資本主義経済が崩壊したら“IT”だけじゃ食べられない…持続可能な社会に欠かせない「農業」
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---------以下リンクより引用---------
近年、いき過ぎた“資本主義経済”を疑問視する声があがる。その背中を押すように注目されているのが、持続可能な社会を目指す「サステナブル」というワードだ。
(中略)株式会社ユーグレナ社長の出雲充氏は、著書のなかで“農業”こそ持続可能な社会の主産業になると解説する。
しかし、これまでの金融資本主義下で伸びているIT産業とは対極にあるかのような農業が、これから成長を遂げていくうえで、どのような価値観の変化が社会に必要とされるのか。
(中略)

◆ 農業と金融資本主義は、相性が最悪
私は、農業こそが、持続可能な社会の主力産業になると考えています。どういうことか説明しましょう。

現在、農業にはあまり脚光が当たっていませんが、それはこれまでの資本主義、特に金融資本主義との相性が最悪だからです。言ってみれば、金融資本主義の対極にあるのが、農業だと言えます。

金融資本主義下で行われている株式の超高速取引は、1秒間に何千回もの取引ができます。一方でたとえばコメは、日本の多くの地域で1年間に1回しか収穫できません。
(中略)超高速取引は1秒間に何千回も取引をすることで、1億円、10億円、100億円と、儲けることができます。農業では、こうしたことは絶対に不可能です。
(中略)

人口と農業生産量は深く関係していて、「人の口」が増えることでしか、農業は成長しないのです。金融の世界とは成長スピードがまったく異なるため、金融資本主義下では、農業は儲からない、ダサい産業となってしまっています。

しかし、金融資本主義が終わったとしたら、どうなるでしょうか。

1億円もっていても、コメやリンゴなどの農産物を食べなければ、人は死んでしまいます。(中略)食料が存在しなければ、人は生きていくことができないのです。

つまり、そもそも、お金よりも、おいしいコメやリンゴのほうに価値がある、と考えることができるはずなのです。

農業に携わる人たちは、日々、身体をフルに使ってコメやリンゴを生産しています。だから、台風などの自然災害で生産物を収穫できなかったときなど、それがどれだけ貴重なものだったかを、身体感覚をともなって実感されます。

その感覚を私たちも共有することが、持続可能な社会では求められるのだと思います。

(中略)
自然の摂理に合わせて生きていく。それこそが持続可能な社会につながるのではないでしょうか。
(中略)

◆ 持続可能な社会に不可欠な「身体性」とは?
持続可能な社会がどういうものなのか、真に理解できる人とできない人がいます。農業や林業、水産業に携わっている人たちは、日々、大自然を相手に自分の身体を使って仕事をしているので理解できます。

他方、金融業やIT関連産業の人たちの仕事には、こうした身体性がともなわないため、それを真に理解するのがなかなか難しいのです。
建物の中に閉じこもり、コンピュータを相手にしながら、数字が数字を生み出し、急増させていく世界にいたら、身体性とは無縁になります。これは致し方ないことです。

一方で、農林水産業を担っている人たちは、台風や集中豪雨、熱波など、気候変動に対する危機意識を強くもっています。それは、自然の真っただ中で働いて、田畑の状態や森の生物、海で捕れる魚介類の変化を、日々、肌で感じているからでしょう。

こうした肌感覚を頼りにするのが、身体性をともなって生きるということです。そのような生き方、仕事のやり方を実践し、持続可能な社会がどういうものなのかを理解している人が過半数にならないと、民主主義では進む道を変更することができません。

(中略)
身体性をともなって働いている農林水産業の人たちは、みんな決まってこう言います。
「私はこの地に、この山に、この海に生かされているんだ。だからどんなことがあっても、ここで生きていく」
身体性をもっている人のベースにあるのは、極めて泥臭い自然への尊敬の念です。
(中略)

人間は、身体性と完全に切り離されては生きていけません。

金融やITで大成功した人たちも、身体性を切り離して指数関数的に発展した後、「いったい何のために、この仕事をやっているのだろうか」とふと思うことがあるのでしょう。その際、生物としての身体性を取り戻し、人間としての価値を再認識したい、と考えるのではないでしょうか。

つまり、自分を見失った人たちが、自分を取り戻すために座禅や瞑想、マインドフルネスに取り組んでいると言ってもいいのかもしれません。

大成功したトレーダーの人たちの中には、自然を求めて移住し、農業や自給自足生活などを始める人たちが少なからずいます。これも同じで、やはり身体性を取り戻したいからではないでしょうか。

ただ、現代社会においては、身体性を切り離しても生きていけると思った人たちが、圧倒的多数になってしまいました。それによって、持続可能ではない社会に変貌を遂げたというのも、また事実なのです。

(後略)
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以上