当世・服飾ファッション・よもやま話  UP TO DATE FASHION NEWS

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北京専条により琉球は日本・台湾は清朝に

2025-03-29 | ファッション
先週の「北京専条」をご確認下さい。
この前文、
「台湾の生蕃が日本国民に無謀な害を加えたため、
 日本国は、この生蕃を問い詰めるべく、兵を派遣しました。」から
清朝側は無謀にも害を加えられた琉球藩種子島の島民を
明らかに「日本国属民(日本国民)」と認識・規定しました。
条文には明確に琉球藩は日本国に属すと記述されていませんが上記から自明になります。
「台湾」については
「三 前略 台湾の生蕃については、中国が適切な手段で抑制」とあり、
清王朝が支配の及ぼしますと約束し「化外」でなくなり、清朝に属する「邦土」に。
日本側は台湾を「主権者のいない無主の地」から清王朝の「領土」と認定しました。

これにて一件落着、めでたし・めでたし、「占め子の兎」となるのです。
琉球国は日本国の国民、及び、国土と清朝がお認めになったのです。

ところがどっこい、そうは問屋が卸さなかったのです。
清朝は北京専条の前文を無視?
清王朝への朝貢国・琉球の日本のみ属すると承認したわけではない立場を取りました。
清朝の論理では条文を交わせど、朝貢国はすべて清王朝の属国(=邦土)と。
従って、琉球はあくまでも清朝、及び、日本、両国の属国(両属)との姿勢です。
日本の「国民・国家」論理展開と、清朝「冊封・朝貢」体制とは相容れないのです。

それよりも忘れてはならじ!
琉球国本体は今までの経緯にどのような思い・考え・対応したかの事実です。
そもそも、江戸時代初期、薩摩藩に支配されるまでは両属ではなく、
明朝の冊封・朝貢国ながら、歴(れっき)とした「王を頂く国」に違いありません。
1429年頃、三国(北・中・南)に分離していた沖縄本島を中山王が統一、
明朝(1368~1644)の冊封体制下に組み込まれ中継交易でめっぽう栄えました。
ところが、薩摩藩主・島津家久の数々の要求事項を拒否し続けた為、
1609年薩摩軍に首里城まで侵攻されやむなく和睦、薩摩藩の従属支配下に置かれる羽目に。
(薩摩藩には貢納、江戸幕府には慶賀使節等々を負わせられます。
 更に、琉球国はこの事実を明朝には伝えていません。)やがて、明朝が滅び、
清朝(1644~1912)が中原・江南を統一、明朝と同じく清朝の冊封体制下に入ります。
 続く。

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北京専条1874/10/31協定の調印

2025-03-22 | ファッション
1874年10月31日、大清国と大日本帝国が調印した体裁になってます。
以下、「北京専条」協定になります。(維基文庫 中日北京專條から)

「為會議條款互立辦法文據事:照得各國人民有應保證不致受害之處,應由各國自行設法保
 全,如在何國有事,應由何國自行查辦。茲以臺灣生蕃曾將日本國屬民等妄為加害,
 日本國本意為該番是問,遂遣兵往彼,向該生蕃等詰責。今與中國議明退兵並善後辦法,
 開列三條於後:
一、日本國此次所辦,原為保民義舉起見,中國不指以為不是。
二、前次所有遇害難民之家,中國定給撫恤銀兩,日本所有在該處修道、建房等件,中國願
   留自用,先行議定籌補銀兩,別有議辦之據。
三、所有此事兩國一切來往公文,彼此撤回註銷,永為罷論。至於該處生蕃,中國自宜設法
   妥為約束,以期永保航客不能再受兇害」

いつもお世話になっている、賢いGeminiの日本語訳が下記です。

この条約を結ぶにあたり、以下の事実に基づきます。
各国国民は、危害を受けないよう保護される権利を持っています。
このため、ある国で問題が発生した場合、その国自身が解決すべきです。
このたび、台湾の生蕃が日本国民に無謀な害を加えたため、
日本国は、この生蕃を問い詰めるべく、兵を派遣しました。
今や中国と協議し、兵を引かせ、その後の処理方法を定め、以下の三条にまとめます。
一今回の日本の行動は、国民を守るための義挙であったので、中国はこれを非難しません。
二事件で被害を受けた人々に対して、中国は慰謝料を支払います。
  日本が現地で修築した道路や建物などは、中国がそのまま使用し、
  その費用については別途協議します。
三今回の件に関する両国間のすべての文書は、破棄し、今後一切議論しません。
  台湾の生蕃については、中国が適切な手段で抑制し、
  航海者が再び被害を受けることがないようにしなければなりません。

