もっちゃんの探歩三昧

もっちゃんの探歩三昧

歴史探訪や仏像鑑賞、友人との交友をタイムリーに投稿します

皇居界隈

2025年02月14日 | Weblog

お上りさんが皇居界隈をブラつきました。

 

総武線で東京駅に着き、案内標識に従って皇居方面を目指したら、この光景に出会いました。
多分新丸ビルの地下だと思うのですが、広大な通路にほとんど人影がありません。
番傘をデザインしたと思われるヤツが、延々と続いていました。

 

地上に出ると逆さビルが水面に映えています。
残念ながら風に湖面が揺れて、蜃気楼のような映像になってしまいました。

 

逆さ皇居も狙ってみましたが今一かな。

 

大手門方面を遠景で狙ったところ、絵葉書のような一枚になりました。
自画自賛が過ぎますかね。

 

鏡のような面を持つビルもあります。
皇居界隈のビル群も、注意深く観察するとそれぞれに個性があります。

 

皇居お濠に懸崖状のビラカンサがありました。

 

お濠を渡って高麗門を潜ります。
そこはほぼ正方形の桝形虎口となっています。

 

虎口の片隅には、大手門に飾られていた鯱が展示されています。

 

 

大手門から皇居に入ります。
がっしりとした算木積の石垣に、漆喰を塗りこめた櫓門が聳えています。

 

帰途、丸の内側にある東京駅のドーム型駅舎を、懐かしく振り仰ぎました。
ひょっとするとこれが見納めになるかもしれません。

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風変わりな旅

2025年02月13日 | Weblog

今回出掛けた2泊3日の旅は風変わりの連続だ。

 

静岡に1泊した後、東海道新幹線で品川へ、山手線に乗り換えて池袋までは普通、だが此処からは全国各地でほとんど利用することのなかった私鉄を利用した。
池袋から東武東上線なる路線を利用して川越へ、ナント運行本数の多いことにびっくり!

これまで乗り鉄を志向していたが、JR在来線普通列車の乗りつぶしと、鉄印帳の第3セクターの旅だったので、全国名だたる私鉄を利用することはほとんどなかった。

 

川越での昼食は、小・中学校の同級生が経営するこの店で、ふるさと浜松時代に机を並べた、4人の小・中校同期生の懇親会だった。
このお店の凄いところを垣間見せて貰った。
オイラ達が集まった12時前から14時過ぎまで、この入り口前に10数人のお客様が、途切れることなく行列を作っていたことだ。
一番忙しい時間帯に能天気にも押し掛けたことを、心から反省した。

 

その夜の泊りは、千葉県佐倉市の某施設。
緑豊かな郊外に建てられた、終の棲家とする老人が暮らしているようだ。

川越からは、東武東上線で池袋、山手線に乗り換えて日暮里迄、さらにこちらも初乗り京成線で佐倉まで移動した。
大手私鉄は車両も立派だし、ダイヤも便利だし、これからは大いに利用しよう。

 

宿泊したのはゲストルームと称する部屋だが、入所されている皆さんの部屋と同様の間取となっている。
広~いダイニング部分。

 

寝室も余裕の配置で、寝具もとても清潔で快適だった。

 

こいつはご愛敬だね!

 

この大きな長方形の箱のようなものは、熱交換器付き換気扇だろう。
換気しながらも、入ってくる外気を温めて導入するものだ。(冷房時は逆に外気を冷やして室内に通す)

 

キッチン部分も十分なスペースがある。
体験宿泊をしている訳ではないが、いずれはこのような施設のお世話になる時が来るかな。

 

5階建が5棟、緩い丘陵地に独立して建てられている。

 

フロントには時節柄お雛様が、遠来の老人を送迎だ。

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川越城本丸御殿

2025年02月12日 | 歴史探歩

江戸時代以前の天守が残るお城は全国に12城あるが、本丸御殿が現存するのは高知城と川越城の僅か2城のみ。

 

川越城跡は公園化されており、所謂お城のイメージは湧いてこない。

 

門跡もこの状態で、表示板もなく往時を偲ぶ手がかりはなし。

 

土塁跡もこの状態。
やはりなにがしかの説明版を配置するべきだと思う。

 

本丸御殿の周囲には玉垣風の仕切りがなされているが、後世造られたものだあろう。

 

