外国で一時的個人的無目的に暮らすということは

猫と酒とアルジャジーラな日々

パレスチナぼんやり回想(7)~イスラエル領内への旅・後編~

2024-05-17 19:09:38 | パレスチナ

 

 

今日はお天気が良くて、風が爽やかだけど肌寒いというほどでもなく、昼寝していて幸せな気分になった。穏やかで完璧な幸福感。起きたら、一瞬で過ぎて行ってしまったが。幸せって、そんなものよね…ふっ(目を覚ませ)

 

最近なるべく午前中に起きるようにしているのだが(活動時間を増やすため)、2時間くらいしたら眠くなるので、午後はお昼寝タイムになるのだ(結局活動時間短い)。昼寝するために朝起きているのかもしれない、という気さえする。夕方まで寝ていると、当然昼寝は出来ないのでね。昼寝は朝起きる人(そして暇な人)の特権ですね。気候のいい今のうちに、せっせと昼寝しなければ…(出かけるという発想はない)

 

さて。

 

前置き(?)はこれくらいにして、今回はイスラエル領内への小旅行の話の続き(前回のお話)。ハイファ観光を終えて、ナザレに移動するところからだ。

 

 

テルアビブ、ハイファ、ナザレ、西岸地区の位置関係はこんな感じ

 

 

ハイファからナザレには、バスで行った(ような気がする)。所要時間は2時間くらい(たぶん)。旧市街で修道院が経営しているゲストハウスに宿を借りた。受胎告知教会のすぐそばだったと思うので、ここかもしれない。違うかもしれないが…

 

広い部屋にいくつかベットが置いてあるドミトリーには、誰もいなかった。とりあえず真ん中の辺のベットに荷物を置いて、受胎告知教会を見学に行くことにした。

 

ナザレはアラビア語で「الناصرة」(アンナーセラ)と呼ばれ、イスラエル領内(グリーンラインのイスラエル側)の街だが、住民の大半がアラブ人だ(ウィキのアラビア語版には「全員アラブ人」とまで書いてある)。ムスリムの方が多いが、キリスト教徒も比較的多いことで知られている。ここはイエスが少年時代を過ごした地であることから、キリスト教において非常に重要な聖地とみなされ、世界各地から巡礼客が訪れる。(なお、イスラムでもイエスは預言者の一人とされ、「عِيسَى」イーサーと呼ばれる)

 

そんなナザレの見どころと言えば、「受胎告知教会」だ。(他に見どころあるんかな)

 

ウィキペディアの説明:

「受胎告知教会は、イスラエル北部・ガリラヤ地方の町ナザレの、カトリック教会の伝承で受胎告知が行われたとされる、マリアの少女時代の家があったと伝わる場所に建てられている」

 

例によって、ちゃんと写真を撮らなかったので、ウィキペディアから拝借した受胎告知教会の写真をご覧くださいませ。

 

 

 

 

やっぱり他人が撮った写真は美しいねえ…

 

なんしか、広かった気がする。(そんな感想しかないんかい)

 

私が撮った写真はこちら。

日本から送られた聖母子像(長谷川路可の「華の聖母子像)

 

 

こちらは韓国の聖母子像

 

各国から送られた聖母子像は、それぞれのお国柄が出ていて興味深かった。

 

教会見学を終えたら、辺りを適当に散歩し、見つけたスーパーで夕食の買い出しをした(食費節約)。ナザレはアラブ人の街とはいえ、イスラエル領だけあって、西岸などよりもずっと街が整備されていて綺麗で、スーパーもいくつもあった。ここもハイファと同様に、平穏な空気が流れていたが、ちょっと不穏なものも見かけた。

 

受胎告知教会のすぐそばにあった看板

「イスラム以外の宗教を望むものは、神に決して受け入れられず、来世に敗北者となるだろう」(コーランの一節)

 

これ、ナザレのアラブ人のキリスト教徒や世界中から巡礼に来るキリスト教徒に喧嘩売ってるやん…こういうのは止めていただきたい。コワいから…

 

 

散歩の後は宿に戻り、適当に食事して早めに寝た。寝る時は相変わらず広いドミトリー(女性用)に私一人だったが、夜中に誰か入ってきた。その人は、しばらく荷物を取り出したりして、ごそごそしていたが、やがて静かになった。

 

翌朝目を覚まして起き上がったら、少し離れたベットから、誰か近づいてきた。夕べ入ってきた人だ。彼女はなんとなく南米っぽい外観の小柄な女性で、穏やかな表情で私に微笑みかけて、「あなたにとって、今日が良い一日になりますように」というようなことをスペイン語で言ってから、スーツケースを引いて出て行った。巡礼に来たキリスト教徒だろう。彼女の微笑みは、なんとなく私の中に余韻を残した。特にいい一日にはならなかったが。

 

少し旧市街の商店街などを見てから、エルサレムに帰るため、西岸地区に向かうバスを探したが、そんなものはなかった。

 

私はナザレから西岸地区の北端の街ジェニンに南下する直行便のバスがあると思い込んでいたのだが、よく考えたらそんなものがある訳なかった。西岸地区は分離壁に囲まれているので、検問所を越える必要があるし、一般のイスラエル人は西岸の都市には入れないのだ。ジェニン難民キャンプは、2002年にイスラエル軍が突入して激しい軍事作戦を行い、キャンプを瓦礫に変えて多くのパレスチナ人を殺害したことで知られている。最近でも、イスラエル軍はジェニンを始めとする西岸地区各地の難民キャンプをしばしば攻撃しており、それによるパレスチナ人の死者が増えている。

 

とりあえず、ジェニンに最も近いアフラという街まで行くバスを見つけて乗った。すぐ着いたので、バス停の近くにある商店で水を買い、店の人達にジェニンの方に向かうバスがあるかどうか聞いた。そんなものはないと言う。歩ける距離かと聞くと、無理とのことだった。