尚、太政官布告は11/17「互換條款」になってます。
(データーベース「世界と日本」〈代表:田中明彦〉日本政治・国際関係データーベース
 政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所)
内容吟味は来週に。 続く。

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明治政府は台湾出兵を決断

2025-03-15 | ファッション
未だ、政権基盤の弱い明治政府は内憂外患でこの事件の処理に時間を割けない状況。

1871廃藩置県(M4/7/14) 日清修好条規(M4/7/29) 岩倉使節団出発(M4/11/12)
1872学制公布(M5/8/02) 新橋・横浜間鉄道開通(M5/9/12) 富岡製糸場設置(M5/10/04)
1873太陽暦採用(1/01) 徴兵令(1/22)地租改正条例(7/28)岩倉使節帰国(9/13)
    明治六年政変(李氏朝鮮問題で政府二分10/24西郷隆盛辞職 以降辞職者多数)
1874民撰議院設立建白書(1/17) 佐賀の乱(2/01~)台湾出兵閣議決定(2/06)

明治政府は一向に埒が明かない外交交渉に見切りをつけ、武力行使を決断。
(但し、不平士族の不満解消・ガス抜き・救済政策が主であったことは否めません?)
決断の根拠は清政府が台湾を清皇帝の影響・支配が及んでいない地域と主張した事です。
西洋列強諸国が掲げる「国際法(万国公法)」に依ると主権が及んでない地域は
「主権者のいない無主の地」。
又、宮古島島民は日本人。その日本人が被害を受けたので報復行動は自明。
従って、その地に住まう方々を「征討・成敗」しても全く問題が生じないとの論理。
5月に日本陸海軍は台湾南端(恒春半島)に上陸、戦闘に及びます。
現地指揮官は西郷隆盛(1827~1877)の弟・西郷従道(1843~1902)。
圧倒的な兵力の来襲で台湾先住民の排湾(パイワン)族の皆さんは寝耳に水状態。
約一ヶ月を要すも、日本軍は彼らを制圧します。
この行為を、清政府は日本の暴挙と憤慨・批難・反発します。
清王朝は台湾居住地にいる生蕃は確かに化外であるが、台湾島は清王朝に属している。
よって、日清修好条規の第一条(相互不可侵)違反と断固主張したのです。
事態打開の為、日本側全権、大久保利通(1830~1878)は北京に赴きます。
会談の清王朝側お相手は基本的に恭親王・愛新覚羅奕訢(1832~98)でした。
しかし、交渉は難航、平行線を来します。この状況が好転したのは世界覇権国家、
英国の駐清公使・トーマス・ウェード(1818~95)が仲介・斡旋した事に依ります。
この仲介でやっと、事件処理の進行をみます。
そして、漸く、「北京専条」協定(1874/10/31)が結ばれ、決着を見るのです。 続く。

