ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

学校に何ができる?

2024-05-14 08:20:53 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「分析は」5月9日
 公益財団法人「あすのば」代表理事小河光治氏が、『子どもの貧困 実態を直視せよ』という表題でコラムを書かれていました。その中で小河氏は、子供の貧困についていくつかのデータを示されています。
 『朝食を「毎日食べる」小学生は63%、中学生は53%にとどまる』『「毎日は入浴しない」という小中学生も約3割に達する』などです。その中で特に気になったのが、『授業が「いつも・だいたいわかる」との答えは、小学生37%、中学生16%、高校生35%にとどまった』というデータです。
 このデータについての解釈や分析は文中にありません。だから気になるのです。小学生の6割、中学生の8割が授業内容を理解できていないという結果は、衝撃的です。嫌らしいいい方ですが、「昼食は給食があるから助かる」という貧困家庭の子供は、学校を休むことは少ないと思われます。つまり、欠席が学力不振の原因ではないのです。
 貧困によって塾や習い事ができないことが理由なのだとすれば、それは貧困家庭にとどまらず、学校が学力形成というもっとも重要な責務を果たせていないことになります。教員の授業力の向上が急務となります。
 それとも、学校内の人間関係、例えばいじめなどが要因となって授業に集中できないのでしょうか。いつも給食をたくさん食べようとすることをからかわれる、風呂に入っていないので臭いと言われる、いつも同じ服を着ていることでバカにされる、子供の世界では起きやすいことです。それがいじめや無視、仲間外れ等に発展し精神的ダメージを受けるということは十分に考えられることです。
 特に近年の傾向として、スマホなどの保有が小学生にまで広がる中で、経済的理由からスマホを持てない子供が、そのことを理由に人間関係が築けなくなるという状況は十分に考えられます。
 対処法としては、教員の観察眼を磨き、人権感覚を高め、それを学級経営や子供理解、生活指導に生かすことが求められます。教科の授業能力とは少し違う意味で教員力が試されるのです。
 また、中学生で16%にまで落ち込んだ理解率が、高校では倍以上の35%にまで復活することについても、分析が必要なように思います。通常、学年が進むにつれて理解度は下がるものなのですから。もしかしたら、そこに何かヒントが隠されているのかもしれません。
 小河氏は、コラムの中で『教育負担軽減とともに、児童手当の上乗せ支給やひとり親世帯への児童扶養手当の増額』などを求めています。当然の指摘ですが、学校の授業や学校生活における要望には一切触れていません。学校や教員には期待しないということだとすれば悲しいことです。
 文科省や教委は、貧困家庭の子供に対する学校や教員の対応の仕方について、基本的な考え方や指導事例など早急にまとめて示すべきではないでしょうか。
 

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偏見は残っている

2024-05-13 06:50:13 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「語る意味なし?」5月7日
 オピニオン編集部小国綾子氏が、『月経を語ろう』という表題でコラムを書かれていました。その中で小国氏は、『経血はケガレ「洗って捨てる」が社会規範だったのだ』『サニタリーボックスは私が若い頃は「汚物入れ」。「汚物」という表現に疑問すら持たなかった』などと、月経についての過去の見方について触れ、『老若男女が月経を語れば社会が変わる』という、日本福祉大国際学部教授小國和子氏の言葉を紹介しています。
 私自身、小国氏が言う古い見方にどっぷりとつかっていた人間ですので、何も言う資格はありません。ただちらっと頭に浮かんだのは、「精通」についてはどうなんだろうということでした。
 月経と違いSDGsの重要課題ではありませんし、「生理の貧困」のような問題が起きているわけでもありません。性教育でも触れられています。でも、まだ誤解が多いように思うのです。私は指導主事時代に、同業の女性指導主事から、「男性は溜まってくると、出したくなる。それはトイレを我慢できないのと同じ。だから極端に言えばだれが相手でもいいからセックスしようとする。そんなとき、相手の女性はトイレの便器と同じで、自分と同じ人間という感覚ではなくなってしまう」という趣旨の話を聞かされたことがあります。こうした認識をもつ人は少なくないような気がします。でも、こうした認識は正しいのでしょうか。私は強い違和感を覚えるのですが。男はケダモノ、とでもいうこうした見方は。
 昔、純潔教育と呼ばれるものがありました。女性は結婚するまで処女でいるべきと教え込むわけですが、そこでは男は排泄欲、獣欲に支配された生き物だから、警戒してもし過ぎることはない、という考え方が根底にありました。酷い話です。ある意味偏見であり、男性蔑視思想と言ってもよいでしょう。そしてそれは上述した女性指導主事の認識と重なっているのです。こうした偏見は、現在の性教育で正されているのか、私は不十分だと考えています。男女双方が相手を正しく理解することこそ、尊重し合う関係構築の基盤であるはずです。