広場から正面に位置する玄関を臨んだところ。
玄関が異様に大きく感じる。

 

玄関は、唐破風に裳階風の平屋根付、間口3間の広さがが17万石を偲ぶ縁となっている。

 

玄関を入って直の廊下は公務部分で、床材は欅を使用している。
その他の柱や天井も質素な造りで、これと言った装飾もなされていない。

 

多くの古建築の屋根に使用される「杮材」が展示されていた。

 

川越城本丸御殿の屋敷図面、矢印で示す赤色囲いのほんの1部分が現存されている。

 

公務部分と家老詰所の間に設えられた庭。

 

大広間と庭で仕切られた家老詰所は典型的な書院造。
左手に床の間、右手に飾り棚を配した本勝手で、左手側が南向き。

 

広間の仕切りは衾ではなく板戸、絵も描かれているが説明はなし。

 

狭いながらいずれの庭も綺麗に手入れされている。

17万石の大名御殿だが、1部分の現存に留まるため、意外に質素な感じが残った。

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静岡名物

2025年02月09日 | Weblog

静岡名物数々あれど・・・と言いたいのだけれど思い出したのは、広沢虎造の浪花節で次郎長外伝の一節。
「旅行けば 駿河の国に茶の香り 名代なるかや東海道 名所古跡の多いところ 中に知られる羽衣の 松と並んでその名を残す 街道一の親分は 清水港の次郎長~

 

久能山から望む、暮れなずむ静岡の街。

 

日本平には、ごらんの送信塔がある。
幾つのアンテナが取り付けてあるのだろう。
効率が良いね!

 

こちらは夕暮れの静岡駅前、最近名物と言われる「静岡おでん」を食べに行こう。

 

おでん屋へ向かう道すがら、カラーマンホールを見つけた。
静岡名物はやっぱり富士山に尽きるか!

 

少し前テレビで紹介されていた店の看板を「見っけ!!!」。

 

このお店で、最初に出されたお通しがこれ。
手前に置かれたのが「畳いわし」で、右端のは「むかご」です。
さすが静岡、むかごは自然薯の実なので・・・とろろの本場だものね。

 

さすが茶処、これは焼酎のお茶割です。
麦焼酎を煎茶で割った一品です。

 

そしてこれが「静岡おでん」、濃い口しょうゆで煮込むので真っ黒です。
静岡名物がおでんとは、子供のころは知りませんでした。
オイラは浜松生まれですから静岡県の出身です。

 

一人でふらりと飛び込んだお店には、オイラと同じ全国を旅する常連客の方が居られて、大いに話が弾みました

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久能山東照宮Ⅲ

2025年02月08日 | 歴史探歩

久能山東照宮、とにかく彫物、装飾などすべてが「キンキラキン」で眼が眩むばかり・・・

 

拝殿の蟇股に施された彫物は、中国の故事を描いたものらしい?

ある日悪ガキが誤って殿さまが大事にしていた瓶に落ちてしまったので、殿さまの息子は瓶を割って友達を助けた。
息子は殿さまからお𠮟りを受けると覚悟していたが、殿さまは逆に友人を救った息子の勇気を、褒めたたえたという。
真ん中が割られた瓶から助け出された悪ガキ、右が瓶をたたき割った息子、左が殿様。

 

東照宮本殿を西側から見たところ。
お世辞にも美しいとは言えないが・・・

 

本殿の釘隠し二様、六葉紋をデザインしたものだろうが、なんとも豪華なもの。

 

本殿脇に設えられた神廟へ向う門。
やはり向唐門だ。

 

門を潜ると様相は一変、神廟の参道は彩色は一切なく落ち着いた雰囲気で、何となくホッとする。

 

鳥居を潜ったところで突き当り、参道は90度右に曲がっている。
この鳥居の笠木は反り返りが少なく、ごく普通の明神鳥居だ。

 

家康の遺言通り西向きに造営された神廟には、厳冬の薄い西日が射している。
久能山の西方には家康出生の地である岡崎があり、その先遥かに京の都に向いているため、この向きにされたと言うが、本当は西方浄土に向ているのでは?