 

12月なのに、良く晴れて気温が高い日だった。体力のない私が、無理やり長距離歩くと行き倒れるかもしれない。でも、イスラエルでタクシーに乗るようなお金はないし、そもそもタクシーなど走っていない。

 

しばらく考えた結果、ヒッチハイクしてみることにした。私は慎重というか臆病というか、なるべくリスクを排除して旅をするタイプなので(ホントなのか)、今までヒッチハイクはしたことがなかった。しかし、他に手段はなさそうだから、試してみるしかないだろう。中年になって、人生で初めてのヒッチハイクとやる羽目になるとは。長生きはするもんじゃな…

 

お店の人に教えてもらったジェニンの方角を目指して歩きつつ、車が来たら手を上げて合図した。不審がられるのか、何台も素通りして行ったが(そりゃそうだよな)、やがて1台止まってくれた。

 

運転手はフレンドリーな(チャラいとも言う)若いイスラエル人男性だった。ジェニンの近くまで行くというので乗せてもらったが、会話しているうちに、「ジェニンになんか、なんで行くんだ。それは止めにして、どこかに遊びに行かないか」などと言い出したので、丁重にお断りして降ろしてもらった。やっぱりヒッチハイクは面倒だよな…

 

その次に乗ったのは、アラブ人の車だったが(どんな人だったか失念)、西岸地区には行かないということで、検問所の手前で降ろされた。ジェニンの検問所は徒歩では通れなかったので、もう一回ヒッチハイクして、アラブ人の若者2人の車に乗せてもらって、検問所を通過した。やれやれ…

 

その2人は気の良さそうな人たちで、これからエリコ(ジェリコ)に帰るところだと言って、一緒に来ないかと誘ってくれた。エリコはメジャーな観光地の割には、公共交通機関が発達していなくて行きそびれていたから、一瞬心が動いたが、結局やめておいた。この人たちは問題なさそうだったが、そもそも親しくない人と長時間車に乗ること自体が面倒だったからだ。

 

そんなわけで、ジェニンから乗り合いバスを乗り継いで、ラーマッラー経由で東エルサレムの下宿に帰った時には、すっかりくたびれていた。慣れない旅をすると疲れるねえ・・・

 

 

これにて、イスラエル領内の旅の話は終わり。あとは、西岸地区の諸都市を訪れた時の話と、エルサレムについて書いたら、パレスチナブログは終了する予定だ。がんばろう~

 

 

(おまけのガーデニング写真)

キャンドゥで220円で買ったミニトマト栽培セット

 

出芽するかな~(どきどき)

 

 

(続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パレスチナぼんやり回想(6)~イスラエル領内への旅・前編~

2024-05-15 19:56:44 | パレスチナ

 

 

今回は、いわゆる「イスラエル」(1949年の停戦ライン=グリーンライン=国際社会で認知されているパレスチナとイスラエルの境界線、のイスラエル側の地域)を旅した時の話。ほんの小旅行だし、例によって、もうろくに覚えていないんで、大したことは書けないが。

 

私は2010年9月末から12月下旬までの約3か月間、東エルサレムの下宿を拠点として、西エルサレムでヘブライ語講座を受けたり、西岸地区のデモに参加したりしていたのだが、やることがなくて一人で暇をもてあましていることも多かった。もともと引きこもり体質なので、昼過ぎに起きて家でだらだらしていることも多かったが(外国暮らしの中年の引きこもり)、遠出することもたまにはあった。せっかく苦労してイスラエルの執拗な尋問を突破して入国したんだし、一度出たら二度と戻れない可能性もあるしね…

 

重い腰を上げて旅に出ることにしたのは、ヨルダンへの移動に先立ち、入国ビザを取る必要があったからだ。日本人は基本的に観光目的でのヨルダン入国の際、事前にビザを取得する必要はないのだが、第三国(私はエジプト)からイスラエルに入り、その後キングフセイン橋(アレンビー橋)経由でヨルダン入りする時は、事前に入国ビザを取得しておく必要があるのだ(参考)。キングフセイン橋は西岸地区のパレスチナ人がヨルダンに出入りするための検問所で、正式な国境検問所ではない位置づけなので、パスポートにスタンプも押されなければ、ビザも発行されないのだ。

 

というわけで、テルアビブのヨルダン大使館まで出かける用事が出来たので、ついでに他の街も見ておくことにした。といっても、イスラエル側で観光するのはあまり気が進まなかったし(政治的理由)、あちらは物価も高いので(経済的理由)、テルアビブは用事を済ませたらさっさとおさらばして、アラブ(パレスチナ)系住民が多いことで知られるハイファとナザレのみをさっと回ることにした。ルートとしては、エルサレム(スタート)→テルアビブ→ハイファ→ナザレ→西岸地区(通っただけ)→エルサレム(上がり)という感じだ。

 

なお、エルサレムから近い西岸地区のラーマッラーにもヨルダン代表事務所があり、そこでビザが取れるかもしれないという話だったが、場所も業務時間もよくわからなかったので、確実に取れそうなテルアビブのヨルダン大使館に行くことにした。ネットで調べたら、ラーマッラーの方でヨルダン入国ビザを即日発行してもらった人もいるようだが、取ろうと思う人は事前に電話して確かめた方がいいだろう。

 

エルサレムからテルアビブには、バスで移動した。1時間くらいで着いたと思う。案外近いのだ。バス乗り場やバスのチケットの値段などは忘れてしまったが、調べようとして検索すると、イスラエル観光をキラキラ推してくる有象無象の邪悪なページが出てきてストレスが溜まるので、イスラエル観光情報が気になる方は、ご自分で調べて下され…