 

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「契約」に不向き

2024-05-12 08:17:52 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「ギャップは埋まるか」5月5日
 心療内科医海原純子氏が、『すぐやめる新入社員』という表題でコラムを書かれていました。その中で海原氏は、『入社してすぐの退職理由は「条件が入社前の説明と違っている」(略)現在の若者は違いが大きいか小さいか、という問題ではなく、事前に提示された条件と「違う」ことが問題なのだ。雇用契約という観点で考えて、説明が違うのは信用できない企業、という捉え方をする』と書かれています。
 理屈としては理解できます。しかし、若者のこうした傾向は、教員の確保という点から見ると、とても難しい時代を迎えていると判断せざるを得ません。教職は、事前にこうした条件で、ということが約束しにくい職だからです。
 担任している子供が校内でけがをします。担任としてはその日のうちに見舞いに行くことが、保護者や子供との信頼関係を維持するために望ましいのです。しかし、それは勤務時間外にならざるを得ないことが多いのです。入院した病院が少し離れていれば、言って保護者等と話しをしてくるだけで1時間や2時間はすぐにたってしまいます。予定していた約束はキャンセルせざるを得ません。しかも、残業代が出るわけでもありません。
 夜中に子供が帰宅しないという連絡が入ります。寝ていたとしても、直ぐに学校なり、子供の自宅なり、最寄りの警察署なりに出向かなければなりません。帰りは終電もなくなりタクシーで帰ることになります。これも「サービス残業」です。
 休日に、子供が万引きで捕まりました。保護者はパートで店には行けないとのこと。店からの連絡が学校に行き、担任が頭を下げに店に向かいます。休日は台無しですが、「警察でもどこにでも突き出してくれ」というわけにはいきません。
 主に突発的な事故の例ばかりをあげましたが、いずれも私が体験したり、見聞きしたりしたことばかりです。もし、担任している子供に上記のような事故があり、自分が対応できなければ、同じ学年の教員や主任、主幹等が対応することになり、「お世話になりました」と頭を下げなければなりません。勤務時間外も常に待機していなければならないのか、とげんなりする若者もいるかもしれません。
 生身の人間を相手にする、一人一人異なる感じ方や価値観に応じて対応することが求められるため、事前に対応マニュアル的なものによって、「雇用契約」を結ぶことは難しいというのが教職なのです。だからといって、さまざまな状況から勤務時間外でも対応することが望ましいと判断されるときには、手当や代替休業等の保証の有無にかかわらず対応すること、などという「雇用条件」では、教員志願者は激減してしまうでしょう。
 「こんなはずではなかった」「こんなことなら教員になどならなかったのに」という事態を防ぐための手立てはあるのか、大きな研究課題です。

 