 

廟の形は笠を被った円筒形とでも言うのか、それとも変形の五輪塔なのか、独特の形をしている。
円筒部に扉があるのが特徴的である。

 

神廟、東南部部分の水落が特殊な構造となっている。
方向からして鬼門除けに当たるのか?

 

神廟の扉には葵の他に「源氏車」が施されている。
源氏長者を名のった家康ここに眠るの意かな。

 

東照宮を背後から見ると、とても落ち着いた雰囲気である。
ただ、瓦屋根に冠せられた金の千木は異様としか表現できない。

 

帰り際に気付いた垂木の飾り金具、左端の1本のみ「逆さ葵」となっている。
何の意味が有るのかは不明、まさか職人のうっかりではないだろう。

 

久能山東照宮の見納め。
随身も「あ、うん」でした。

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久能山東照宮Ⅱ

2025年02月07日 | 歴史探歩

久能山東照宮と言えば1159段(いちいちご苦労)の階段を経て参詣するのが有名ですが、今回も時間が無いと言い訳しつつ、ロープウェイを利用させていただきました。

 

ロープウェイで参詣しないと出会うことが出来ない樹齢500年の古木と、武田信玄が築いたとされる久能山城二の丸の石垣です。

 

見上げる先に楼門が聳えています。

 

楼門には後水尾天皇の御宸筆で「東照大権現」の掲額があります。

 

楼門から臨まれる東照宮の拝殿です。

 

楼門の裏側には徳川家康の手形もありました。
不自然と思われるような「ますかけ線」が現われています。

ますかけ線とは、感情戦と知能線が一本線になって、手のひらを横切る手相のことです。
秀吉や家康がこの手相であったと言われ、天下取りの相とも言われます。
因みにオイラも左右共にこの手相ですが、全くの凡人で一生を終えそうです。

 

神であり、仏でもある大権現を祀る東照宮には鳥居も建っております。
この鳥居、笠木の先が異様に反り返っていますね。

 

エンタシス状の竿を持つ灯篭も、徳川家菩提寺の特徴でしょうか。

 

鼓楼(明治時代までは鐘楼)の袴腰は石造りになっています。
神仏分離令で鐘を廃棄し、鼓に代えられたそうです。

 

全国に数多く建てられた東照宮は、同じ形の門と塀が設えられています。
広島の東照宮も、この姿に酷似しています。

 

一般の参詣客は正面からのお参りは許されず、脇から拝殿へ向かいます。
水槽にも葵の門がありますね。

 

入母屋造の左側が拝殿、右側千木の上がっているのが本殿、繋ぎ部分が石ノ間と称されています。
平成22年国宝に指定されましたとさ。

 

本殿前から参詣道を臨みました。

 

これどもか!とばかりのきらびやかな装飾に、あまり感動しないのはなぜでしょう。

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久能山東照宮

2025年02月06日 | 歴史探歩

広島は令和7年年明けからずっと温暖で、穏やかな気候が続いていました。

 

そこで思いついた旅の計画は、日本国内有数の温暖な気候の静岡を選びました。
しかし当日は、思いとは裏腹に気象予報は本年最大の寒波襲来を告げていました。
名古屋到着10分前の鈴鹿山系上空はただならぬ雲行きで、山は白い冠を戴いています。

 

程なく静岡に到着しました。
静岡駅前の道路に敷設されたマンホール、これでもカラーなんですかね?

 

念のため確認に立ち寄った観光案内所では、この格安割引券を紹介してくれました。
「こいつは春から縁起がいいぞ!」 何割引きになりますか?

 

静岡鉄道バスの乗り場案内はこの通り。
とても分かりやすい表示で助かります。

 

名古屋付近とは打って変わって静岡の空は真っ青の快晴で暖っかい。

 

さすが茶所静岡、駅前の植生も「お茶の木」でした。

 

1番乗りで最前列の席を確保。
この行動は、放ったれ小僧の頃と何も変わっていません。
格好良い女性ドライバー、この町でも日本の現状そのままに女性の社会進出が顕著です。

 

狭い街中の道路は慎重に、曲がりくねった日本平パークウエイは巧なハンドル捌きで切り抜け、無事日本平ロープウエイ駅に到着しました。

 

日本平と久能山を5分で結ぶロープウエイゴンドラには、このお札がありました。
これを見た途端どうか風が吹きませんように・・・
九州の阿蘇山で強風にゴンドラが揺れ、怖い思いをしたことを急に思い出しました。