 

テルアビブは噂通り、高層ビルが立ち並ぶ都会だった。さすがイスラエルの首都だ(強調)。まあ、東京ほどの大都会じゃ全然ないけどね、ふっ…

 

ヨルダン大使館に一歩入ると、そこはヨルダンだった。ヨルダンの温和な顔つきの担当者がフレンドリーに対応してくれて、アラビア語で会話できる癒し空間だった。やっぱりヨルダン、いいよね・・・のんびりしているかと思いきや、事務手続きはけっこうスムーズで(その辺もヨルダンっぽい。イタリアよりよっぽど事務手続きが早い)、即日発行してもらえたので(1時間くらい待ったと思うが)、その日のうちにハイファに移動することにした。

 

私がテルアビブで撮った唯一の写真

買わなかったけど。お腹減ってたんかな…

 

 

テルアビブからハイファは鉄道で移動した。駅で金属探知機のチェックを通過する必要があり、行列が出来ていたが、誰も文句言わずに並んでいた。バスターミナルでもそうだった。やはり占領地は普段から厳重な警戒態勢を敷いているのね。ヨルダンのショッピングモールやエジプトの鉄道駅のなんちゃってセキュリティゲートとは違う(音が鳴ってもスルーされる)。

 

ハイファに着いた時は、もう夕方近かった。(テルアビブから電車で1時間半くらい)

 

泊ったのは「PORT INN」というホステルだ。ロンリープラネット(ミドルイースト版)に載っていたと思う。欧米人の利用客が多かった。観光に便利な立地で、キッチンが使えて、中庭のテーブルセットで食事出来て、全体的に綺麗で明るい雰囲気だった。(ような気がするがよく覚えていない)

 

門番が犬

 

 

ここに2泊したが、到着した日は近所を散歩して夕食をとっただけだし、3日目は午後ナザレに移動したので、ハイファを観光したのは実質1日半くらいだった。その短い時間を利用して私が訪れたのは、バハーイー教本部の庭園だった。ハイファの観光スポットといえば、バハーイー教本部じゃないですか?(「ハイファと西ガリラヤのバハーイー教聖地群」は世界遺産)

 

ウィキペディアの「バハイ信教」の項目より:

「バハイ信教とは、19世紀に創始された宗教であり、すべての宗教の本質的な価値とすべての人々の一体性を説く。バハオラによって創始され、当初はイランと中東の一部で発展したが、創始以来、継続的な迫害に直面している。この宗教の信者は500万人から800万人と推定され、バハイとして知られ、世界のほとんどの国と地域に広がっている」

 

私はバハーイー教自体には興味はなかったが、庭園が見事だと聞いていたので、観に行ってみることにしたのだ。

 

 

ハイファの地下鉄

 

 

落書き?元々の壁絵?

 

 

バハーイー教本部の敷地の入口はカルメル山にあって、登るのが大変だった。入口の所に観光客の一団が集まっていた。彼らと共にしばらく待って、例によってセキュリティーチェックを受けてから入った。

 

がんばって登った甲斐があった。

独特の配色・構成の広い庭園が上から下まで伸び、下方にはハイファの街と港が広がっている。

 

 

変な色合い…

 

上からだんだん下に降りて行って、一番下にある出口から出て終わり。

 

外に出てから少し歩いて、アラブ系住民のやっていると思しきミニスーパーで飲み物やお菓子を買った。ハイファはアラブ系住民が比較的多く(人口の約1割)、中でもキリスト教徒のアラブ人が多いらしい。ほんの2泊しただけで、ろくに人と会話しなかったのだが、たまに見かけるアラブ系住民は、イスラエルに溶け込んで、穏やかに暮らしているように見えた。

 

帰りはバスに乗って、ホステル付近に戻った。バハーイー教本部の庭園は、ランドマーク的に街中からよく見えていた。目立つよね。

 

 

翌日の午前中は適当にバスに乗って適当に降りて散歩するという、暇な人にしか出来ない遊びをして過ごした。

 

そして、たどり着いたところはここ。

 

 

アフマディーヤ(アフマディ教団)のモスクだった。本人たちはイスラムの一派だと主張しているが、一般のムスリムからすると「異端」というか、「別物」として扱われている教団。日本にも支部あるよね(参考)。

 

モスクには誰もいなかった。(入口から撮影)

 

付近に墓地もあった。

 

この地域は、アフマディーヤの信者のアラブ人とユダヤ人が住んでいるらしい(ウィキ情報)。

 

結局、ハイファではバハーイー教の庭園とアフマディーヤのモスクを観光して終わった。意図したわけではないが、宗教マイノリティのハシゴっぽくなった。この日の午後にはナザレに移動した。

 

 

前回の予告では、「イスラエルや西岸地区の街を旅した時のことを書く、エルサレムについても書けたら書く」などと風呂敷を広げたが、実際に書いてみるとやたら長くなってしまい、結局イスラエルでの旅の記録だけでも前編・後編に分けることになってしまった。なんでこんなに説明がくどくなるんや・・・

 

 

(おまけのお菓子写真)

 

ハイファで撮ったイスラエルの揚げパン「スフガニオット」

 

 

(続く)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パレスチナぼんやり回想(5)~ナビー・サーレハのデモの続編~

2024-05-08 20:51:18 | パレスチナ

 

 

