夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識   第三十五節[主人と従僕の自由、および真の自由]

2024年04月29日 | ヘーゲル『哲学入門』


ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識   第三十五節[主人と従僕の自由、および真の自由]

§35

Diese rein negative Freiheit, die in der Abstraktion von dem natürlichen Dasein (※1)besteht, entspricht jedoch dem Begriff der Freiheit (※2)nicht, denn diese ist die Sichselbstgleichheit im Anders­sein, teils der Anschauung seines Selbsts in andern Selbst, teils der Freiheit nicht vom Dasein, sondern im Dasein über­haupt, eine Freiheit, die selbst Dasein hat. Der  Dienende  ist selbstlos und hat zu seinem Selbst ein anderes Selbst, so dass er im Herrn sich als einzelnes Ich entäußert und aufgehoben ist und sein wesentliches Selbst als ein anderes anschaut. Der  Herr  hingegen schaut im Dienenden das andere Ich als ein aufgeho­benes und  seinen einzelnen Willen als erhalten  an. (Geschichte Robinsons und Freitags.)(※3)

 

第三十五節[主人と従僕の自由、および真の自由]

しかし、自然的な存在を捨て去ることのうちに存在する、この純粋に否定的な自由は、自由の概念とは一致しない。というのも、自由とは他者の存在内における自己同一性であり、一面においては、他の自己のうちに自分自身を直観することであり、一面においては、そこにある存在からの自由ではなく、そこにある存在一般のうちにある自由であり、それは自身の存在をもつ自由である。従僕 は自我をもたず、そうして自己自身に代えて他人の自我をもつのであり、その結果として従僕は、固有の自我としての自分を主人のうちに手放し、自身を主人に預けている。そうして彼本来の自我を他者として見ている。主人はそれとは反対に、自分の自由になる他人の自我を従僕のうちに見るとともに、彼固有の意志が従僕のうちに収まっている のを認めるのである。

(ロビンソン・クルーソーとフライデーの物語)

※1

Diese rein negative Freiheit , die in der Abstraktion von dem natürlichen Dasein
「自然的な存在を捨て去ることのうちに存在する、この純粋に否定的な自由」とは、要するに、我が命さえをも自ら投げ捨てることのできる「自由」のことである。これも確かに「一つの自由」ではあるが、しかし、それは葉隠的な「死の哲学」における自由であり、それを「否定的な自由」としてとらえている点においても、ヘーゲルの哲学は「死の哲学」ではなく「生の哲学」である。

※2
der Begriff der Freiheit   「自由の概念=真の自由」
ここでヘーゲルは「真の自由」すなわち「自由の概念」をどのようなものであると考えているかがわかる。真の自由は「何かを捨て去ること」にあるのではなく「他の存在のうちに自己の存在を保つこと」のうちにある。

※3
「ロビンソン・クルーソー物語」イギリスの作家、ダニエル・デフォーの作品。主人公のロビンソン・クルーソーは船で遭難し孤島に漂着する。その島で生き延びていくなかで出会った原住民の一人フライデーは彼の忠実な従僕となる。主人と従僕の関係の具体的な例として、ヘーゲルはこの物語を取りあげている。「精神の現象学」においても、哲学的な主題の具体的な例としてギリシャ神話や聖書、「ラモーの甥」その他さまざまな文学作品をとり挙げている。

 

 

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飯山陽(あかり)さんを支持する理由について(R6 03/05 日本保守党 記者会見)

2024年04月19日 | 教育・文化

 

R6 03/05 日本保守党 記者会見

 

※20240418追記

 

飯山陽(あかり)さんを支持する理由について

先月の3月5日に、東京第15区の衆議院議員補欠選挙に立候補するにあたって、中東研究者の飯山陽(あかり)氏が日本保守党の江東区支部長に就任することになり、その際に党代表の百田尚樹氏と事務総長の有本香氏の二人を伴って記者会見が開かれました。その動画がYoutubeに上がっていたのでこのマイナーなブログにも共有させていただいておりました。その際に何かコメントを書きたいと思っていましたが、その時間もなかなか取れませんでした。

飯山陽氏にについては、YouTubeを始められた頃から、彼女の見識に触れ、感心してこれまでもそれなりに視聴させていただいていました。その中で、現在のどちらかといえばパレスチナ寄りの日本のアカデミズム界と、それと連携する外務省の一方的で公式的な中東政策、および、それを支えて来られた学者の池内恵氏や篠田英朗氏らに対して、飯山氏は自ら「場末の中東研究者」と称して批判的な見解をこれまでも明らかにされてきました。

