5人のユージュアル・サスペクツ(常習容疑者)がNY警察で銃器御用容疑で面通しされるところから一級のクライムミステリーは始まる。もともとアガサ・クイリスティの代表作『アクロイド殺人事件』を下敷きに書き下ろされた脚本は、アカデミー賞を受賞するほどの実にトリッキー且卓越した構成で仕上がっている。

 釈放された5人は、その中の元汚職警官キートン(ガブリエル・バーン)をリーダーに宝石強盗を持ちかけられ何なく成功させる。しかしその中身が宝石ではなく麻薬であった。詰め寄る5人に仕事の依頼主はこれが伝説のギャング『カイザー・ゾゼ』の指示であると告げ、その弁護士であるというコバヤシという男に会うよう指示する。

 コバヤシは5人それぞれが過去にかかわった事件でソゼに損害を与え、その見返りとして5人を拘置所で引き合わせ、その後釈放させ、おっしてこの事件を起こさせたのだと告白する。それほどの力を持ったソゼとはいったい誰なのか?コバヤシこそソゼと主張した一人は殺され、他のメンバーも身内を盾に取られる。仕方なく彼の指示通り麻薬運搬船を襲撃することに。4人のうち詐欺師で左手足に麻痺があるキント(ケビン・スペイシー)を残し20数名の遺体が発見される。警察に尋問されたキントはソゼがキートンを射殺し船に火をつけ立ち去ったと供述する。敏腕捜査官クイヤンはある推理のもとにキントに証人として協力を求めるが彼はそれを拒否し警察を後に・・・。その時クイヤンの脳裏にある確信が閃きキントの後を追うが・・・。

 とにかくこの手のミステリー映画にある犯人探しがラストのどんでん返しに至るまで実に巧妙でスマートに描かれているところが秀逸たるところである。他作にみられるような途中から見え隠れする真犯人の横顔や伏線が全く読めない。それが新星脚本家クリストファー・マッカリーとケビン・スペイシーの見事なマッチングが産み落とした技と言わざるを得ない。

 カイザー・ソゼとは果たしてだれなのか?そして彼の目的は何なのか?麻薬を奪うよう船を襲わせ、しかしそれを焼き払ってしまう。それはなぜなのか。『事実を隠すため』 クイヤン同様観客にもそんな疑念と推理を植え付け、クライマックスに導く。ケビン・スペイシーはこの作品でアカデミー助演男優を受賞するが、マッカリーと彼のための映画といっても過言ではない。

 ハリウッド映画の底力をたっぷり堪能できる逸作である。

 

監督:ブライアン・シンガー

主演:ガブリエル・バーン、ケビン・スペイシー

1995/アメリカ

 

 

 

 1961年、アルゼンチンのい小さな町で家族と暮らすリカルド・クレメンテというひとりの男が拘束された。彼こそ後に20世紀最大の裁判と称されるアイヒマン裁判の被告であり、あのナチスによるユダヤ人大量虐殺の中心人物であつたナチス親衛隊の中佐、アドルフ・アイヒマンだった。彼をと絶えたのはユダヤ国家イスラエルの特殊部隊で、彼の身柄はイスラエルに移送され早速裁判にかけられることになる。この『世紀の裁判』をTVを使って世界中に発信しようと考えた敏腕プロデューサー ミルトンは、最高のスタッフを結集し、監督にアメリカの名ドキュメンタリー監督、レオ・フロヴィッツを呼び寄せる。彼らはナチスを崇拝する輩殻の脅迫や、いくつもの困難を乗り越え遂にその日を迎える。しかし法廷に現れたその男アイヒマンを初めて目にした人々はその目を疑う。マスコミがその残虐性や冷酷さからモンスターと呼んだその男のどこにでもいるような平凡な、一見真面目な大学教授を連想させるような風貌に驚かされた。そして世界中の注目の中、世紀の裁判は始まった。2日に及ぶ罪状認否の後、ナチスの迫害から生き延びた人々による数々の証言と、それを裏付ける凄惨な映像が画面に現れる。その目を覆いたくなる、耳を塞ぎたくなる現実に誰もが驚がくに身を震わせる。しかし彼らがそれ以上に驚いたのは、それらから目を反らすこともたじろぐ様子もなく、むしろ退屈気に口を曲げ、背にもたれかかり、罪を悔いるどころか平然と無実を主張する彼の姿だった。