気が付いたら、更新が3か月以上も空いてしまったが(ネウロズの告知はカウントせず)、皆さんはいかがお過ごしだろうか。私はその間、ずっとガザ情勢を追っていたのだが、それ以外にも、ペルシア語のオンラインレッスンを受けて(週一)予習復習宿題にアホほど時間をかけたり、使うアテはないけどやり始めちゃったからしょうがなく続けているフランス語をじみじみ独習したり、新しい言語に上書きされてアラビア語トルコ語イタリア語を忘れてしまわないようにリフレッシュのためのトレーニングをしたり(シャドーイングとか翻訳とか)、ネットばかり見ていてはイカンとほんのちょっと読書をしてみたり、毎日家に座るか寝るかしてばかりで筋肉が衰えていずれ寝たきりになるんじゃないかという懸念があるため気休めにラジオ体操をしたり、日課となっている夜のベンチ飲みにせっせと出勤したりしていて、なかなか文章を書く態勢に入れずにいた。無職なので時間はあったのだが、なにしろ一日の稼働時間が少ないもんでね…それに、ちょっと間が空くと書き方を忘れちゃうので、再開するのが大変でね…(長年ブログやってるくせに)

 

言い訳はこれくらいにして、今回は当初の予告通り、2010年12月に書いた記事「ナビー・サーレハのデモ~毎週金曜日の小さなインティファーダ~(1)」(これ)の後編の再現を試みる。当時書いてアップした記事(これ)が、後で見直していた時に誤字を発見して訂正しようとしたらなぜか丸ごと消えてしまっていたので(魔法?)、かすかな記憶とピンボケの写真を頼りに再現してみるつもりだ。ちゃんと再現できてなくても、やろうとしたこと自体が尊いということで、勘弁してやってくださいね~(どんな時でも自分を褒める高度な能力を身に着けた私)

 

前編にも書いたが、2010年11月の良く晴れた金曜日の朝、私はパレスチナ西岸地区南部ヘブロンでの短期滞在を終えてエルサレムに帰る前、パレスチナ支援団体ISMのボランティアの外国人の若者たちと一緒に毎週金曜恒例のデモに参加すべく、西岸のラーマッラー近郊ナビー・サーレハ村に向かったのだった。

 

この日はナビー・サーレハに繋がる道路をイスラエル軍が閉鎖していたため、道なき道を約30分歩いてようやくたどり着いた。到着してからしばらくして、「アラファト死去6周年記念会」という、しょぼめ(演説予定の政治家の大半が道路封鎖で来られなかったため)のイベントが開始し、それが終わった後、いよいよデモ行進が始まった。

 

イベント会場で出会った女の子。今はもう大人の女性になっていることだろう。

 

 

ウィキペディアによると、ナビー・サーレハ村で毎週金曜日、お昼の集団礼拝の後に占領に対する抗議デモをするようになったのは、2009年のことだった。村に近接するイスラエルの入植地が拡大され、村人が利用していた水源が入植者らによって占領されたことがきっかけだったようだ。水資源は死活問題だからね。

 

私が訪れたのはその翌年で、まだデモを始めてからさほど経っていなかったせいか、長年毎週デモをやって幾分マンネリ化したビリン村のそれとは違い、村人が気合を入れて総出で参加している感じだった。ビリン村のデモは1時間かそこらで終了していたが、ナビー・サーレハではお昼から日没まで数時間、ずっと続いていた。

 

なお、村の名前はイスラムの預言者サーレハに由来する(النبي صالح ナビ―・サーレハ、ナビーالنبي は「預言者」の意)。預言者サーレハは、岩を割ってラクダを出現させるという奇跡を起こしたとコーランに記載されているらしい。なお、この預言者はサウジの世界遺産「マダーイン・サーレハ」(مدائن صالح)の名前の起源にもなっている(参考)。マダーイン・サーレハは、ヨルダンのペトラ遺跡と同様、ナバテア人の考古遺跡だ。

 

マダーイン・サーレハ

 

閑話休題…

 

村人たちがデモ行進を開始したので、私はその最後尾に付いて行った。一緒に来たISMのボランティアの外国人たちは、写真を撮るため前の方に行ったのだが、私はびびりなので、デモでは後ろの方を歩くことにしていた。その方が、催涙ガス弾があまり飛んでこないと思ったのだ。わざわざデモに参加するために来たけど、こわいものはこわいんだもん…

 

しかし、デモ隊が丘のふもとの道を行進している時、丘の上に待機していたイスラエル兵たちが下に向けて催涙ガス弾を発射したため、列の前方も後方も区別なくガスを浴びることになった。辺り一帯がガスのため白い靄に包まれたようになった。行進の列が乱れ、参加者の動きがバラバラになる。

 

ビリン村で経験済みだったが、催涙ガス弾を吸うと、一瞬目の前が暗くなり、目が痛んで涙が止まらなくなる。それだけではなく、ガス弾が直接当たると怪我をするし、運が悪ければ失明し、もっと運が悪ければ死ぬ。

 

ちょうどすぐそばに、コンクリで出来た障壁のようなものがあったので、私は他の数人と共に、その陰に隠れたが、近くでイスラエル兵をめがけて投石をする若者がいたので、辺りにガス弾がガスガス降ってきた。いや~ん…

 

私が涙を流しながら途方に暮れていると、それを見た近所のおじいさんが気の毒に思ったのか、よかったらうちの家で休んで行きなさいと言ってくれたので、付いて行くことにした。彼は足を引きずって杖を突いていたが、ひきしまった表情で背筋を伸ばした、ロマンスグレーの紳士だった。そんなに高齢ではないのかもしれない。

 

彼の家はすぐ近くにあった。2階か3階建ての1戸建ての大きな家で、表通りから階段を上ったところに玄関があり、1階に広い居間(客間兼用?)と台所などがあった。おじいさんに連れられて突然やってきた謎の東洋人の私を、かわいいおばあちゃんが出迎えてくれた。おじいさんの奥さんだ。2,3歳くらいのかわいらしい女の子と、小学校低学年くらいの男の子もいる。老夫婦の孫らしい。

 

おばあちゃんと孫息子

 

老夫婦の娘さんは、イスラエルの刑務所にいるそうで、写真を見せてくれた。

 

全員家族?