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日清修好条規の「邦土」解釈違い

2025-03-08 | ファッション
先週の日清修好条規の第一条
此後大日本国と大清国は弥(いよいよ)和誼(わぎ)を敦くし天地と共に窮まり無るべし。
又両国に属したる「邦土」も各(おのおの)礼を以て相待ち聊(いささかも)侵越する事なく
永久安全を得せしむべし。 漢文でも即両国所属「邦土」と表記してます。
この「属したる『邦土』」は両国で意味(語彙概念)が異なっているのです。
清王朝の「属したる『邦土』」は「属国」で「朝貢国」。
日本側ではこの『邦土』は「国土(領土)」と解釈、
当時の近代国際法(万国公法)での主権、及び、実効支配されている「領地」です。
明治維新後、月日が浅い日本は浅はかにも清王朝を「国民国家」と誤認識してます?
更に、云えばこの時点で日本も「national state」概念を深く理解していたか甚だ疑問です。
取り急ぎ、これを(「邦土」→清王朝「属国」、大日本「領土」)ご記憶下さいませ。
そして日清修好条規調印後の同年1871年、琉球国に属する「宮古島」島民が東シナ海で
遭難、台湾南端に漂着するも台湾人に殺害される事件(琉球人台湾遭難事件)が発生。
この時点での「琉球国」は「両属」で
清王朝→交易の為の儀礼的な朝貢国、
大日本→「やまとんちゅ」が住まう国で薩摩藩支配(1609年~)→明治政府直轄地です。
「琉球国」が明治政府により「琉球藩」とされたのは明治5年(1872)年9月14日です。
しかも、具合が悪いことに琉球国と大日本はこの事実を清王朝に秘匿していたのです。
そして、不幸なことに、この前年、台湾で事件が起きてしまったのです。
日本は台湾を清王朝の国土(領土)と見なしていた為、清王朝に賠償を求めます。
これに対し、清政府は清皇帝の影響・支配が及んでいない地域で有り、
(漢語ではこのような地域を「化外(ケガイ)」と表現しています。)
宮古島の島民は琉球国の人々で日本人ではないとの見解で賠償責務は負わないと返答。
東シナ海で遭難した宮古島の島民の漂着した台湾南端(恒春半島)には台湾先住民の
排湾(パイワン)族と称される方々が生活してました。(漢語では生蕃と表記)。
*生蕃・・・教化に服さない蕃人。中国清代、台湾の先住民の高山族(高砂族)のうち、
       山地に住み、漢族に同化していなかったものの呼称。
(日本国語大辞典 精選版 小学館)
漂着島民(66名?)の内、彼らに殺められた島民は54名と多数でした。
又、梁啓超は1871年の事件発生時、未だこの世にお目見えしていませんでした。 続く。

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梁啓超「変法通議 論不変法之害 日本」1896年

2025-03-01 | ファッション
「変法通議の論不変法之害」で日本に触れた箇所があります。

「論不変法之害 略 今夫日本 幕府專政 諸藩力征
 受 俄(=露)德(=独)美(=米)大創 国几不国
 自明治維新 改弦更張不三十年而 奪我琉球 割我台湾也」
維基文庫 変法通議 論不変法之害 梁啓超 1896/08/19)
素敵で優れもの、Gemini日本語訳は
「今、日本の幕府の専制政治のもと、諸藩がそれぞれに力を誇示し、ロシア、ドイツ、
 アメリカから大きな打撃を受け、国がほとんど国でなくなった状態であった。
 明治維新以降、わずか30年で、日本は私たちの琉球を奪い、台湾を割譲したのである。」
現代語訳は
「今、日本の幕府が独裁政治を行い、各藩がそれぞれに力を誇示し、ロシア、ドイツ、
 アメリカといった列強から大きなダメージを受け、国が滅亡の危機に瀕していた。
 明治維新以降、わずか30年で、日本は私たちの琉球を奪い、
 台湾を割譲するという行為に及んだのである。」《有難山の鳶烏》

梁啓超は「琉球」を奪取「台湾」を清王朝から譲り受けたと決めつけています。
英明な彼でも、この時点では、かように考えていたのです。

これにはちょいと聞き捨てならないので、史実に基づいて展開してみます。
「琉球」について、これには「日清修好条規」が絡みます。
1868年M01/09/08「一世一元の詔(明治改元の詔)」
1871年M04/07/29日清修好条規 調印(下記条文は旧字を新字体に変更 下漢文)
第一条
此後大日本国と大清国は弥(いよいよ)和誼(わぎ)を敦くし天地と共に窮まり無るへし
又両国に属したる邦土も各(おのおの)礼を以て相待ち聊(いささかも)侵越する事なく
永久安全を得せしむへし
嗣後大清国大日本国 被敦和誼 与天壤無窮 即両国所属邦土 亦各以礼相待
不可稍有侵越 俾獲永久
第二条
両国好(よしみ)を通せし上は必す相関(かんせつ)切す
若し他国より不公及ひ軽藐(けいびょう)する事有る時其知らせを為さは
何れも互に相助け或は中に入り程克く取扱ひ友誼を敦くすへし
両国既経通好 自必互相関切 若他国偶有不公及軽藐之事 一経知照
必須彼此相助 或従中善為調処 以敦友誼
(データーベース「世界と日本」〈代表:田中明彦〉日本政治・国際関係データーベース
 政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所 大日本国大清国修好条規 漢文
第二条以下、第十八条までありますがそちらは端折ります。 
第六条だけ「両国の交渉には漢文を用い、和文を用いるときには漢文を添える」と。
 続く。

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