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面倒臭いを乗り越えて

2024-05-11 08:52:00 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「さじ加減」5月3日
 論説委員小倉孝保氏が、『喫煙と自由の関係』という表題でコラムを書かれていました。その中で小倉氏は、英下院が、『2009年以降に生まれた人に対し、生涯にわたって電子も含め、販売を禁止する』たばこ販売禁止法案を可決したことを取り上げています。
 小倉氏は、同法案についての政治家の様々な意見を紹介なさっていました。前首相リズ・トラス氏『若者の保護は大切だが、大人の選択に政府が関与すべきでない』、元議長ジェイク・ベリー氏『悪い判断でも、自分で選択できる自由な社会に住みたい』ビクトリア・アトキンス保健相『依存症に自由はない。ニコチンはむしろ選択の自由を奪う』など。
 私は、酒もたばこもギャンブルも趣味としての自動車の運転も、いずれも社会にとって望ましくない行為だと考える石頭です。でも、法で禁止することには賛成しません。禁酒法時代の米国で密造酒が横行し、ギャングの資金源になったことからも明らかなように、ある行為を禁止することでより大きな悪を現出させてしまうことがあるからです。
  私は、学校における生活指導も、禁止事項を増やすというやり方だけでは限界があると考えます。禁止事項が増えれば、その抜け穴を考えたり、解釈を変えて取り締まりを逃れようとしたりする行為が頻発するのは人間というものの性だと考えるからです。それは子供でも変わりはありません。そしてそうしたある意味「卑怯な」行為を考えさせ、実行させるという経験を重ねさせることは、卑しい人間を創り出してしまうことにつながるように思うのです。それは、教育の場である学校にとって相応しい振る舞いではありません。
 もちろん、望ましくない行為を放置してもよい、というのではありません。禁止という規則を押し付けるのではなく、なぜその行為が問題なのかということについて考えさせることを重視し、押し付けではなく教員と子供が議論し合うという形の中で、子供自身が納得して「そんなこと止めた」となることを目指すべきだということです。
 実際には難しいことは分かっています。中学生に飲酒や喫煙を認めることはできません。ただ、禁止という形を取らざるを得ない場合でも、その前段に議論があるべきだと思うのです。
 大人は飲酒喫煙しているのになぜ中学生はダメなのか、校長先生は白髪染めをしているのに生徒が髪を染めてはいけないのはなぜか、授業中のおしゃべりが他人の邪魔になるのは分かるが静かに漫画を読んでいるのがなぜいけないのか、中学生らしい服装をしろというなら好きな私立中学校の制服に似た服装でもいいじゃないか、女性の先生が化粧しているのに女生徒が化粧してはいけないのはなぜ?大人は好きな人とセックスしているのに中学生がダメという理由は?。
 面倒臭いですね。でも、こうした話題について考えることは、教員自身の教育観や子供冠を磨き上げることにもなると考えます。

 

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創造こそ魅力

2024-05-10 08:16:43 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「どう見せるか」5月2日
 『若手のやる気「上司次第」 「挑戦しないと意欲低下」61%』という見出しの記事が掲載されました。『会社の若手社員は、いったい何からモチベーションを得ているのか』をテーマにした三井住友海上の調査結果を報じる記事です。
 記事によると、『若手400人の61.8%が「上司・先輩が挑戦していないとモチベーションが下がる」と感じていた。67%は「挑戦している上司・先輩と働きたい」とも答え、上司のチャレンジ精神を感じている若手の79.5%は、「仕事を通じて成長できていると思う」と回答』しているのだそうです。
 まあ、当たり前の話ではあります。今、学校教育行政では、優秀な教員の確保が大きな課題となっています。自分の身近な先輩にあたる若手教員が生き生きと働いている姿をみれば、教員志望の若者は増えるでしょうし、教職に就いてからも意欲的に職務に取り組みはずですから、結果として教員の質も向上していくというプラスのサイクルが期待できます。つまり、若手教員から見て先輩・上司に当たる教員たちをチャレンジングに働かせることが、教員確保及び質の向上という課題を解決する有効な手立てとなるということです。
 では、実態として、現職の教員たちが「挑戦している」のかと言えば、データはありませんが、教職志望者が減り続けているという状況をみれば、そうはなっていないと推察するのが適当であると言わざるを得ません。他の職と異なり、教職志望者はほぼ全員、教育実習という形で教員の働きぶりを目にしているのですから。
 教育行政は、教職調整額の引き上げ、校務軽減のための補助員等の配置、スクールロイヤーやスクールソーシャルワーカーの配置など、労働環境の整備に努めていますが、そうした対策だけでは効果は期待薄です。やはり、職としての魅力の向上が必要です。それは、「挑戦している」働き方の実現なのだと考えます。
 では、教員にとって「挑戦している」とはどういうことなのでしょうか。学校事務の能率的な処理の仕方や校務の進め方なども教員の大切な職務の一部ではありますが、そこに生きがいや魅力を感じる若手は少ないでしょう。やはり、教員の本務とも言える授業における「挑戦」の姿こそが、若手教員のモチベーションを上げると考えるのが自然です。
 私が新卒教員だったとき、校内には「挑戦」していると思えるような上司も先輩もいませんでした。区内有数のいわゆる「拠点校」であり、運動に熱心な教員は多数いましたが、授業への熱は感じられなかったのです。
 もちろん、今冷静に考えれば、30人に及ぶ教員の中には優れた実践家もいたのかもしれませんが、当時は分かりませんでした。それが普通なのです。なぜなら、教員の本務である授業は、一つ一つ隔離された教室で行われ、他の教員の授業を日常的に見る環境にはないからです。
 私は指導主事になって教委勤務を始めるようになったとき、始業から終業まで役所内で他人の目にさらされた環境で仕事をすることになかなか慣れませんでした。教員時代は、授業が始まってしまえば、多くの場合、他の「大人」の目を意識せずに、授業という職務を遂行していたからです。
 つまり、若手教員が、上司や先輩の授業の工夫=よりよい授業への挑戦を知ることができる環境を作ることが大切なのです。それには、共同で行う授業研究の場を作ることが一番の近道だと考えます。
 私は、区教研や自主的な研究会において、数多くの授業研究に参加してきました。1回の研究授業について、4~5回の事前研究会、当日の参会者との質疑応答、事後の研究冊子にまとめるための打ち合わせなど、1回の授業について6~7回の共同研究の場をもっていたのです。当時の区教研では、年間6回(1年生から6年生各1回)の授業研究がありましたから、年間40回ほどそうした機会をもちました。いずれも放課後です。帰宅が遅くなる辛さはありましたが、両親ほど年の離れた先輩も一緒になって熱く議論し合う経験は、大きな充実感を与えてくれたものです。
 そうした授業についての自主研修で上司や先輩と語り合う、それを教職魅力倍増計画として打ち出してみてはどうでしょうか。