 

私がビリン村のデモに参加したことがあると言うと、おじいさんは真顔になって、「ナビー・サーレハのデモは、ガザの次に死者が多いことで有名なんだよ」と、どことなく「ビリン村と一緒にしてもらっちゃ困るぜ」と言いたげな気配を漂わせながら宣言した。こういう殉教者自慢って、パレスチナあるある…?

 

おばあちゃんは家族の事や村の苦境(ユダヤ過激派の入植者に水源を取られて苦労していることなど)を色々説明してくれたが、私のアラビア語能力が足りないため、よく分からない部分が多かった。おばあちゃんは私の反応をあまり気にせず、がんがん喋っていたが。

 

彼らには英語が話せる若い娘さんもいて、私のために呼びだしてくれたが、彼女は他に用事があったため、すぐまた出て行った。孫息子君も、外に行ってデモに参加したいと言い出したが、おばあちゃんが「あんたはまだ小さいからダメ!」と首根っこをつかんで止め、私も「そうそう、デモは危ないからここにいなよ~」と加勢した。

 

おばあちゃんが紅茶をいれてくれ、みんなで居間に座ってお茶を飲むことになった。私はデモに参加しに来たのに、ひとんちに上がり込んでお茶を飲んでいて、いいんだろうか・・・

 

見回すと、テラスには若い女の子が2人いて、周辺地域で繰り広げられているデモ隊とイスラエル兵らの攻防の様子を撮影していた。イスラエル兵がパレスチナ人に暴力を働いた際に証拠を残すためだ。おじいさんによると、彼女たちはデモに参加しに来たイスラエル人だそうだ。パレスチナ人に連帯して、テルアビブ辺りからデモに参加しに来るイスラエル人はけっこういるのだ。

 

おばあちゃんは彼女たちにも、中に入ってお茶をどうぞと声をかけたが、彼女たちは微笑みながら辞退して、いつ催涙ガス弾が飛んでくるかわからないテラスでクールに撮影を続けていた。2人とも美人で勇敢で、カッコいいなあ~

 

窓の外の丘の上には、イスラエル軍の戦車と兵士数人が見える。おじいさんが孫娘に「丘の上に誰がいる?」と尋ねると、たどたどしく「ジェーシュ!」(軍)と答えたので、みんなで大笑いした。パレスチナ人の子供は、小さい時からそういう単語を覚えていくのね…

 

外でなにか大きな音がしたと思ったら、玄関前の階段に催涙ガス弾が飛んできていた。

くわばら、くわばら…

 

近所の家から騒ぐ声が聞こえたので、おばあちゃんが窓から様子を見たら、通りでイスラエル兵が発射したガス弾がその家に飛び込んで、カーテンが燃えたという。こわ…

 

おばあちゃんは全ての窓を閉じてから、私を半地下に連れて行き、そこに置いてある壊れた窓ガラスを見せて、「イスラエル兵が壊したのよ!」と説明してくれた。以前のデモの時に、イスラエル兵が通り沿いの家の窓ガラスを叩いて、割って回ったらしい。やつら何のためにそんなことするねん…

 

 

この家は斜面に立っているので、半地下階は、通りに面している側は地下だが、裏庭に面している方は地上に出ている。私がアンマンで住んでいたアパートと同じ造りだ。

 

おばあちゃんはついでに裏口から出て、敷地内をチェックする。ここにも催涙ガス弾が飛んできていた。

 

けんのん、けんのん…

 

1階に戻ってみたら、おじいさんの姿が消えていた。出かけたのかと思ったら、テラスの片隅にいて、イスラエル兵のいる辺りに向けて、必死の面持ちで石を投げていた。彼の中で、そしておそらくパレスチナ人全体の中で長年蓄積された怒りが、投石というささやかな抵抗の形で発散されているのを感じた。

 

私はパレスチナでデモに参加するようになってから、平和的デモにおける投石という暴力行為に疑問を感じていたのだが、彼の姿を見ているうちに、その疑問が払拭された。長い年月の中でイスラエルの軍や入植者に受けた度重なる暴力や収監(おじいさんも刑務所に入れられたことがある)、父祖代々の土地の略奪を思うと、そして相手は完全武装した軍人であることを思うと、投石なんて暴力のうちに入らないと思ったのだ。だって軍服を着てヘルメットをかぶって銃を向けてくる相手に遠くから石を投げるくらい、なんでもないことじゃないだろうか。せめてもの抵抗の印、象徴的な行為といえるだろう。

 

当時はそんな風に思っただけだったが、今は投石だけではなく、イスラエルの長年の占領と暴力に対するパレスチナの武装抵抗も、正当化できると思っている。平和主義でなんとかなる相手と、そうでない相手が存在すると思うのだ。イスラエルがそのどちらであるかは明らかだ。

 

 

テラスの向こうの風景は白くけぶっている…催涙ガスで

 

 

おばあちゃんは孫たちに遅い昼ご飯を食べさせ、「金曜日はいつもこんなだから、大したものはないけど、良かったらどうぞ」と私にも勧めてくれた。骨付きの鶏肉入りのよく煮込んだ野菜スープとパンと、オリーブ。それに、目玉焼きを作って1品増やしていた。ビリン村でお世話になった家でも、品数を増やすために目玉焼きを作っていた気がする。パレスチナの主婦の知恵か。

 

写真は撮り損ねたが(撮れよ)、この野菜スープが滋味たっぷりのしみじみした味わいで絶品だった。オリーブの漬物も手作りで、フレッシュな味わい。パンも当然美味しかった。やはりパレスチナの家庭料理は美味しいよなあと思いつつ、遠慮なく食べる。

 

