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太田恭三郎という名前をご存知だろうか

 

戦前は学校で教えていた人物です

 

戦勝国アメリカにとっては日本人に知られては困る人物だったのでしょう

 

米西戦争でフィリピンを統治していたアメリカから

 

大東亜戦争で日本が占領したという歴史を捏造するために

 

フィリピンで日本人が貢献したという事実を教科書で教えるわけにはいかなかったのです

 

昭和16年の修身教科書には次のように記されています

 

『ダバオ開拓の父』

 

明治三十六年、二百五十人ばかりの一団を先頭に、
日本人渡航者が相次いで、フィリピンに向かった。
フィリピンの首都、マニラからおよそ三百キロ北の高い山の中に、
バギオという町を新しく建設するため、その手始めとして、険しい山坂を切り開き、
三十五キロという長い道路を作ろうとしたのである。
岩が落ちてきて、人が怪我をする。出来かかった道は、すぐに崩れる。
そのため、フィリピン人も、アメリカ人も、支那人も、
これまで果たすことの出来なかった難事業を、今はしとげてみせようというのである。
 
日本人は、辛抱強くて、よく働いた。
けれども、やっぱりこの仕事は生易しいことではない。
何人も病気になったり、けが人もたくさんできた。
その上、日本人が一番困ったのは、急に食物が変わったことである。
このまま仕事を続けていたのでは、みんな病気になってしまうかもしれない。
 
この様子を知って、義侠心を起こしたのは、マニラの街に住んでいた太田恭三郎であった。
恭三郎は、早く明治三十四年からマニラへ渡って、そこで日本雑貨の輸入業を営んでいた。
渡航した時は、まだ二十六の若者であったのである。
恭三郎は日本人渡航者たちの苦しみをみては、じっとしていられず、フィリピン政府に相談して、
これを救う工夫をするとともに、自分で漁師からいわしを買い求めて送ることにした。
続いて梅干しやたくあん漬けなどをたくさん送り届けた。
このことを聞いた日本人たちは、
「太田さんは、偉い人だ。太田さんは、有難い人だ」
と、心から感謝して元気づき、一生懸命に働いたので、間もなくフィリピンの島に、
ベンゲット道路という立派な道路が、日本人の力で出来上がったのである。
 
ところが、今度はその日本人たちに、仕事のなくなる時がきた。
早くもこの様子を見た恭三郎は、またしてもこれを救ってやろうと思い立ち、
「ダバオこそ日本人の新しく働くところだ」
こう考えて、行く末を心配する日本人たちを励ましながら、ます百八十人だけをダバオに送り、
マニラ麻を作らせることにした。
その頃、ダバオは非常にさびしいところであった。恭三郎は、まだ二十九歳にしかなっていない。
三十八年には、二度ほど日本人をベンゲットからダバオへ送ったが、
二度目の時には、自分も一緒になってミンダナオ島のダバオに移り住むことにした。
 
そうして、今までの輸入業をやめて、太田興業という新しい会社を作り、
広大な畑に麻を栽培し始めたのである。
「日本人にマニラ麻がうまく作れるものか」
と、ばかにしていたアメリカ人やスペイン人をしり目にかけて
恭三郎の会社はだんだん大きくなっていった。
それだけではなく、腕のある日本人たちは、引っ張りだこで、
みんなに麻の作り方を教えるようにさえなった。
 
「有難い。これで日本人は、ダバオに落ち着くことができる」
恭三郎は、心から喜んだのである。
恭三郎の一生の望みは、どうしたら日本人が、海外でよく栄えることができるか、
ということであった。この望みに向かって、いつも全力を尽くした。
ダバオに落ち着いたのも、せっかく苦心した麻が暴風のため一夜で倒されてしまったことがある。
その時恭三郎は、
「こんなことで、負けてなるものか」
と、雄々しい気持ちを奮い起して、日本人たちを励ましながら、
一生けんめいになって復旧に努めた。
 
