*本記事は、映画のストーリーの核心に触れる記述を含みます。
未見の方はご注意されたし。
皆さまはもうご覧になりましたでしょうか?
カンヌで脚本賞を受賞しただけあって、憎らしいくらい良くできた作品ですよね。
YouTubeやSNSでは、観賞後の解釈祭りの様相を呈しています。
登場人物の台詞やシーンの意味をめぐっての。
チラシのタイトル「怪物だーれだ?」の扇情的なコピーも相まって。
かく言うわたし自身も、強い刺激を受けました。
映画は3部構成で、主に①母親(安藤サクラ)の視点、②担任教師(永山瑛太)の視点、そして③湊という男の子(小学5年生)の視点から、同じ時系列の出来事が繰り返し描かれます。
舞台は、大きな湖のある地方都市の小学校、そして郊外にある(依里が見つけた)秘密基地です。
湊は、クラスメイトの依里(男の子)に対して
ある特別な感情を抱いています。
冒頭の駅前雑居ビルの火災シーンは、
3つのパートを識別させる重要なメルクマールとして3回使われるのですが、
湊の内面に生じた性的衝動と、その特別な感情のメタファーとしても機能しているように思われました。
火はもう燃え盛っているわけです、大人にも消せないくらいに。
対岸の火事なんかでは決してなかった。
湊母子に起きた出来事と同じように、私たち観客にとっても。
炎=性的衝動を伴った感情の正体こそ、この映画の真の主人公なのかもしれませんね。
湊の感情のゆくえを、「道ならぬ恋」が成就するや否やをふくめて、ラストで台風一過の朝、
わたし達は目撃することになるわけです。
渦中に巻き込まれ、結果、振り回され、内面を晒される、(湊と依里の)ふたりの親たちや、社会的制裁を受けることになる教師の姿と共に。
湊の父親は亡くなっていて(この分野の悩みの相談相手であるはずの父親の不在)、依里には母親が居ません。
ふたりのクラス担任の保利先生が、新任だと言うのがミソですよね。
他の先生たちは、特に前担任の男性教師が薄々、
湊の感情に気付いている描写のように映りました(彼は、湊の母親が気づいていない様子に意外な表情を浮かべる)。
クラス中に笑われたという湊の作文、
「(大人になったら)シングルマザーになりたい」は、
言葉通りにそのまま受け取って良かったのだと、後で分かり、戦慄が走りました。
湊の母親は、自分への愛情と感謝の表現として、
不器用だけど母想いの優しい子と受け取ります。
音楽教室での、校長(田中裕子)と湊の会話シーンが秀逸でした(記憶で再現してみますね。)
湊「(好きな子がいて)人に言えないから嘘ついてる。」
「幸せになれないって、バレるから」
校長「誰かにしか手に入らないものは幸せとは言わない」
「誰にでも手に入るものを幸せって言うの」
(そこに坂本龍一の「祈り」の曲が重なって)
わたしの解釈はこうです。
「普通こうでしょ」の「ふつう」に依拠した幸せなんて目指さなくていいの。
偶々、社会的性的マイノリティに生まれたとして、幸せを追求する権利は誰にだってある。
ふつうかマイノリティか、そこを超えたところにある「幸せ」を追求しなさいよ。
湊の顔が急に生き生きとして、依里への想いとまっすぐに向き合うと決意したように見えました。
校長先生は、孫の命の教訓と引き換えに、補償行為のようにして、湊の秘密を最後まで守ると決めたのだと思います。
保利先生の処遇は明らかに不条理で、理不尽な、組織の生け贄です。
ですが、彼にも心の救済の道は用意されていました。
湊の失踪後、ふたりの秘密の暗号文(鏡文字)を解読するのは保利先生なのでした。
(唐突ですが、笑)
新米教師の保利先生から、わたしは、
アメリカ禅で言うところの、「ビギナーズ・マインド(初心者の心)」を想い起こしました。
禅では「初心」と言い、目覚めを表すメタファー、
人生を生きるうえでの指針とします。
いわく、「初心者の心には多くの可能性がある」
「しかし専門家と言われる人(熟達者)の心には、それはほとんどありません」
と教えられています。
この「初心」を抱いて、毎朝の行=座禅に臨むのです。
只管打坐と言います。
子供の視点からしたら、ある意味、大人は皆、人間の熟達者のはずです。
個人的には、依里の家の風呂場で、
湊が気絶している依里をバスタブから助け出すシーン(特にふたりの背中の描写)が官能的で、身震いしました。
はじめ不自然にも思いましたが、まだまだ力の弱い湊が、
意識のない、着衣のままズブ濡れの依里の体を救い出すには、
一度自分の体ごと重ねて預けて、自力で外へ這い出ようとするほかないだろうと。
是枝裕和が、本作で描いた唯一の官能的なシーンで、見応えがありました。
湊と依里が見せてくれたビギナーズ・マインドの初々しさの中にこそ、「世界が生まれ変わる」(是枝裕和)ためのヒントが隠されていて、あなたはどうですか?
ありのままの湊と依里を受け入れられますか?
そう問われたように感じ、わたしはバトンを手渡された気がしました。
ジョルジュ・バタイユが言うように、人間のエロティシズムの本質は、禁止を侵犯することにあります。
そして、それは私たち自身の死の観念(死生観)と背中合わせ。
性と死とは、人間としての成熟度が、最も問われる性質のものだと思います。
映画「怪物」も過去の名作と同じように、この古典のテーゼを踏襲しているように、わたしには思われるのでした。
<了>