そうこうしているうちに日が暮れてきて、イスラエル兵らを乗せた戦車が村から去って行った。デモが終わったのだ。テラスにいたイスラエル人の女の子たちも引き上げて行った。私は結局、最初から最後までひとんちにいたことになる。まあいいか、そういう参加の仕方もありだろう(ということにしておいて下さい)。

 

おばあちゃんたちにお茶と食事のお礼を言って、外に出て帰りのバスを探していたら、一緒に来たISMの人達に遭遇した。わりと仲良くなったフランス人の男の子と、もう1人(彼も欧州の若者)だ。「君どこにいたの?心配して探したよ!」と言われ、「ごめん、村の人の家に上がり込んでご飯食べてお茶飲んでた」と正直に答えたら、すごくウケた。よかった、怒られなくて…彼らはずっと外にいて、ガスを吸いながらデモの写真を撮っていたらしい。若いのに、エライ人たちだ。

 

バスが出るまでの間、デモ参加者をねぎらう夕食会があるというので、彼らと一緒にそれに参加してから帰った。なんだか食べてばかりだ…

 

メインはパレスチナ料理のムサッハン(鶏肉と玉ねぎをパンにのせて焼いたスマック風味のオーブン料理)で、それ以外にもファラーフェルとかサラダとか色々あった。デモに参加するためよそから来たボランティアのために、村の女性たちが用意してくれたらしい。私はムサッハンを食べるのはこの時が初めてだったので、こればかり食べていたが(当然美味しかった)、外国人ボランティア(イスラエル人も)はベジタリアンが多くて、あまり減っていなかった。彼らはファラーフェルばかり食べていた。パレスチナでボランティアをするタイプの人は、ベジタリアンが多いのだ。彼らにとってパレスチナ支援と菜食は、倫理的に関連するのかもしれない。

 

食事が終わってからしばらくして、ようやくバスが出て、東エルサレムの下宿に帰った時には、かなり夜遅くなっていた。疲れたが、お腹はいっぱいだった。食べてばっかりだったからな…

 

そんなわけで、ナビー・サーレハのデモは非常に楽しかった。デモ自体にはほとんど参加してないけどね…

 

次回はグリーンライン内のイスラエルの街や西岸のヘブロン以外の街を旅した時のことを書こうと思う。エルサレムについても書けたら書いて、長すぎるようなら次に回す。もうろくに覚えていないし、写真もほとんど撮っていないので(痛恨)、ざっと流すだけの内容になると思うが、悪しからず…

 

パレスチナブログの追記を早く終えて、一昨年の旅行記に戻り、それが終わったら、去年の旅行記をなるべく早く書いてしまいたいが、いつ終わるかな…

 

 

「あわてない あわてない ひと休み ひと休み」

一休さんの似顔絵イラスト

 

いらすとやさんの一休さんのイラスト探したら、これしかなかった。輪投げ??

 

 

関係ないけど、「イラスト」って和製英語だよな…

 

 

(続く)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クルドの新年のお祭りネウロズ2024

2024-03-19 02:22:17 | クルド

 

 

気温の変化に付いて行けないという口実でだっらだらだらだら過ごしていたら、いつの間にか春が来たり、また冬が戻って来たりしていますが、皆様いかがお過ごしでしょうか・・・

 

今回は、クルドの新年の祭り「ネウロズ」(春祭り)の祝賀イベントについて、フェイスブックの「一般社団法人日本クルド文化協会 Japan Kurdish Cultural Association」のページの告知をコピペしただけの内容です。

 

 

「NEWROZ 「新しい日」を祝う クルドの音楽と踊りの祭典が、3月20日(祝)秋ヶ瀬公園三ツ池グラウンドで開催されます。
新しい(NEW)日(ROZ)を クルドの音楽と踊りとクルドの料理で 日本の方、日本に暮らす様々な方々に楽しんでいただきたいです。是非ご参加ください。
ネウロズ(Newroz)はクルドの人々にとって最も大切な日であり、またお祭りの日です。
ネウロズはクルド語で文字通り「新しい日」を意味します。
生命とエネルギーが厳しい冬を乗り越えた後,自然の凡ゆる場面が新たに生まれ変わる春の季節の第1日目です。
更に付け加えるならば,伝説的な闘いの後,暴君による圧政と後退を乗り越えたクルドの人々が勝利の証として合図を送る日,それがネウロズです。
物語は2000年以上前に遡ります。
暴君デハク(DEHAK)-クルドの言い伝えによると,彼は自らの不治の病を癒す為に毎日若者1人の生命を奪っていました-の悪政に対し,革命的蜂起を率いた鍛冶屋のカワが指揮の下,苦境に喘ぐ人々が一致団結した時,その革命はカワがハンマーで暴君の生命を奪った事でついにクライマックスを迎えました。
クルドの人々はこの報せの為に,そして今迄甘受していた不当な扱いと,迫害等の哀しみの源を捨て去る喜びと幸せを宣言する為に火を焚いたのです。
ネウロズの篝火は山々の頂や丘の上で焚かれます。 火はクルド人の文学および文化の中で自由と解放のシンボルと見なされています」

 

 

画像

 

私はきっと今年も起きるのが遅くて夕方までに出かけられないので、参加できないと思いますが、行かれる方は楽しんできてくださいね~

 

 

(終わり)

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パレスチナぼんやり回想(4)~西岸地区ヘブロン遠征~

2024-02-04 21:25:34 | パレスチナ

(エルサレム旧市街のやさぐれ猫さん)

 

 

今回は、エルサレムから西岸地区の南端の都市ヘブロンにちょいと旅した時の話。(2010年秋頃の話です)

 

ヘブロンはここ(アラビア語ではالخليل アルハリール)

 

 

