生け垣の枝葉の伐採作業。二時間あまりみっちり。これだけやっても、端の人には何かやったの?という変化。ああ、休日が庭仕事で消えていく。

 今日は、前回と違って、作業後すぐにシャワー浴びられた。前回は、シャワー浴びる前、茶の間で30分以上も涼んでいた。

 庭仕事してて気付かされるのは、蝉の鳴き声の弱々しさ。蝉がへばりついてるだろう木をガサガサすると、鳴き声らしい声が一瞬聞こえる……のだが、すぐに途絶えてしまう。気配に条件反射的に鳴こうとするが、最早鳴き続ける体力は涸渇してるのか。

 幾度もメモってるが、今年は蚊が目立たない。蝶の姿も。蜘蛛も元気がない。昆虫にも過酷な夏なのか。

 蝉の死骸がやたらと目につく。ミミズの干からびた死骸も。ミミズ……地面の中もカラカラなの? (08/13 22:40)

 

 C.ブラッカー著『あずさ弓 上―日本におけるシャーマン的行為』 (同時代ライブラリー) アンヌ・ブッシイ著の「神と人のはざまに生きる: 近代都市の女性巫者」にて挙げられてた本の1冊。アンヌ・ブッシイのこの書によると、シャーマンと憑依とは似て非なるとか。 (08/13 21:59)

 

 五来 重著『高野聖』 (角川ソフィア文庫) アンヌ・ブッシイ著の「神と人のはざまに生きる: 近代都市の女性巫者」にて五来重の研究が重んじられてる。「高野聖」といっても、有名なあの小説ではない。五来重は、「ごらい しげる」と読む。 (08/13 22:37)

 

 ← 裏庭の藪木。のし掛かるような迫力。家を少しは涼しくしてくれるかと、伸ばし放題。髪の毛だってボサボサにしたら、日除けになる? サファリハットなんて不要? 暑苦しいか。寝苦しい夜の意味不明な呟き。というか昨日の庭仕事で本を手にして寝落ちして、今頃 目覚めてしまったの。 (08/14 01:54)

 

「かくしごと」って……「隠し事」だろうな。「書く仕事」と思う人は少なそう。まして、「掻く仕事」と思う人は稀だろう。 (08/14 01:48)

 

 町の書店がほぼなくなり、新刊を買うとした大型書店へ。書店で本を買う…と云いつつ、大型書店は中央の大きな資本のチェーン店。地元にはほとんどおカネが落ちない。中央に吸い上げられていく。古書店なら(◎っくオフとか例外はあるが)地元の店。まあ、古書店でもほとんどの店は消えてしまった。紙の時代じゃないよ、電子の時代。理屈は分かる。でも、手触り、紙の感触に拘ってきたロートルは…って書こうとしたが、目が老眼に。電子は魅力…。惑うばかりです。 (08/13 14:09)

 

 薪ストーブの導入について迷っている。来年は古希となる吾輩。そもそも薪ストーブのキチンとした管理ができるのか。定期的な掃除もだが、何と云っても火の始末。納屋に溜まっている枝葉の整理が手付かずなのも(つい、直前に他の木々の剪定作業に向かってしまうのも)枝葉を整理して葉っぱは堆肥にするとして、枝を薪にするという方針が固まらないからでもある。 (08/14 02:46)