 

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善かれと思ってしたことが

2024-05-09 08:38:29 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「家庭だけの話?」5月1日
 『長時間スマホ 家庭学習が水の泡』という見出しの記事が掲載されました。『スマートフォンやタブレット端末を長時間使う子どもは、家庭学習をいくら頑張っても学力が伸び悩む』という研究結果を報じる記事です。
 かなり衝撃的な内容です。記事によると、『人が何かを学んだり創造したりしているとき、脳内では「思考の脳」と呼ばれる「背外側前頭前野」が働くことが知られている(略)デジタル機器の小さい画面で映像や画像を見ると、この背外側前頭前野の活動が抑制される』『特に動画を見ているときは一点を見つめ、ぼうっとしているときよりも背外側前頭前野の活動が抑えられる』ということだそうです。
 そして細かなデータを示した後に、『スマホ・タブレットの長時間使用は、学力の伸び悩みの直接的な原因になっている』と断じているのです。ここで当然のことながら一つの疑問が浮かびます。学習目的での使用はどうなのか、と。それについても記事では、『使用時間が長くなると偏差値が下がる傾向が見られた。しかも、使用時間が2時間以上になると、家庭学習を3時間以上していても全体の平均に届かなかった』と弊害を指摘しています。
 さらに、『スマホ・タブレットを使ったインターネット接続を習慣化させると、脳の一部の発達が止まってしまうという衝撃的なことも判明した』という記述もありました。私は古いタイプの人間ですから、何となくスマホ・タブレットの「過剰」使用には違和感を覚えていましたが、そんな私でもこの記事の内容にはショックを受けました。と同時に、まさかそこまでひどくはないだろう、と記事の内容を疑いたくなってしまいました。
 それはともかく、この記事を読んで疑問に感じたことがあります。一つはこうした研究結果が、文科省をはじめとする学校関係者に周知されているのか、ということです。万が一、周知が不完全だとしたら、子供に良かれと思ってタブレット端末を使った学習を推進してきたことが、子供の不利益になっているということになりかねません。税金の使い道としても問題ですし、子供の将来にとって取り返しのつかないことになってしまいます。
 次に疑問に感じたのは、記事の中に家庭で~、家庭学習で~という記述が再三出てきますが、学校の授業における使用についての記述がないことです。毎日タブレット端末を使った授業を3時間行っている学校と1時間以下の学校とでは差が生じるのか、といった実験はなされていないようなのです。生物としての人間にとって、タブレット端末を見つめる場所が教室であろうが自宅であろうが変わりはないはず、というのが素人の考えですが、そうした記述はありません。まさか文科省に遠慮したわけではないと思いますが。
 さらに、記事には「映像や画像を見るをみると~」とありますが、その他の使い方の場合の影響については記述がないのです。私は、ほぼ毎日、このブログの原稿をノートパソコンを使って書いています。その間、画面を見つめています。悪影響はないのでしょうか。あるいは、画面上の文章や表・グラフ、年表や系図などを読むという行為に場合はどうなのでしょうか。そうした点が明らかであれば、授業での使い方を工夫することができると思います。
 そして使い方の問題として、時間の長さが問題なのか、連続ということが問題なのか、ということも明確にしてほしいと思いました。毎日連続して2時間使う子供と、10分間使ってはノートにメモし、また10分間使っては、紙に書かれた別の資料を読むというような使い方で合計2時間使っている子供とで差が生じるのか否か、ということです。こうした使い方の問題が明らかになれば、学校における授業における使用法を工夫することができるようになるはずです。
 最後に、研究の対象が「子供」となっていますが、子供だけの問題なのかが不明な点です。小中学生のデータ分析からの結論のようですが、高校生の場合は、大学生は、成人は、さらには高齢者にとっては、とより幅広い調査研究が必要ではないかと感じます。文科省は対象を広げて研究が行えるよう支援を強化してほしいものです。
 あとあまりにも幼稚な疑問で恥ずかしいのですが、画面が小さいことが問題なのかということも気になりました。B4版の大画面なら上記のような弊害はない、なんてことはないのでしょうか。