エルサレムから西岸地区のラーマッラー以外の都市へはバスで直接行けず、検問所を越えてラーマッラーに入ってから、別のバス(乗り合いバス)に乗り換えて行くのが通常なのだが、ヘブロンはちょっと行きにくくて、一旦ベツレヘムまで出てから、ヘブロン行きのバスに乗り換えた。30分ほど乗ったと思う。乗り合いタクシーなら直接行けたようだが、当時私はそれを知らなかった。(参考

 

西岸地区はあまり広くないので、行こうと思えばどこでもエルサレムから日帰りで行けるのだが、ヘブロンは少し遠い上に行きにくいし、ISM(パレスチナ支援の国際ボランティア団体 参考)の宿舎に泊まれるという話を聞いたので、2~3泊することにした。

 

ISMの宿舎は市内中心部にあって、長期滞在して活動をする人は無料、一時利用者も安く泊まれた。ミーティングルームや寝室などがあって、シャワーはソーラーパネルによってお湯が出るようになっていた。東エルサレムの下宿のシャワーも太陽光を利用していて、冬でも少しの電気代でお湯が出るようになっていた。パレスチナではソーラーパネルの設置が進んでいるようだった。1年のうちの日照時間が長い地域では、電気の使用を抑えるため、太陽光を最大限に利用するのが理にかなっている。でも、ヨルダンやエジプトではあまり普及してないんだよな。エジプトは発電用燃料を買うお金がないため、2023年夏から「計画停電」の名の下に毎日1~2時間停電しているが、各家庭にソーラーパネルがあったらずいぶん違うのではなかろうか。

 

ISMの宿舎は、なんとアルコール禁止だった。地元のムスリム社会に合わせて、あえて禁酒の方針を取っているらしい。たしかに、外国人が集まって宴会していたら悪い評判が立って、ボランティアを断られるかもしれないから、賢明な決断かもしれない。街中で探せば酒屋は見つかったかもしれないが、飲む場所がないので、結局私はヘブロンでは酒を飲まずに過ごした。そう思うと、当時の私は今ほどアル中じゃなかったのかもしれない。今だったら、酒が飲めない場所にはよっぽどのことがない限り行かないし、なんならこっそり持ち込むだろうからな…

 

ISMの宿舎に滞在していた外国人ボランティアは(この時は10人程度)、欧米人の若者が中心で、短期滞在者が多かったが、中には1か月以上滞在している女の子もいた。共通語は英語で、アラビア語を勉強している人は私以外にはいなかった。支援活動に関わる人は、じっと机に座って複雑怪奇なアラビア語の文法を勉強をするより、外で人と関わって身体を動かすことを好むタイプが多いのだ(外大出身者除く)。

 

私が比較的よく行動を共にした感じのいいフランス人の20代前半の男の子は、非アラブ系の白人だったが、フランスで自主的に改宗してムスリムになったとのことで、コーランを持参してイスラエルに入国していた。空港では一切荷物チェックを受けなかったそうだ。なんと~私なんか無神論者だけど8時間も検問所で嫌がらせされたのに…やはりイスラエルには空路で入るのが正解らしい。

 

インドから来たムスリムの女の子2人連れもいた。彼女たちはヒジャーブで髪を隠していたので、イスラエルの空港に着いた時、問題はなかったかと聞いたら、「空港ではさすがにヒジャーブを外した」とのことだった。やっぱりそうよね。いくら空路で入る方が陸路よりチェックがゆるいと言っても、空港で外国人がヒジャーブをしていたら、即座に別室行きになって尋問されそうだ。

 

私がヘブロン参加したISMのボランティア活動は、通学するパレスチナ人の子供の見守りだった。

 

事前にISMで受けたレクチャーによると、西岸地区の都市は行政・治安の両面でパレスチナ自治政府の管轄下にあり、入植地は街中にはないが(郊外・非都市部にある)、ヘブロンは例外で、市内中心部の旧市街を含む「H2」と呼ばれる地域がイスラエルの支配下にあり、入植地が街中に入り込んでいるのだ。H2地区に住むパレスチナ人は、家からパレスチナ自治政府の支配下の「H1」地区にある職場や学校などに行き来する際、毎日何度もイスラエル軍の検問所を通らなければいけないし、検問を無事に通過したとしても、武器を携帯したユダヤ過激派の入植者に威嚇されたり、彼らの車に轢かれそうになったり、ゴミを投げ込まれたりと、様々な嫌がらせを日々受けているとのことだった。それでISMの外国人ボランティアは、通学する小学生たちが危険な目に遭わないように、登下校の際に見守り活動をしているのだ。

 

 

 

 

私は他の人達に付いて行っただけで、あまりよく覚えていないのだが、登校時間に通学路のどこかの地点で集団登校する子供たちと合流し、学校まで付き添って歩いて、学校の前で待機していた先生に挨拶して終わりだったと思う。この時は入植者の車は通らず、何事もなく終わった。よかった…制服姿のパレスチナ人の小学生たちは大変かわいらしかったが、写真を撮り忘れた。

 

 

私がヘブロンで撮った写真は1枚だけ。通りがかりに見学させてもらった靴工房の写真だ。

なぜこれだけ撮ったのか、我ながらナゾである。

 

ヘブロンはイスラエル軍の検問所や入植地が街中にあるという大きなハンデを負いつつも、西岸地区の産業の中心地となっており、靴やサンダル、クーフィーヤ(كُوفِيَّة パレスチナの象徴のひとつの格子っぽい模様の被り物用の布)からスナック菓子に至るまで、様々なヘブロン製品がエルサレムなどでも売られている。ヘブロンの市場も活気があって良かった。物価はエルサレムよりだいぶ安い。何か土産を買って帰ればよかったな…

 

話は逸れるが、白黒のクーフィーヤはかつてパレスチナ解放機構(PLO)のアラファト元議長が身に着けていたことで、パレスチナのシンボルのひとつとして注目されるようになった。