 

標高300mに満たない日本平ですが、久能山との間は深い谷となっています。

 

穏やかな海面は駿河湾ですが、霞がかかってまるで春のようです。

 

ゴンドラはゆっくり下って、久能山東照宮に着きました。
静岡県出身ながら、60年ぶり二回目の久能山です。

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鞆の浦 令和7年Ⅱ

2025年01月29日 | 歴史探歩

鞆の浦はコンパクトな街並みだが、多くの社寺が存在しており、うっかりしていると肝心なものを見逃してしまう恐れあり。

 

少し山の手側には、神功皇后が西下の折に創建されたと伝わる「沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)」がある。
一見すると何の変哲もない明神鳥居だが、珍しいものが笠木の先に留まっている。

 

近付いて笠木の先端を注意深く観察すると、鳥が留まっているのが見える。

これは全国的にも珍しい形の鳥居で、別名「鳥衾鳥居(とりぶすまとりい)」と言われている。

 

沼名前神社の標柱に記された「参神作造化之首」。
意味を知らなかったので調べてみた。

古事記に記されているもので意味は下記のようだ。
参神:三神=アメノミナカヌシ、タカミムスビ、カムムスビの三神のこと
造化:万物を作り出すの意
首:はじめの意

このことから「アメノミナカヌシ、タカミムスビ、カムムスビの三神が、初めて万物を創造した」と言う意味になるらしい。

 

実は今回の鞆の浦観光で、最も楽しみにしていたのがこのお寺。
足利尊氏の命により、全国60有余国に建立を命じた安国寺である。
ここは備後の国だったので備後安国寺である。

南北朝の動乱で亡くなった人を弔い、諸国の安寧を祈願して建立されたと言う。

 

反りの深い屋根は、禅宗様式建物最大の特徴である。

 

桁行三間に嵌め込まれた「桟唐戸」も禅宗様式の特徴の一つ。
さらに桟唐戸の上にある欄間は、弓連子(波欄間)といわれ、これも禅宗様式の特徴に数えられる。

 

御本尊は像長が170センチもある「一光阿弥陀三尊佛」でとても珍しい仏像形式である。
一光三尊佛とは、三体の仏像が一つの光背の中に納まっている形式のこと。
三尊佛の前の坐像は、開山の法燈禅師である。

一光阿弥陀三尊佛が御本尊で有名なのは長野にある善光寺である。
こちらは絶対秘仏で、公開されるのは前仏のみである。

 

安国寺の床は中国風で瓦を四半敷きしている。

 

境内には重森三鈴が修復した枯山水庭園もある。
こちらは川上だが、巨石を組んで蓬莱山を現わす。

 

中央部分では重森三鈴の手に成る「蘇鉄」が目立つが、築庭時は石組のみで鶴島。

 

狭いお庭だが壮大な雰囲気を漂わており、枯山水の特徴が良く残されている。
橋に使われた巨石は、火事に見舞われたときの焼け跡らしきものが残されている。

 

こちらが亀島で、鶴亀一対で不老長寿を祈願する。

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鞆の浦 令和7年

2025年01月28日 | 歴史探歩

広島県第2の都市である福山市は工業都市で、観光資源に恵まれているとはお世辞にも言えないが、数少ない景勝地であり史跡でもある地が鞆の浦だ。

 

令和5年11月にも友を案内して訪れたが、この時は折角お願いしたガイドが時間配分を誤り、肝心な史跡の案内を受けられず仕舞いだった。

しばし観光ポスターなどに登場する、鞆の浦を代表する景勝地の弁天島である。

 

鞆の浦を代表する豪商の建物である大坂屋の母屋跡、土地開発で現在は母屋の一部しか残されていないが、中央に見える石垣が往時の海岸線で手前側、今我々が立っている場所は近世になって埋め立てられた土地である。

鞆の浦の泣き所は街中の道が狭く、行き交う車の離合場所が限られて住民の生活がままならない点にあった。
そこからバイバス道路を海岸に架橋する案が浮上したが、「潮待ち港」本来の景観を損ねることから反対運動が巻き起こり、山間部にトンネルを掘る案が採用された。
令和7年3月にはこのトンネルが開通するので、住民の悲願が実現することになる。