 

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スタートダッシュだけなら誰にでも

2024-05-08 08:22:49 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「よく分かっていらっしゃる」4月29日
 『高校までに「自己調整力」を』という見出しの記事が掲載されました。『アクティブラーニングや大学改革の研究を通して、大学生や社会人に求められる「資質・能力」を育成するには、「大学からでは時すでに遅し」と訴えるAL研究の第一人者、溝上慎一・元京都大教授』へのインタビュー記事です。
 溝上氏の話されることを読むと、同氏が学校の授業についてよく理解なさっていることが分かりました。まず、『子どもは興味がある課題であれば、前のめりに楽しく勉強できます。好奇心を育てたり、興味を持たせたりする授業をする力は、学校の先生にはあります』という言葉です。
 学校の教員については、一方的に知識を与えるだけの古い授業しかできないなどの的外れな批判をする「専門家気取り」の人が多い中、溝上氏の的確な評価を目にすると、嬉しくなってきます。決して授業力が高いとは言えない教員であった私も、実は「好奇心を育てたり、興味を持たせたりする授業」の実践家でした。
 実際に自動車を分解したり、当時の橋作りの大変さを感じ取らせるために直径60cm以上の丸太を鋸で切らせたり、分業と流れ作業の効率性としんどさを理解させるために班で一口感想に使う用紙づくりをさせたりと、さまざまな工夫をし、「もう一度やりたい!」「休み時間いらないから続けてやりたい」という声を引き出したものです。
 そして私が特に感心したのが、上記の言葉に続く『しかし、今求められているのは、与えられた興味・関心でやる気になる段階から一歩進んで、粘り強く、主体的に学ぶ力です。学習目標を立てて、やる気がない時にでもやる気を出す方略を身につけることや、小さい目標の達成を繰り返して自分を鼓舞するといった「自己調整型」の力と言われています。医学部生を例にとると、膨大な症例を頭に詰め込むことやドイツ語や英語を身につけるのは楽しいことばかりではないと思いますが、将来の職業に必要だから努力することが必要です』でした。
 溝上氏の教員の指導力に関する現状認識を要約すれば、好奇心を育て興味関心をもたせることは大部分の教員ができているが、当初の興味関心が薄れ、困難な壁に直面して学ぶ意欲が萎えかけたときにも、自分でスモールステップ型の目標を立て地道に一つ一つ目標を達成していくことができるような子供を育てる授業は多くの教員ができていない、ということになるでしょう。
 そしてその認識は正しいのです。私自身の経験、指導主事として多くの授業を見てきた経験からしても、導入部分で「びっくり資料」や初めての経験を子供にぶつけ、歓声を挙げさせ、子供の意欲をかき立てることは、少し経験を積み力のある教員であれば、さほど難しいことではありません。しかし、授業の実態を知らない似非専門家は、そうした授業を見て、「子供が生き生きと活動していた」などと称賛してしまうのです。全く教員を馬鹿にした話です。
 私は、授業を独楽に例えます。教員の工夫により、初めは勢いよく回っている独楽も段々と勢いを失い、フラフラしだすのです。放置しておけば、やがて独楽は倒れてしまいます。面白そうだと思って初めはノッていた子供たちが、「難しい」「分かんない」「どうすればいいの」「先生、教えてよ」と自分で解決する自信も意欲も失った状態です。
 独楽が完全に倒れてしまえば、授業は失敗です。一度フラフラし始めた独楽に再び勢いを取り戻させる技を持つか否か、それが平均的な教員とスーパー教員の分かれ目なのです。溝上氏のように、授業の難しさの実態を知る「専門家」が増えてくれれば、学校教育改革も実のあるものになるはずです。