 

 

しかし、最近はガザで最新兵器を備えた大規模なイスラエル軍を相手に戦っているハマスの軍事部門カッサーム部隊のアブー・オベイダ報道官が被っている赤白バージョンの方が人気かもしれない。彼はSNSのアラブ人ユーザーの間で「覆面男」と呼ばれ、絶対的な信頼を寄せられているのだ。

 

 

ちなみに、イスラム聖戦の軍事部門エルサレム部隊のアブー・ハムザ報道官は黒い布を被っている。

アブー・ハムザは、アブー・オベイダより影が薄いのよね…

 

 

話を元に戻そう…

 

ISMの宿舎と街中を行き来する時、必ずイスラエル軍の検問所を通る必要があった。私は外国人女性であるせいか、ほぼ素通りだったが、武器を持った兵士がそばにいるだけでコワくて(ビビりだから)、毎回びくびくしながら通っていたのだが、ある時、若い兵士に話しかけられた。

 

「君、2日くらい前からこの辺にいるよね。そんなに怖がらなくていいよ。僕たちは悪者じゃないから」

 

温和そうな顔をした、大学出立てくらいの若者だった。徴収兵だったのかもしれない。彼は私の顔を見て少し微笑みながら、さらにこう言った。

 

「僕たちは大丈夫だけど、その後にやって来るグループは危険だから、そいつらには気を付けた方がいいけどね」

 

いや、君は私を安心させようとしてるんかい、不安にさせようとしてるんかい、どっちなんや…突然の事なので、うまく返事が出来ず、私はただうなずいて検問所を出た。確かに、その検問所にいた兵士たちは温和そうな普通の若者だったが、西岸地区やエルサレムにも展開しているイスラエルの国境警察(少数派のアラブ系イスラエル人、特にドルーズ派の構成員が多数いることで知られる)は、デモ隊などに狂暴に振舞うから気を付けた方がいいと聞いたことがある。くわばら、くわばら…

 

 

なお、ヘブロンにも観光スポットはある。市場(スーク)もその一つだし、イスラエルに閉鎖されてしまった旧市街の商店街「シュハダー通り」もある意味で観光名所だが、目玉は何と言っても歴史的に重要な「アブラハム・モスク」(المسجد الإبراهيمي)だろう。ユダヤ教徒には「マクペラの洞穴」と呼ばれているらしい。アカペラじゃないですよ。

 

アブラハム・モスク(ネットから拝借した写真)

 

 

ここは、預言者アブラハムやその妻、息子などが埋葬された地に建てられたといわれ、イスラム教徒にとってもユダヤ教徒にとっても重要な聖地である。長い間ずっとモスクとして使われていたが、1967年の第三次中東戦争以降にイスラエルによって建物内部が分割され、モスク部分とシナゴーグ部分に分けられてしまっている。イスラム教徒は、このような一方的な分割がエルサレムの聖地アルアクサーモスクにも行われるのではないかと危惧している。

 

私もヘブロンに来たからにはアブラハム・モスクを見るべきだと思って、着いた当日に行ってみたのだが、夕方だったからもう閉まっていて、その後も行きそびれた。

 

そういうわけで、ヘブロンでは観光らしいことはあまりしなかったが、暇な時に街をウロウロ散策したりはした。街中であっても、建物の立っていない空き地などには、ゴツゴツした白っぽい岩(石灰岩?)がそこら中に転がっていた。パレスチナらしい風景だ。そんな空き地で、石を投げ合っている子供たちを見かけた。パレスチナ人というと、武器を持ったイスラエル兵に石を投げて立ち向かうことで有名だが、こうやって小さな頃から練習しているのだな…(単なる喧嘩や)

 

その空き地からしばらく行ったところにある坂道をなんとなく登っていったら、上の方にイスラエル警察のパトカーが止まっていて、警官が何人かその周りにいたが、間もなく走り去った。

 

外国人の私が歩いているのを見て、小学生くらいの男の子が2,3人近寄ってきたので、さっきの警察は何をしていたのかと聞いてみたら、「この近くに住む男の人が逮捕されたんだよ」と教えてくれた。そして、坂の下の方を通る人々を指さして、「あの人は3年牢屋に入ってたよ」「あの人は5年」などと教えてくれた。おいおい、ほぼ全員かい…さすがヘブロン、刑務所に入れられたことがある人の割合が半端じゃなさそうだ。

 

まあそんな感じで、充実したヘブロン滞在だったのだが(大雑把なまとめ方)、帰る日にISMの何人かがバスで連れ立ってナビー・サーレハの金曜デモに参加しに行くというので、そちらに寄って夜エルサレムに戻ることにした。デモの様子については、すでに記事にしているが(これ)、後半部分を誤って消してしまったので(これ)、次回はその後半部分の再現を試みることにする。もうあんまり覚えてないけど、まあなんとかなるだろう、たぶん…

 

 

「まあがんばってにゃ」

(東エルサレムの下宿先の庭の常連ネコさん達)

 

 

(ヘブロン関連の参考記事)

「ガザの次は私たちの番なのか」 パレスチナ・ヨルダン川西岸で暴力が急増──恐怖と隣り合わせの日常で(2024年01月18日付)

https://www.msf.or.jp/news/detail/headline/pse20240118mi.html

 


イスラエルはパレスチナ人の日常生活の監視・統制を最先端の「ウルフ・パック」で自動化しているとの指摘(2023年11月24日 付)

https://gigazine.net/news/20231124-how-israel-automated-occupation-hebron/

 

【ルポ】 ヨルダン川西岸でも厳しい日常 イスラエル軍がロックダウンを強化(2023年11月22日付)

https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-67471335

 

 

(続く)

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする