【注意】
タイトルのような実体験を含む内容です。
具合が悪くなりそうな方はここで引き返してください。
前回の続き。
1.
もう一つ、謎が解けたことがある。
私は高校生の時に、宗教指導者の部屋に呼び出されて、元夫と共に土足の床に正座させられて怒鳴られたことがある。(数日、複数回。それから神からの呪いの預言という暴言)これもまた、私にとって強い恐怖体験だったため、鮮明な記憶として冷凍保存されていた。
あの時の体感時間がやたら長く感じた理由、ものすごく強い恐怖心を持ったこと(約8年後も、思い出すと体が震えると書いていた)、また強い怒りを感じたこと。
これは、そのやり方自体への感情であるとは今でも思うけども、それだけでなく、状況が酷似していたからだと気がついた。
場所→ホテルの一室(視界にベッドあり)
状況→床に正座(床に体を触れさせる感覚)
加害者→怒鳴り散らし権威をかざす(圧倒的恐怖心)、相手側が上からこちらを見下ろしているという状況
パワハラ、単純に怒鳴るところが父親に似ているから、あんなにトラウマになったと思っていたけども、こことリンクして恐怖が倍増していたんだな。
合点してよかった。
2.
思い出したこと。
「親にバレたら怒鳴られる!」と5.6才の私が思った理由。明確ではないけど、少し思い出してきた。
私は「2階で遊んでもいいけど、寝室には入るな」と親に言いつけられていたのだと思う。
それが、私の友人であった加害女児は、寝室に入りたがった。私は、止めたと思う。親に怒られるのが怖かったから。
でも、強引な女児に従属的だった私は、きっと従って一緒に入った。
そして、女児は寝室の引き戸を閉め、密室に。部屋の中を見ながら、何か言って笑っていた。そして、(ここからは以前書いたので、省略。)
脱線話
ちなみに、園児の時はそんなに友達と家の行き来はなかった。うちの親は熱狂的に宗教をやっていて、田舎だったので、なんとなくそれが理由で避けられているようなところもあった。
友達が家に来た記憶は、その時と、誕生日会くらい。誕生日会は、ほとんどの子はプレゼントを持ってきてくれたけど、1人の子が何も持たずに来て、一番多く食べていたから、ずうずうしいな、とちょっと思った記憶がある。笑
うちに来たこの加害女児の家に行った記憶もある。
それから、数回遊びに行った友達の家の記憶。お菓子作りの得意なお母さんで、白鳥のシュークリームを作ってくれた。感激した記憶。私は、その友達の家は、間取りや部屋の雰囲気も今でもよく覚えている。玄関、掘りごたつのある部屋、タイルのキッチン。大きなオーブン。
小学生になった後、久しぶりに遊びに行ったら建て替えた後で、驚いた記憶も。新しい家のまわり階段が珍しく、記憶によく残っている。
3.
私は当時のことを思い返すと、数日腰が痛くなる。これは、多分全身に緊張が走って、体が硬直状態になるからだと思う。そこで、元々弱い腰が痛むのだろうな。
あとは無意識で歯を食いしばっているのか、歯も痛い。
うつ病だったときは、朝起きるとしょっちゅう歯が痛くなっていた(寝ながら緊張していたのだと思う)のも思い出す。
4.
小3の頃、性的な不快体験があった。
一つは、父親に風呂上がりの全裸の写真を撮られたというもの。当時私はバスタオルを持ったまま裸で洗面所から出てくることがあったんだと思う。そのリビングで。
父はカメラを構えて笑っていて、私もよくわからず笑っていたけども、あの時、私は心底嫌だったと思う。
(写真はまだ実家にあるだろうか。父は写真を撮るのが趣味だったが、今思うと私に関しては悪趣味なものも撮っていた。母に怒られて泣きながらご飯を食べている写真とか、全裸とか。小3の全裸って、今なら逮捕でしょ?当時は、子供のそういう写真集が写真作品として普通に売られて?いたらしいけど。娘は、物じゃないんだよ。)
確か、記憶は曖昧だけども、全裸は表、後ろとあって、私はそれを思春期にアルバムから見つけ、表は外して処分したと思う。後ろは、残しておいた。親の写真を勝手に処分することに罪悪感があって、不快感がまだ多少弱い後ろ姿はそのままに据え置いたように思う。(若干、不確かなところあり)
以前、ある民族への潜入取材で、テレビで唐突に上半身裸の少女たちが映し出された。ゴールデンタイムだった。え??日本人じゃなければいいの?こんなの写して??という疑問とともに、ものすごく気持ち悪くなってしまって、号泣した。
私は無意識で、あの時の、写真を撮られた自分を重ねたのかもしれない。
嫌だったよね、きっと本当は、とても。幼少期の記憶も、まだ10才の私は取り戻してなかったけども、きっとなんらかの既視感があったんだろう。
父からの、性的・容姿に関する、からかいや小馬鹿にする言葉の数々もまた嫌だった。
私は思春期、自分の女性性を忌み嫌っていた。自分の体を焼いてしまいたいくらいに、嫌だったんだと思う。
2つめは、小学校の身長体重測定。なんで中学年でもパンツ一枚にならないといけないのか今も分からない。イラっとするな。
男女別だったが、私が測定している時に、男子が顔を覗かせて、目が合ったこと。ものすごく嫌だったな。
5.