 

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濡れ衣

2024-05-07 07:43:51 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「処分が難しい時代」4月27日
  『米東部 流布疑いの教員逮捕』という見出しの記事が掲載されました。『ボルティモア警察は25日、生成AI技術を使って、勤務先の高校の校長が黒人差別をしたかのような音声を流布したとして、高校の男性体育教員を学校の業務妨害などの容疑で逮捕した』ことを報じる記事です。
 記事によれば、『校長はこの教員が学校の運営資金を不正に流用した疑惑を追及しており、その仕返しだったとみられる』とのことです。『問題になったのは、校長に似た声で「黒人の生徒は不愉快で無能だ」』などの音声で、『校長は一貫して「偽物だ」と主張していたが、騒動になって以降は有給休暇扱いになっていた』そうです。
 怖い話です。そして対岸の火事ではなく、我が国においても、早急に対策が講じられる必要がある事案です。今回の事件では、校長の「偽物だ」という主張、つまり濡れ衣であり事実無根だという主張は受け入れられず、実質的な処分を受け、校長本人も、そしておそらくその家族も、さまざまな非難中傷、嫌がらせや攻撃にさらされてきたはずです。その痛みは、無実が証明されたからといって消え去るものではありません。
 こうした「仕返し」が普通に行われる状況になれば、反発を恐れ、校長など管理職が正当な指揮監督、指導ができなくなる恐れがあります。それは、学校という組織の崩壊であり、公教育が成り立たなくなることを意味します。
 単に教員から校長という図式ではなく、教員間で、子供から教員や校長へ、あるいは保護者から教員や校長へ、さらには教委などの行政機関へと、いくらでも不当な仕返しが起きる可能性があるのです。我が国の公務員に対する処分では、疑いが生じた時点で、この例のように実質的な停職状態に置かれるのが普通です。そして無実が明らかになってもその補償は行われません。まず、こうした制度を見直す必要があります。
 こうしたケースで本人が事実無根を主張する場合、暫定的にその主張を認め、有給休暇など実質的な処分を留保する代わりに、もし事実無根という主張が虚偽だった場合は、さらに重い処分を講じるというシステムが検討されるべきです。
 また、虚偽情報の流布に対する処罰を重くする必要もあります。さらにこれらの対応を並行して、教委やそれを助ける首長部局に、生成AIによる虚偽情報の作成に詳しい専門家の配置を進めることも大切だと考えます。

 

