ポポロ通信舎

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中島飛行機の終戦

2024年02月25日 | 研究・書籍
『中島飛行機の終戦』(新葉館出版 2015年)を読んでみました。著者の西まさるは1945年東京生まれ。群馬出身でない中島研究者であるところに興味を持った。
本書は愛知県半田市にあった「中島飛行機半田製作所」の終戦時の業務資料を中心に調べている。当時オール中島で25万人、半田製作所にはその約一割2.6万人が働いていた=動画ご参考

創業者の中島知久平は、豪快な人物で社内は「自由闊達な雰囲気」だったようだ。どことなく三洋電機の創業者と中島飛行機小泉製作所のあとに進出した「自由闊達な社風」の東京三洋電機をも連想させられた。

中島知久平は、早くから軍艦中心を改め航空機に戦力を転換することを主張していた。「アメリカとの国力の差は段違い、戦争は無謀」「米軍の大型爆撃機が量産されれば、日本は焼け野原になる」の発言には憲兵隊が逮捕を検討したとも。今になれば彼の予言は的中していたということになる。

学徒動員と朝鮮人徴用工
本書の第4章「学徒動員と朝鮮人徴用工」は半田製作所の徴用工の記録から、今なお論争の絶えない徴用工問題を解く上でのヒントも得た。

朝鮮半島からの徴用工は「応徴士」(おうちょうし)と呼ばれ、手配師(募集業者)によって朝鮮半島から集められて来た人たちだ。作業内容は会社の指示によるが、直接の雇用関係はなく派遣社員というよりも、外注先、下請け先だ。中間には「組(親方)」が入る。手配者も組もまとめ役は、応徴士の尞の近くの民家に住む。いずれも朝鮮から同行した人たちだ。半田市内の国民学校(今の小学校)には412人の朝鮮人児童が在籍。親は中島飛行機や関連の清水組(清水建設)で働き子供たちは学校に通っていたという。学校でも地域でも庶民レベルでは大した違和感もなく生活していたと当時の住民は語る・・。


平成になり賃金の未払いと慰謝料を求める訴訟が出ているが、「組、親方」を通していたので「未払い」が生じるというシステムにはなっていなかった・・。

中島飛行機の創業者には、大空を仰いでのロマンがあった。いずこも一代目はスケールが大きい。本書では中島飛行機の戦後、苦悶の再建への歩みを記録している。
「中島飛行機」をもう一つ、別な角度から読ませていただき理解を深めることができた。(敬称略)



 


中島飛行機半田製作所
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