三条天皇陵からは、西大路を下って、北野白梅町から嵐電に乗って宇多野で下車、光孝天皇陵へ向かう。
宇多野駅を下車、住宅街の中を歩くと程なく天皇陵の参道に出た。
ここも訪れる人もほとんどいない静かな空間になっている。京都も観光客でごった返しているので、こういう空間があるのがありがたい。
私の学生時代は、30数年ほど昔になるが、この辺りの下宿から通っている学生も結構いた。
さて、光孝天皇だが、名は時康、父は仁明天皇、母は、藤原沢子であり、陽成天皇の廃位を受けて、884年、55歳で第58代の天皇となった。
親王時代は、中務卿、式部卿、太宰帥、上野太守など親王が任命される官位を歴任し、一品に叙せられる。
55歳という高齢で天皇となったため、在位の期間は3年ほどを短い。
また、後に関白となる藤原基経が政務を補佐していた。
陵墓の近くに所在する御室仁和寺は、光孝天皇の勅願で建てられ始めたもので、その完成を見ずして天皇は崩御している。
それから、光孝天皇も小倉百人一首に選ばれている。
「君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ 」
同じく、小倉百人一首に選ばれている天智天皇の歌とよく似ていると言われる一首ではある。
さて887年に崩御した光孝天皇だが、小松山陵に埋葬されたとされるが、ほどなくして、その所在はわからなくなっており、江戸時代の文久の修陵の際も陵墓として治定されていない。
明治22年(三条天皇陵と同時期)に「天王塚」と称された場所を光孝天皇陵として定めている。
まあ、ここも航空写真で見ると真ん中に円丘があってその周りを方形に堀で囲っている様子であり、これまでも花山天皇陵や三条天皇陵などと同様の様子になっている。
また、この地を光孝天皇の墓所とするのには若干文献とも違っているらしく、本来は仁和寺の東、仁和寺大教院の東北にあると文献に記載されているが、現在の陵は、仁和寺の西南ということで、文献とも一致しない。
そのためか、仁和寺の北北西の位置に御室陵墓参考地が治定されている。
ちなみに平安時代の天皇で墓所がほぼ確実なのは、醍醐天皇、白河天皇、鳥羽天皇、近衛天皇、後白河天皇、六条天皇、高倉天皇しかないそうだ。
あとは、わりと早い段階で所在不明になっているようである。
この後は、再び嵐電に乗車し、次の天皇陵をめざすことにしよう。