 失神者まで現れたこの裁判全体の行方を余すところなく伝えたいミルトンと、ひたすらアイヒマンの表情にこだわり、カメラをそこに固定させるレオは激しくぶつかる。レオは彼が何をしたかより、何故したかに拘った。彼が自ら抑圧して続ける感情が表に噴出した時、その静かなる表情が崩れ、そこに真実が現れるとレオは長年培った映像者としての信念を口にする。そして検事長の粘り強い詰問の最後に彼は『命令に従っただけ』とした前提の上、罪の認識を初めて口にしたのだった。

 この映画はナチスが犯した人類史上稀にみる犯罪を指導した罪人を断罪し、その真実を炙り出した作品ではない。そんな極悪非道なアイヒマンは実はどこにでもいる我々と同じ平凡な人間だった。つまり裏を返せばだれでもアイヒマンになり得るということに主眼を置いたものである。またあくまで『命令』を口実に正当性を主張し罪の重さ、被害者の感情など一切関知認識しないその心理は、近年多発する『洗脳』による凶悪犯罪に通じるものを感じる。

 ユダヤ人大虐殺を題材にした映画や書物は現代に至るまで後を絶たないが、その心理的側面を客観的に分析すべく研究材料として、ヒトラー以上に注目されている人物言われている。

 ラストで語られる、『摂理を見失ったとき、狂気の道が始まる』という件にこの作品の主点、主題のすべてが凝縮されているように思えてくる。

 

監督:ポール・アンドルュー・ウィリアムス

主演:マーティン・フリーマン

    アンソニー・ラバーディア

2015/イギリス

 酒とギャンブルに溺れ、偏屈で気難しい隣人の親父と少年の交流。まさにハリウッドらしい

題材である。しかしアメリカ国内の4館限定で公開された本作が、日を追うごとに観るものの

共感を呼び、ついには全米2500を超える劇場で上映されることになった真なる理由とは何なのだろうか?まずは何のいっても主演のヴィンセントを演じた名喜劇役者ビル・マーレイの演技力に帰すること間違いない。散らかり放題の住まい、その日暮らしの乱れた生活、よれよれのズボンとシャツに無精髭、酒のせいでその目に覇気ははなく、触る者皆に噛みつきそうな悪態、典型的なダメ親父をこれほどスマートかつコミカルに演じることのできる役者はなかなかいない。月並みだが人はその意外性に惹かれるというが、それをうまく演出する脚本はハリウッドの得意とするでもある。太いしたことからシッターを引き受けたものの、その少年にギャンブルと酒の味を教え、いじめっ子をげ撃退すべく喧嘩さっぽうを伝授し、その一つ一つにヴィンセントの思いが込められているにもかかわらずどれ一つとして受け入れられず、嫌われ者のレッテルだけが周囲に蔓延ってしまう。若くして認知症を患った妻のために懸命にお金を工面し、彼女の衣服の洗濯だけは誰の手も借りずに続けてきたヴィンセントの、どこか孤高ながらも愛着ある振る舞いが何とも愛おしいく共感を誘う。やがて妻がこの世を去り、シッターの仕事も失ったヴィンセントは初めて真の孤独の淵に貶められる。

 そんなある日、少年の学校で身近な聖人を発表するという校内イベントがあり、少年はその聖者にヴィンセントを取り上げる。両親が離婚し、働きずくめの母に代わって面倒を見てきたヴィンセントの、周囲には決して披露することのない真の優しさ、人懐こさが少年を通じて人々に改めて親しみを以って迎えられる。彼も笑顔で答える。しかしヴィンセントはやはりヴィンセント。その後もまた持ち前の武骨で頑固な男を貫くビル・マーレイ・ヴィンセントの存在は、所謂やれやれ感を視聴者の胸に引きずりながらも、何ともいえぬ暖かい余韻を残すのである。コミカルなスマッシュヒット作はたくさんあるが、そこに粋な危うさと共感を産み落とす、それがハリウッドの底力であり、日本や欧州映画では決して到達できない領域であることを改めて突き付けられた思いである。

 少年の母親役にメリッサ・マッカーシー、ヴィンセントの友人ンでロシアの娼婦役のナオミ・ワッツの演技がまた粋で作品に色を添える。

 

監督:セオドア・;メルフィ

主演:ビル・マーレイ

2014/アメリカ