 

鞆の浦随一の景勝が望まれる国重文の「対潮楼」、当然この石垣の手前部分は海であった。

 

瀬戸内海は潮の干満によって最大5メートルほど潮位が変化する。
東は紀伊水道、西は豊後水道を介して早い潮の流れが、瀬戸内海に発生するが、満潮時は鞆の浦沖で潮の流れがぶつかり停滞し、干潮時には東西に分かれて潮が引いて行く。
この流れに乗って多くの商船(北前船)が往来し、商売した後は引き潮に乗って全国津々浦々へと船出して行く。

商家、女郎屋、旅籠などがひしめく往時の姿がそのままこの地に残されているのだ。
現在は多くの漁船が停泊しているが、江戸時代そのままの雁木(船着き場)が残されている。

 

こちらは薬用の保命酒で財を成した太田家住宅の内部。
土間の天井でありながら、極薄の竹と板を巧みに使った「網代造」と称される天井が、遠来のお客様をお迎えする。
私たちが立っている床面は土間となっている。

 

こちらは最高級の「備後表」を使った太田家の客間、幕末には毛利氏を頼って「尊王攘夷派」の三条実美ら公家が滞在した部屋で、世に言う「七卿落」の舞台となった。

 

時節柄巨大な雛飾りも目を引く。
このお内裏様とお雛様は左上座であり、現天皇家とは逆の配置になっている。
雛飾りは左右どちらが上座であるか判然としないが、地域によって違いがあるのかもしれない。

 

京風の坪庭も配されており、都落ちして落胆する七卿を慰めたのであろうか?

 

さりげなく飾られた、陶磁器製のお雛様も・・・

 

太田家住宅の鬼瓦には、菊の御門がさりげなく配されている。

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家飲みの主役

2025年01月16日 | お酒

年月の移ろいは瞬く間、令和も早7年になりました。

 

最近家で嗜む、お酒の主流はウイスキーです。

 

初春からの楽しみはこの戸河内です。
元々は老舗の焼酎メーカーが、ウイスキーの蒸留に乗り出したものです。

蒸留所の名はsakurao、戸河内は広島県山間にいちする街名で貯蔵庫があるようです。

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聖武天皇陵 奈保山南陵

2025年01月03日 | 御陵印

病弱だったため異例の形で即位した天皇である。

 

元明・元正天皇陵近くで警官に尋問された挙句、天皇御陵巡りをしていると告げると、一転懇切丁寧に道順を教えられた聖武天皇陵はこのバス停から・・・

 

相変わらず歩道部分は名ばかりのこの狭さ。
傘を差せば、行き交う車の風圧で転びそうになる。

 

でも愚痴る間もなく制札版前に到着だ。

 

一歩参道に足を踏み入れば、街中とは思えない荘厳な光景が待っている。

 

参道の途中からどこかで見掛けたような、左手にかまぼこ型の土盛りが施されている。
この形の囲いは儒教関連の施設でよく見かけるが、聖武天皇と儒教の関連は不明。

 

御陵に向かう途中から、参道は二手に分かれる。

 

左は聖武天皇陵、右は光明皇后陵へ向かう参道だ。
昭和天皇陵と香淳皇后陵も併設されていたな。

 

奈良公園に近いのか、シンボルである動物の排泄物があった。
野生のシカか?奈良公園の神の使いのシカかのものか?

 

此処にも自然林を想起させる果実が実っている。
レモンか柚子か、それとも?

 

第45代聖武天皇御陵、第42代文武天皇の皇子ながら病弱の為、第43代は祖母の元明天皇、第44代は伯母の元正天皇を経て24歳で即位した。

 

母は藤原氏の地を引く系統、皇后も藤原氏の娘である。

在位中は権力争いや疫病の蔓延など波乱の時代で、恭仁京、紫香楽京など遷都を繰り返し、行基や良弁の力も借りて平城京に仏教の教えに基づく都を拓いた。

 

自然の山に築かれた山形墳墓を背に、奈良の都を臨む。

 

第45代聖武天皇の御陵印、最初に出家した天皇でもある。

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元正天皇陵 奈保山西陵

2024年12月31日 | 御陵印

母である元明天皇と、娘である元正天皇の御陵は、幹線道路を挟んで東西に位置する。

 