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文学で人間を知る

2024-05-06 08:14:35 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「人間観」4月27日
 読者投稿欄に、岡山県M氏の『「もうけ話」には乗りません』と題する投稿が掲載されていました。75歳のM氏はその中で、『私は「人間は欲深い。もうけ話は他人には教えないもの」との強い思いがあります。勧誘の話は一応聞きますが、金銭絡みになると懇意にしている人でも乗りません』と書かれています。
 全く同感です。かつては、特に疑い深いとか人間不信だとかいうのではなく、これが「常識」だったのです。この「常識」の大本には、シビアな人間観があります。人生観があります。こうした人間観や人生観は、生きる知恵として、学校ではなく、家庭や地域での体験を通して身に着けるものだったのです。
 今、学校では、金融教育や情報教育が行われています。私やM氏は、そんな教育を一切受けてこなかったにもかかわらず、うまい話には眉に唾を付けて聞くという習慣を身に着けているお陰で、詐欺やトラブルを回避します。一方、金融教育を受けた若者が、「絶対もうかる投資術」にころりと騙され、情報操作の恐ろしさを学んでいるはずなのに夢物語のような陰謀論にはまってしまうのです。
 成人年齢が18歳からになり、高校生も保護者の同意なく契約を結ぶことができるようになったことを受けて、解約の手続きやクーリングオフ制度などについて学ぶ消費者教育の必要性が叫ばれていますが、そうした○○教育よりも、M氏が言う「人間は欲深い。もうけ話は他人には教えないもの」という人間観を身に付けさせることこそ、被害を防ぐ効果が高いように思えるのです。
 要は、人間とは、人生とは、という物事の根本について学ばせるということです。ところが学校教育には、分かりやすい善人と悪人は登場しますが、普通の人の中にある「悪」については影が薄いという傾向があります。道徳でも、国語の教材でも、あるいは歴史に登場する人物でも、です。
 普通の人に潜む身勝手や残忍さ、狡猾さや自己保身、そんなものをじっくりと味わうことができる文学作品に読み浸る時間に、金融教育や消費者教育、情報教育の一部を割いてみてはどうでしょうか。

 

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モンスター阻止

2024-05-05 08:47:15 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「本当?」4月27日
 書評欄に、日本総合研究所主席研究員藻谷浩介氏による『「テクノ・リバタリアン 世界を変える唯一の思想」橘玲著(文春新書)』についての書評が掲載されていました。その中に次のような記述がありました。
 『テクノ・リバタリアンとは、「自由を重視する功利主義者のうち、きわめて高い論理・数学的能力をもつ者」であり、その第一世代がイー論・マスクやピーター・ティールなど、第二世代がサム・アルトマンやヴィタリック・ブテリンなどだという。だが「論理・数学的能力」の高さは、多くの場合「共感力」の乏しさと共にあり、自由は平等と、功利主義は民主主義との矛盾をはらむ』です。
 名前が挙げられているのは、旧ツイッターのオーナー、ブロックチェーンの開発者、チャットGPTの開発者など、錚々たるメンバーです。彼らが、テクノ・リバタリアンであることは間違いないでしょう。では、「論理・数学的能力」の高さは、多くの場合「共感力」の乏しさと共にある」というのも間違いがない事実なのか、というのが私の抱いた疑問なのです。
 近年、我が国で行われてきた教育改革は、マスク氏に代表されるような人材を育成することを目指しているという方向性であることは、誰もが納得するでしょう。私はこうした方向性については懐疑的ですが、多くの国民、特に経済界などからは歓迎されています。多勢に無勢、私も諦めています。私の懸念は、感情的なレベルのもので説得力に欠けることは承知しているからです。
 ただ、「論理・数学的能力」と「共感力」の関係が、藻谷氏が指摘されたようなものであるならば、その点についてもっと議論される必要があると考えます。マスク氏が旧ツイッターを手に入れてから矢継ぎ早に打ち出した諸改革には、長年同社の発展に寄与してきた従業員や利用者として成長を支えてきたユーザーに対する思い、「共感力」が欠けていると思われるようなものが少なくありません。それらが、マスク氏個人の性格や資質によるものではなく、テクノ・リバタリアン共通の特性であるとするならば、社会は何らかの手立てを考える必要があると思われます。
 私が考えられるのは、学校教育です。学校教育においてテクノ・リバタリアン育成を目指すのであれば、それと並行して共感力を涵養するようなプログラムを用意する必要があるということです。他者との共同作業を意図的に今まで以上の設定すること、文学や芸術を通して人間理解を深める場を設けること、論理的に考えることと同程度体を動かし体感する体験を織り込むこと、社会的な弱者と接するボランティア体験を拡充することなどが考えられます。
 上記のような活動を、学校教育のどの段階で、どのようにカリキュラムに位置付けていくか、具体的には分かりませんが、早急に研究を始めるべきだと考えます。AIによる自動攻撃兵器の開発や自由に生命を操ることができる生命工学の発展が、人類の将来を不可逆的に変えてしまう時代はすぐそこに来ていると言われています。モンスターを生まないためにも、時間はないはずです。

 

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