また、干ばつのときに困らないよう、畠に水を引く大きな工事を始めたり、
いつも先々のことを考えながら、細かく気をつかって、仕事をした。
恭三郎は日本人のために学校を作ったり、慰安の設備をしたりした。
その上、フィリピン人も日本人にならって、幸せになるようにと大きな心から、
病院を建てたり、道を開いたり、港をつくったりした。
大東亜戦争になって、フィリピンの島々から、アメリカ人を追い払うことのできる前、
すでに恭三郎は、ダバオ開拓の父と仰がれる大きな事業を成し遂げたのである。
ダバオのミンタルというところ、フィリピン群島第一の高峰アポを背にした緑深い山の上には、
恭三郎の立派な記念碑が立っている。
 

 

<アメリカによる開拓>

ダバオ州はスペイン時代にはほとんど開拓されず、1898年米領となりサンボアンガ軍司令官のレオナード・ウッド将軍はダバオ州は肥沃で未開地の多いことを知りダバオ開拓を部下に勧めました。ダバオ湾沿いに約50人が約30箇所に入ってマニラ麻の耕作者になりました。ウッド将軍は1921年から1927年まで幾度となくダバオを訪問し、マニラ麻の直接輸出、ダバオ開港の時期を早めたりとダバオ州発展に尽くしました。米国人は大変な努力をしてきたのですが、報いは小さく終わりました。



<ベンゲット道路工事>

米西戦争の結果、フィリピンは米領となり、熱帯のフィリピンを米国人が治めるのには避暑地が必要と考え、バギオに道路をつけ避暑地を開くことにしました。フィリピン労働者500人、支那人500人、白人200人、で道路工事を始めたのですが、2年間で150万ペソを使っても一向に進まず、工事はもっとも困難な場所に来たため200万ペソの予算でこれに当たることにしました。当時はアメリカ本国では日本移民排斥の声が高かったのですが、工事監督のケノン少佐はカリフォルニアでの日本移民の能力を知っていた為マニラの帝国領事館を通じ、日本移民を入れることにしました。少佐の要望は、道路開設労働者900人、石工100人、監督20人、英語通訳約1人、及びその助手1人の合計1022人でした。

比島政府から移民会社に移民一人当たり拾円の手数料を支給されていたので、争奪戦が起きました。他の移民会社の悪い評判を言ったり、事実以上の誇張したり、実際は竣工が目前に迫っているのに工期はあと一年あると言ったり、移民の質を何も考えないなど、後の責任を持たず唯人数だけを送り込むことをしていました。

渡比した日本人は1903年(明治36年)に男子475人、婦女子446人で婦子軍(からゆきさん)も入っています。1903年当時の移民会社4社の割り当ては1117人でしたが、結局はベンゲット移民として約1500人の日本人が行きました。

日本人は急ながけで崩れやすい最も危険な場所を受け持たされ、衛生設備が充分でなく力量も貧困だった為約700人が短期間に工事の犠牲になったといわれています。

全工事600万ペソを費やし、1905年1月、ついに道路は完成しました。



アメリカはダニエル・H・ディソン(フィリピン人)の著した『フィリピン少年が見たカミカゼ』さえも消し去りたいのではないでしょうか


日本の戦争は自己防衛

戦時中、日本軍とは侵略者であり、フィリピンを支配し、
自分達の欲しいものを持っていくだけの国と教えられていました。

しかし私には、日本がただ単に、人殺しをするためや、他国を侵略するため、
日本が統治する領土を拡大するためだけに、
戦争を始めたとは思えませんでした。

そこで、それにはもっと深い意味があったのではないかと考え、
日本が何故戦争に突入していったのかについて
何年もかけて調べていきました。そして一つの結論に至りました。

それは、欲深い白人達のせいだった、ということです。
白人達というのは、正にアジアに対してテロ行為を行ったのでした。
 

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