二つの御陵は、近代的なこの道路によって分断されている。

 

上記の交差点まで戻って、西側に位置する元正天皇陵への道を探すが、ここでも標識はなし。
舗装もされていない荒れた道だが、方向的には合っているので足を向けた。

 

荒れた山の中腹に、不揃いの玉垣が見えた。
この山が元正天皇陵で間違いないだろう。

しかしながらこの先はテニスコートに突き当たり、天皇陵には行きつけない。

 

交差点まで引き返し、改めてもう一本の候補の道を進む。
こちらには先ほど行き当たった、テニスクラブの案内板があるので違うと思ったのだが・・・

 

不安を感ずるまでもなく、すぐに天皇陵の制札版が現れた。

 

元正天皇陵の神明鳥居は木製で、上部に防食の金具で覆いがされている。

母:第43代元明天皇から、娘:第44代元正天皇へ譲位された。
歴代唯一、女系天皇から女系天皇へ継がれた。

 

元正天皇は皇后でもなく、皇太子妃でもなく、独身ままで初めて天皇に即位した。

 

墓形は山形とされ元明天皇陵と繋がる山系にある。
御陵内に柿の木があるのも両陵墓に共通しており、築かれた御陵ではなく山に埋葬されて後、天皇御陵に治定されたものだろう。

 

周囲に濠もなく、石による加工も未完成の感じ。

 

日本書紀の編纂を終えた、第44代元正天皇の御陵印である。

ちなみに歴代の女系天皇は即位順に以下の通り

33代推古天皇、35代皇極・37代斉明天皇(重祚 同一人)、41代持統天皇、43代元明天皇、44代元正天皇、46代孝謙・48代称徳天皇(重祚 同一人)、109代明正天皇、117代後桜町天皇

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元明天皇陵 奈保山東陵

2024年12月29日 | 御陵印

奈良郊外にある光仁天皇陵を参拝後、バスで取って返して奈良市内へ戻る。

 

近鉄奈良駅前からバスで10分強、奈保山御陵で下車する。
このバス通りを挟んだ東西に、二つの天皇御陵が存在する。

 

バス通りから1本東の道路際にこの茂み、目指す元明天皇陵ではないかな。
例によってによって案内標識がないので、自分の第六感を信じてまずは左手に道を取った。

 

第六感は見事に外れたので引き返す。
それにしても茂みは酷い荒れようで、とても天皇陵とは思えない。

 

野生動物の喜びそうな果物も実っている。

 

やっと御陵らしい植え込みが見えてきてホッとする。

 

お馴染みの玉垣と神明鳥居の上部が臨まれるから、御陵に間違いない。

 

右下の建物は、御陵の真ん前にある某企業のもの。
御陵内の松も剪定されず、この状態でした。

 

第43代元明天皇は女帝である。
息子の42代文武天皇が若くして崩御したため、その後43代天皇として即位した。

 

比較的新しく彫られたものかしっかりと読み取れる。
和同開珎の鋳造、古事記編纂、平城京への遷都が主な事蹟である。

 

御陵前で写真撮影中、見回りの警官に質問をされた。
墳墓は山形、円丘と言わないところから、自然の山に棺を埋葬したのかもしれない。

 

第43代元明天皇の御陵印だ。
第44代元正天皇は実子、母から娘への譲位は天皇家史上は初めて・・・

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光仁天皇陵 田原東陵

2024年12月25日 | 御陵印

奈良時代の後半、天皇家の覇権争いがとても激しかったことを、今回御陵を巡っていて改めて実感した。

 

事前の調査で、光仁天皇陵は奈良市の中心から東南東方向に位置し、鉄道便はなくバス便のみ、日笠と言うバス停下車で西約0.5キロを頼りに訪ねた。
バス停から僅かな距離なので、下車して周辺を見渡せば見つかると思ったが、さにあらず。

 

奈良市周辺のバス便は朝夕の交通渋滞が激しく、ダイヤは大幅遅れである。
予定時間を過ぎていることもあって、焦り気味に
近くの民家に人影を求めて4軒目、やっと道を教えてもらった。
それがこの道、とても御陵の参道とは思えない普通の田舎道である。

 

しばらく歩くと本来の参道らしき道に合流した。
実は最初の入りを間違えていたので、本来のこの道を歩けばおよそ500mで御陵に着けたはずである。

 

