羽犬塚宿は薩摩街道の3番目の宿場町。
この不思議な地名の由来は諸説あり、
どれも豊臣秀吉が関係しています。
筑後市羽犬塚周辺。緑の線が街道筋で、
青くぼかした辺りが羽犬塚宿跡。
南側より散策。
「藤島橋」。
花宗川に架かる藤島橋。
構口は橋よりもう少し南側らしいのですが、
正確な場所はわかりませんので、
とりあえずはここから北上します。
「旧坊津街道(薩摩街道)碑(左)」、
「山頭火歌碑(右)」。
藤島橋を渡った袂に建てられた2つの碑。
昭和7年12月11日に種田山頭火は、
羽犬塚のある宿に宿泊しています。
「きたなくてうるさいけれど、
やすくてしんせつだつた」ようです。
さうろうとして けふもくれたか 山頭火
「南桝形」。
碑のある場所を過ぎると桝形となっています。
桝形を過ぎて国道209号線に合流し、
街道は更に北上して宿場の中心へ。
「羽犬宿跡」。
国道209号線が羽犬塚宿の中心部。
主要幹線となっている宿場跡は、
あまり面影は残っていないのが常です。
「御茶屋跡」。
羽犬塚小学校の敷地が御茶屋だった場所。
周辺は久留米藩の支配地で、
藩営の御茶屋が置かれていたようです。
校内には御茶屋時代の木々が、
現在も残っているようです。
「羽犬の像」。
校門前に置かれた羽犬の像。
天正15年(1587)に豊臣秀吉の九州征伐で、
大軍を率いてこの付近に差し掛かった際、
羽の生えたように敏捷な秀吉の愛犬が、
敵の矢に当たって死んでしまいました。
秀吉は痛く悲しんでその犬の塚を建て、
犬の霊を弔ったとされます。
以降[羽の生えた犬の塚]がある地として、
羽犬塚と呼ばれるようになったとのこと。
「宗岳寺」。
慶長元年(1596)に創建された浄土宗寺院で、
境内に上記した犬の塚があります。
「犬之塚(右)」、
「六地蔵尊(左)」。
羽犬を弔う為に建てられた犬之塚。
上記の説は秀吉の愛犬という事ですが、
秀吉の軍を遮った犬を射殺そうとし、
何度矢を放っても飛んで避けるので、
挙句に大軍を繰り出してやっと殺し、
羽の生えたように逃げ回った犬を讃え、
塚を建てて丁寧に埋葬したともされます。
どちらもそれっぽい話ですね。
六地蔵尊も豊臣秀吉の寄進。
宿場の北側にも桝形がありましたが、
現在は道さえ無くなっています。
その桝形は宗岳寺前辺りとのこと。
「北桝形の先の道跡」。
この辺りが街道筋だったと思われますが、
定かではありません。
文久2年2月。
水天宮神官眞木和泉は薩摩藩の奮起を即す為、
京都からの帰国途中の大久保一蔵と、
この羽犬塚宿で会見したとされます。
倒幕に逸る眞木に大久保は良い反応は見せず、
むしろ諫める態度であったという。
この態度に業を煮やした眞木は、
直接薩摩に乗り込んでいますが、
薩摩では一顧顧だにされなかったようで、
同志らと共に大坂に向かいました。
■薩摩街道の宿場町
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薩摩街道5番目の宿場町。