馬糞風リターンズ

世ノ中ハ何ノヘチマトオモヘドモタダブラリト下ツテモオラレズ

「よさこい節」土佐の高知の播磨屋橋で・・・・

2024年04月26日 | 大衆演芸

「土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし 買うを見た よさこい よさこい」 幕末頃から歌われだしたそうで、今では日本人であれば誰でも知っているお馴染みの高知県の民謡です。「よさこい よさこい」と云う囃子詞には幾通りかの解釈があるそうですが、一般には「夜さり来い(夜にいらっしゃい)」が変化したとされているようです。続いて「はりまや橋」ですが、当ブログが始めて高知市を訪ねた頃には「がっかり橋」と揶揄される存在感のないものでした。その後、橋は架け替えられて一帯を親水公園として整備されていました。はりまや橋は元々山内氏の藩政初期(1600年頃)に堀川を挟んであった「播磨屋宗徳」と「櫃屋道清」が双方の家を行き来するために架けた私設の橋が原型だそうです。

播磨屋の初代宗徳は播磨国飾磨の人で天正6年(1578)に長宗我部元親が讃岐出兵した際、軍用金と兵糧を用立てたことが縁で、土佐に招かれ浦戸城に移住し商人となり、長宗我部氏が滅び山内氏の藩政になっても特権商人として栄えたと言う。
 一方、「櫃屋」は初代松本太郎右衛門重利は天正18年(1590)に生まれた人で、櫃屋道清と言う。道清の父親・長勘解由重長は紀州松江(現・和歌山市)の人で天正13年(1585)の織田信長と羽柴秀吉による紀伊征伐の戦乱を逃れて長宗我部元親を頼って土佐に来て、浦戸に住み五台山櫃ヶ谷に領地を与えられたと言う。屋号の「櫃屋」は此処に由来します。山内一豊の入国後は高知城下に移り、2代目・櫃屋道清の代で特権商人として仕え財を成し御用商人となり、播磨屋宗徳らと共に町年寄を務めるがです。「はりまや橋」は、江戸時代の始めに城下の竪堀「堀川」の南側に住んじょった櫃屋道清と、北側に居った播磨屋宗徳が互いに両家を行き来する為に架けた橋。
 高知観光の目玉の「はりまや橋」も時代時代で随分と景観も変わって行ったようです。
 愈々本題に入ります。「坊さんかんざし 買うを見た」の件です。

五台山竹林寺の僧・純信と鋳掛屋の娘・お馬の恋物語です。時は安政年間、世の中は天保の大飢饉、安政の大地震などの天変地異、加えて異国船の襲来など内憂外患騒然とした時代です。庶民が日々大変な生活を送っている最中、聖職者たる寺僧が高知の繁華街の小間物店で「かんざし」を買っている「けしからん!」と云う雰囲気もあったのでしょう。純信とお馬の恋も口さがない人々の絶好の材料となったようです。
 かんざしを買ったのは純信ではなく純信よりも若い僧・慶全だったとの説もあるようです。
次回からは「純信・お馬」の恋物語を書いてみたいと思います。






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