道を間違えた上、民家を訪ねて聞き歩きをしたので約20分、やっとこの光景に出くわした。
農耕地の先に小さく神明鳥居が見える。

 

光仁天皇陵の参道入り口、農機具の保管庫と田圃に囲まれた狭い参道。
左手の生け垣は駐車場である。

 

先に陵墓がなければ、普通に見慣れた田園風景である。

 

第49代光仁天皇陵の制札板である。

 

奈良時代後半、壬申の乱によって兄天智天皇の子息である大友皇子を破って即位した第40代天武天皇から数えて、第48代称徳天皇までの9代で天武系天皇は後継者が途絶えた。
称徳天応は生涯独身で子をなさなかったからである。

この後称徳天皇の参謀であった道鏡を配流し、即位したのが第49代光仁天皇である。
再び天智系の天皇が即位した。
この時光仁天皇は62歳で、歴代で最も即位年齢が高い天皇である。

 

陵墓は円丘とされており、墳墓の築山が手の届くような位置にある。

 

周囲の玉垣もほんの一部にとどまり、形ばかりの空濠が残されている。

 

訪れた当日は、丁度造園係の方々が、まさに樹木の剪定中であった。
小さな円墳であることが一目瞭然である。

 

失礼な表現が許されるのなら、まるで村の鎮守様のような小振りの天皇陵である。

 

光仁天皇の御陵印である。

光仁天皇の后は井上皇后で、天武系である聖武天皇の娘、呪詛により謀反を図った罪を負わせて井上皇后を配流したため、ここで天武系の系統は断絶した。

光仁天皇継いだ桓武天皇は、平城京を襲う災厄や疫病を逃れるため、都を長岡京から平安京へ遷都する。
この後平安京は実に1,200年に亘って繫栄することになる。

 

日笠のバス停を降りて、落ち着いて確認すれば光仁天皇への標識は見つかったはず。
小さな石碑がそれです。

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崇神天皇陵 山辺道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえりょう)

2024年12月22日 | 御陵印

第10代崇神天皇と初代神武天皇の諱名は、日本書紀には同じ名前で記されている。

 

崇神天皇陵への最寄り駅は、JR万葉まほろば線柳本駅。
駅舎内にはCAFE兼食堂が出店しており、駅前の景色はこの通り。
まるで第3セクターの駅前の感じだ。

 

柳本駅から天皇陵へ向かう道。
陵の参道を意識しているのだろう。
敷石風やカラー舗装などそれらしい趣が感じられる。

 

しだれ柳に寄り添うように、崇神・景行天領陵への道しるべもあった。

 

手前の森は倍塚か? 柳本駅から1キロほどで陵の駐車場に着いた。
建物の奥に見える森が崇神天皇陵である。

 

天皇陵としては異例の、古墳についての簡単な説明版がある。

 

崇神天皇陵である制札版を確認する。

奈良には天皇陵以外にも多く大規模古墳があるので、慎重に確かめないといけない。

 

第10代崇神天皇陵は、全長242メートルの前方後円墳である。
そして諱名は「ハツクニシラススメラミコト」である。
意味は、初めて国を統治した天皇と言うことらしい。

この諱名は初代神武天皇と同じである。
初めて国を統治した天皇が二人存在して良いものか?

 

壮大さは神武天皇陵と比べるべくもないが、相応の威厳を感じる。
在位68年、120歳で崩御、実在の可能性が高い最初の天皇だ。

神武天皇を継いだ第2代~第9代天皇は、欠史8代とも言われて実在が疑問視されており、実質天皇家は第10代崇神天皇から始まったのかもしれない。

 

崇神天皇は娘の太田田根子に命じて、天照大神を朝廷外の伊勢神宮に送り、三輪山に大物主神を祀って大和朝廷を確立したと記されている。
実質初代天皇と考えてよいのではないか。

 

此処のお濠にも「田道間守」と思われる円形の塚がある。

 

12月でもススキの穂が残る、崇神天皇陵近くの山辺の道。

 

オイラが勝手に実質初代天皇であると決め付けた、崇神天皇の御陵印である。

名前に神の字が入る天皇は、「新しいことを始めた天皇」であると言う説もある。

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