私が重度のうつになった初期、人格が退行した。まさに、私が性被害を受けた5.6才に近い人格のしゃべり方?をしていたなと今思い返す。
また、臨床心理士さんに、小さな子供が親に褒められるような方法で褒められる(わー、と拍手される)と、とても嬉しかったことを思い出す。
6.
私はカウンセリングで幼少期の性被害を話したことは一度もない。生い立ちなどを聞かれたときも、この話だけはしなかった。口にするのも怖かったというか、そのタイミングでは脳裏に浮かばなかったのが一番の理由だと思う。
小学校の時の、親が惨殺されているかもという恐怖妄想は話したことがあったけども、当時はそれと性被害が自分の中で結びついてなかったと思う。
また、そこまで重要であるとも考えていなかった。今は、ラスボスであり対人恐怖の原点(家庭環境と並ぶ)だと思ってるけど。
魂の殺人とも呼ばれているけど、実際それに値すると思う。幼かったから、死んだことも気づかずに生きていたのかも。
でも、そんな中でも成長して、戦えるほど強くなったから、魔王の封印(記憶)が解けた…みたいな感じもあるかな。
強くなったかな、私。
トラウマを思い出し感情を感じることで、少しずつ癒えていくのを期待している私だけども、やはり疲れるは疲れる。
夫や子供がいて、育児や家事という、日常生活をこなしながら記憶と対峙するのは、(体が動かない…)時もあるけども、同時に「今ある幸せ」や、日常の忙しさにすぐ戻れるから感謝だなぁと思う。
忙しくしていた方が(子供と公園で2.3時間遊んだりとか)、一度記憶を思い巡らせた後、オフにするためには、合っているようにも思う。
連続的に思い出すのはしんどいから。
オンして、オフして、をやっていかないと、過緊張が続きすぎるから。生活に支障をきたさないように。
強いて言うなら、脳を使いすぎるから、ちょっと痩せたのがラッキーか。笑
いやまあ、そうやってラッキーくらい思ってないと、やってけないっすわ。
————————
書き終わって、「そうだよね、あれは酷いことだった。魂の殺人みたいに、酷いことだった。辛かったね、悲しかったね。大丈夫。もう大丈夫だよ」と私に心の中で語りかけながら、泣いた。
私の「大丈夫」は、力がある。
「もう、誰にも傷つけさせたりしないよ」と、私に語りかけたのは、10年近く前のこと。私はそれから、何度自分に、「大丈夫だよ」と語りかけてきたことだろう。
私は、私の言葉に安心した。
「もう、大丈夫」
「怖いことは、もう起きないよ」
「私は、私が守るからね」
「今まで、1人で抱えてきて、辛かったね。孤独だったね。私がいるから、もう大丈夫だよ」
私の中の小さな私が、にっこりと私を見ている。
悲しい時は、いつだって、大人になった私が抱きしめるよ。
泣いたら、体の過緊張も、ほぐれていくのを感じた。私は、今回もまた、うまくいったみたい。やったね。
また記憶の波は、やってくると思う。
でも、次回もきっと、うまく対処できるよ。
子供の頃のトラウマ記憶を文章化して、客観的に読み直すことで、大人になって得た知識や経験(当時はそばにいなかった周囲の他者、養育者の代わり)を元に、感情や欲求に「気づく」という感じでしょうか。 https://t.co/yv6NPzr8mu
— れん・七味 (@ren_hi_chan) 2021年2月12日
育児記録より。
隣で寝てる我が子が、私の手をぎゅっと握ったので顔を見ると、
「まま。◯ちゃんおきたら、ぎゅうにゅう、くれるよ。みかんも、たべたいな」
そうささやいて、ゆっくり眠りに落ちた。
食べ物、乗り物、遊ぶこと。そんなことで頭がいっぱいの我が子が愛おしい。
私
「なんでそんなに可愛いの?」
2歳児の答え
「こうやって、おめめがあいてるから」
ほんとにね。
存在自体が、とても大切で、可愛いよ。