新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

3月30日 その2 高校野球には言いたいことが多々ある

2024-03-30 14:25:47 | コラム
日本高野連と新聞社は敢然として「古くて良くない文化」の維持に努めている:

甲子園野球廃止論者としては、時間に余裕があり気が向けば、何故中継を続けるのか意図が不明なNHKで見ている。疑問に思うと同時に何故21世紀の今日でも墨守するのかと思っている、時代感覚の欠如としか見えない点を挙げていこう。

丸刈りの髪型:
時代錯誤の精神主義の表れであり、古き良き?時代の指導法だと思う。我が湘南高校が昭和24年(1949年)に優勝してしまった時の連中の殆どが長髪で、「湘南は髪を伸ばしている」と批判/非難されたものだった。同級と同期の野球部の者たちは「丸刈りにすべし」と承知していたとは思えない。今開催中の大会では青森山田他数校が長髪だった。最早高野連からお咎めはないのか。生徒たちの自由裁量に任せるべきだろう。

甲子園の砂を持って帰る:
止めて欲しいと思ってみている。私には余りにも感傷的であり感情的であるとしか思えない。その為としか思えない袋を用意してあるのには恐ろしささえ感じる。我ら蹴球部は第3回福岡国体の高校の部の決勝戦で広島師範附属高に敗れたが、グラウンドの土を持って帰るなどという発想はなかった。

あの光景を地べたに這いつくばって写真を撮っている無情なカメラマンが多数いるが、その写真を何処にも見たことがないのは何故かな。

一塁に頭から滑り込む:
恐らく「何としても勝とう/負けるまい」という敢闘精神の発露なのだろう。いや、野球界の伝統で「勝利への強い意志」と「何があろうと勝負/試合を捨てるような弱気は見せてはならない」という指導方針の表れだろう。「飽くまでも戦おうとする心構えと精神力」を否定するものではない。だが、科学的には「一塁ベースを走り抜ける方が滑り込むよりは早い」と立証されている。私が指導者であれば「合理主義を取る。改善して欲しい。

余談だが、「ヘッドスライディング」は我が国独特の造語で、アメリカでは“head first sliding”と呼ばれている。頭で滑り込むという技は、物理的(身体能力的)には不可能であろうし、危険ではないのか。

例えば1回の表(裏)ノーアウトランナー2塁で犠牲バント:
これも改善して欲しい戦法。「ティームの為に犠牲になる」という全体の為に自己を犠牲にすることを厭わないとの崇高な精神を磨くことを全面的に否定はしない。だが、非科学的な誹りは免れないと思う。ピッチャーの中には「一つのアウトを貰えることは有り難い」と言う者までいる。我が国の野球では戦法の基本が「甲子園でのトーナメント戦を勝ち抜くこと」にあるので、こういうサクリファイス戦法があり、プロのリーグ戦でも固執するのだ。

ベンチには監督しか入れさせず、コーチは認めない:
余りにも非近代的すぎる規制だ。筆者は「朝日と毎日の両新聞社が負担する経費の節約の為にベンチ入りの人数を制限していることと、現在のあらゆる球技ではコーチは分業制であり大人数になるのは当然という時代の変化を、高野連と新聞社が認識できていないことを悲しくも示している」と決めつけている。改善すべきである。監督さんは全知全能であるはずがないのだ。

毒にも薬にもならない事しか言えない解説者:
解説者(説明者という方が正確ではないか)たちは試合をしている監督以下選手たちを貶すとか、批判めいたことは一切言わず、ただひたすら褒めるのにはウンザリさせられる。この点は他の競技でも同様で「解説に呼ばれた過去の名選手たちは、一切批判めいたことを言おうとしないのは、迂闊に同じ世界にいる仲間を貶してしまえば、業界の居場所を失ってしまうのではと恐れているのでは」と、既に指摘してあった。

折角、往年の名選手が解説に来ているのだから、建設的な意見を言うことを封印する必要はないのではないのか。彼等が調子に乗って喋りすぎるのがうるさいこともあるし、ラグビーのDO君のように興奮して応援団の如くになる方がまだ増しかも知れない。NHKにも他局にも考え直して貰いたい事柄だ。

プロの野球界で言いたいことを言えた(言えるだけの格があった)のは、広岡達朗氏と故野村克也氏だけだったと思う。だが、広岡氏は最早何処にも登場されないし、野村氏は故人であるのが残念だ。



コメントを投稿