「滑走屋 ~Making Documentary Film~」を見て連想したものについて今更ながら書く(連想したものについて、つまりレポではない)。

配信から一月以上経ってるというか、もうすぐ二月たつわけで、遅すぎないかと思いつつ、とはいえ書かずに終わらせる踏ん切りもつかず。

所詮このブログは自己満足のためのものだし、と開き直って書くことにした。




見た感想というか、連想したイメージ。それは「るつぼ」だった。

スケーター達が、それぞれ持ち寄った情熱を放ち、融解する。それぞれの個性は消えずに、ただ熱く溶け合って一つになる。

そしてそれは最後にはスケーター達だけではなく、観客も熱く呼応して溶け合っていく。

それが、るつぼの中で溶けて赤く光る金属のように思えたのだ。

そのイメージのまま配信をもう一度見始めると、最初の打ち合わせのオフィスの白く明るくそっけない空間でのショーの構成についてのやりとりが、熱を帯びたものを入れる器を設計しているような印象を受けた。

るつぼというのを検索してみたら、白いものが結構多いみたいである。白い容器を作り、中に材料を入れ、仄暗い空間で熱を与えて溶かし、新たなものを生み出す。

オフィスの白い明るさに、そんな連想をしたのである。


(こんなもの貼ったからって購入する人はいないだろうけど、イメージを持つにはいいと思って)



もっとも、るつぼと違うのは、るつぼの中の物を溶かす熱は外から与えられるが、この滑走屋の熱は、それぞれのスケーターが発しているものだということである。

まずは座長が熱い思いで挑戦する姿を見せ続け、そしてメインスケーター達も(多くは)最初から献身的に動き、その熱がアンサンブルスケーターにも広がって、熱い空間が生まれる。

このドキュメンタリーではメインスケーターのソロは流れない(座長は流れたっけ?)。つまり、ショーに置けるメインスケーターとアンサンブルスケーターの役割の差はそれほど見えない。しかし、このドキュメンタリーを見る限り、メインスケーターとアンサンブルスケーターの間には明らかに没入するタイミングに差があった。

これはおそらく、メインとアンサンブルという役割の差ではなく、メインスケーターの多くがそれなりの数のアイスショーに出演しており、一方アンサンブルスケーターの多くは違うという経験の差から来たのだと思う。皆で集まる練習の前に、予習用のビデオが配られていたそうだけれど、アイスショー経験がある人間は、「このレベルまで持っていくのか?そうとう頑張らないとまずい」と思ったのだろう。一方、経験が少ない人間は、普通のアイスショーのコラボで求められる水準を知らないだけに、「これができるのだろうか?」という強い疑問までは持てなかったのではないかと。


とはいえ、情熱が見えてくるタイミングにズレがあっても、最終的は全員が、それぞれ熱く演技をしていた。おそらく情熱は最初からあったのだ。ただ、一生懸命「教わっている」段階だと、それが他者からは見えないだけで。自己の中にあるものを見せられるようになるタイミングにズレがあっただけなのだろう。

最終的には熱を発し、お互い溶け合い、まとまり、そして観客の熱を引き出してさらに融解する、そんな感じだった。




この、それぞれ個性的なスケーターが個性を保ったまま、なお融解している感じ、これって滑走屋独特のように感じる。

真央ちゃんのBEYONDも、融解する感じはないもんね。見る方がスケーターのそれぞれの個性を意識する必要がない綺麗な群舞と、それぞれが個を出して場を作る場面と、それぞれ状況に応じて個の出し方を変えている印象だった。整っていて、融解というある意味アングラな感じはBEYONDにはなかった。




この「融解する」という感じはなんなんだろう。スケーターの個性がそれぞれ見えるのに、一つであるという感じ。

そんなことをつらつら考えているときに、ふとSNSで目にしたものがあった。内容は、フィギュアスケート競技に置けるアイスダンススピンとペアスピンの違いについてであり、別にアイスショーに関係するものではなかった。ただそれを見て、「そもそも、シングル選手のスピンとカップル競技のスピン自体、大幅に違うよな」ということに気がついたのだ。シングルは自分の体の中心にスピンの軸があるが、カップル競技の場合は二人の間にある。


思う。

「これって当然ながらスケーターの精神に影響するよなあ。」

第一次シングル時代の高橋大輔選手。チームD1SKを作り多くの人との協力体制を築いての競技生活だったが、最終的には自分のパフォーマンス一つに結果がかかっていた。言い換えると自分の精神の軸をしっかりさせることが何より重要という世界。

しかし、カップル競技はそうではない。自分がしっかりしていても相手が違えばうまくいかない世界である。自己の努力と他者の努力を結び合わせ融合させて作り上げていく世界である。


そうか。

アイスダンス転向時の大輔さんの「他者と組む力が必要」という言葉を、私は他者と組む肉体的な技術という意味にとっていたんだけれど。

それだけではなかったのかな。

自分が中心でも他者が中心でもない、二人の結びつきの間に中心があるような状況においても、なお観客を惹きつけられるような精神のあり方、そういうものも身につけたかったのかもしれない。

というか、二人の演者が溶け合い融解するような世界が元々好きなのかもしれない。少年時代からアイスダンスを観ていた人だし。

それに、「大ちゃんは周りを引き上げる」と、倉敷フィギュアスケーティングクラブの佐々木美行コーチは言っていたよね。

他者と一緒に何かを築き上げたいという指向が元々あって。しかしシングル選手の間はそれはまだ蕾のような状態で花開いていなかった。それを花開かせたいと感じての「他者と組む力」という言葉だったのかもしれない。女性と組む力ではなくて、他者と組む力と言ってたもんね。

そしてその指向の本質は、一人の他者と組む、つまりカップル指向ではなく、多くの他者と組む方向だったのかも?と、滑走屋の練習風景を見て思った。つまり、演者それぞれと向かい合い、引き出す力、そういう力が欲しかったのかな。

そして引き出された結果が滑走屋というショーの本番だった?




るつぼ。

溶かされる物の元素は熱で変わったりしない。本質は変わらない。

ただ、るつぼでは物質の化合が行われる。違う元素の物と結びつき、溶解する前の物質とは違う性質の化合物を作り出す。

そんな場を作り、自らも参加者も観客もひとときの変容を感じる。

大輔さんがやりたかったことは(あ、無意識かもしれないけれど)、そういうことだったのかな、と思ったのである。





(全然関係ないですが、うちのチューリップ)