偏平足

里山の石神・石仏探訪

里山の石神端書287 石祠型墓(茨城県行方市根古屋)

2024年05月03日 | 里山石神端書

行方市根小屋・龍翔寺の石祠型墓石

 行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦に挟まれた古くて新しい市。西浦に流れ出し雁通川周辺を訪ねました。

 龍翔寺は真言宗の寺で、中世に寺の上にあった山城の城主・相賀氏の菩提寺として創建されたと、寺の案内にありました。寺の墓地の無縁墓の一角にあるのが石祠型墓石。行方市でこの墓石に出会ったのは驚きでした。


 石祠型墓石は私がそう呼んでいるもので、石殿・石室などとも呼ばれています。形は屋根と室部からなり、室部に五輪や石像を修めるように造られた墓石です。これが造立されたのは群馬・長野・山梨が中心で、埼玉・栃木・新潟・山形・神奈川・静岡・愛知の一部でも見ています。造立された時期は戦国期から江戸時代初期。室部に納められた石像は古いものでは群馬に見られる御堂とした大型のものに薬師や観音、後に墓石として五輪塔や夫婦像を納めるものが普及していったようです。ルーツは中世の畿内の墓石にあると思っていますが、戦国期から東国のこの墓石の造立地をみると、甲斐の武田氏が支配した地域に偏っています。

 石祠型墓石は千葉県銚子一帯にも造立されていて、かつて訪ねたことがありました=上写真=。その特徴は室部正面に鳥居が浮き彫りされていること。龍翔寺の墓石にも鳥居がはっきり残っていますから、銚子と同じ様式です。行方と銚子は距離的にも近く、同じ霞ヶ浦水系でしたから、同じような石造物があっても不思議ではありません。しかし銚子一帯の多くは砂岩を利用したもので崩壊がひどく、多くは室部が潰れていました。
 ところで室部の鳥居は何を意味しているのでしょう。和歌山・高野山の四十九院の鳥居につながるのでしょうか。
(地図は国土地理院ホームページより)


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