私もそうした彼女の考えに少なからず共感してきましたが、しかし、百田直樹氏や有本香氏と飯山氏との接点についてはよく知りませんでした。だから、飯山氏が日本保守党の東京江東区の支部長に就任するというニュースをYouTubeで知って驚きました。

しかし、いずれにせよ飯山陽氏が日本保守党のような政党から出られて、少しでも国家としての日本が一つの家族のような性格を取り戻すのに貢献されるのは賛成ですし、日本国民がさらに一つの家族のようになれば、日本国民の幸せはより深まるだろうと思っています。

もともと日本保守党が生まれたのは、作家の百田尚樹氏とジャーナリストの有本香さんの提唱によるものですが、そのきっかけといえば、自民党が安倍晋三前首相の亡き後に稲田朋美氏や岸田首相らが中心になって国民多数の反対するLGBT法案を強行採決したことでした。

そもそも田中角栄政権以来、自民党は保守党としての性格をすっかり失っていましたが、岸田内閣の成立とLGBT法案などの強行採決によって、リベラル政党としてのその本質をさらにあらわにし始めたといえます。こうした自民党の傾向に対して、これまで自民党を支持してきた保守的な岩盤支持層を旧来より構成してきた人々が、自民党に対して反旗を翻し離反し始めたのだと思います。百田氏や有本氏らの行動はその現れだと思います。

もちろん博士号保持者の飯山陽博士と比較するにはあまりも僭越だと思いますが、私も「場末の哲学研究者」として、日本国の国家理念や政党政治のあり方について、それなりに関心をもち、また私のブログなどにこれまでもその考えを明らかにしてきました。

その中で、かねてより日本国民は「自由にして民主的な独立した立憲君主国家としての日本」を国家の理念として追求すべきだと考えてきましたし、その理念を具体的に実現していくためには、基本的に我が国の政党政治は「保守自由党」と「民主国民党」の二大政党によって担われるべきだと思い、またそのように主張してきました。そのせいもあって、来るべき東京第15区での衆議院議員補欠選挙に、日本保守党から立候補された飯山陽氏の主張には共感できるところも少なくありませんでした。

ところで日本国内の現在の支配的な政治思想は、多かれ少なかれマルクス主義の影響をそれも深刻に受けています。現首相の岸田文雄氏もその一人です。また日本共産党は言うまでもないですし、立憲民主党も「立憲共産党」と揶揄されていることからわかるように、それに引きづられています。

それを例えてみれば、ちょうど兄弟姉妹のたくさんいる大家族があったとします。そのうちのある一人が、長男が祖父母から譲り受けた田んぼとその屋敷を見て、自分にもなぜ遺産分けしてくれないといって、長男や祖父母に対して恨み憎しんでやまず、兄弟姉妹たちに対して家族の中でもいつも喧嘩腰の態度でいるようなものです。また、祖父は中国で悪いことをしたと、頭から信じ込んで祖父の置かれたさまざまな事情に思い至ることもありません。これではこの家族の中にはいつまでたっても和やかな家族愛は育まれることはないでしょう。

リベラルや共産主義の考え方や行動は、また、その源はマルクスの国家観や歴史観、それは階級闘争史観といわれていますが、その実際はこのようなものだと思います。私が今回の東京第15区の衆議院議員補欠選挙で、立憲民主党やその他の候補者ではなくて、日本保守党の飯山陽氏を支持するのも以上のような理由からです。

R6 03/05 日本保守党 記者会見 - 作雨作晴 https://is.gd/ZuayDw

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識   第三十四節[自由よりも生命をえらぶ従僕]

2024年04月18日 | ヘーゲル『哲学入門』

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識   第三十四節[自由よりも生命をえらぶ従僕]

§ 34

Indem von zwei einander gegenüberseienden Selbstbewusstsein jedes sich als ein absolutes Fürsichsein(※1)gegen und für das andere zu beweisen und zu behaupten streben muss, (※2) tritt dasjenige in das Verhältnis der Knechtschaft, welches der Freiheit das Leben vorzieht  und damit zeigt, dass es nicht fähig ist, durch sich selbst von seinem sinnlichen Dasein(※3) für seine Unabhängigkeit zu abstrahieren.(※4)

第三十四節[自由よりも生命をえらぶ従僕]

互いに対立して存在する二つの自己意識は、反対するにせよ賛同するにせよ、それぞれが一個の絶対的な自覚的な存在として、自己を他者に対して証明し主張するよう努めなければならないから、自由よりも生命を選び、その結果として自己の独立性のために自分の肉体的な存在を捨て去ることのできない自己意識は隷従の関係に置かれることになる。

 

※1
 ein absolutes Fürsichsein 一つの絶対的な「自覚的な存在」。意識の自己分裂の結果、自己を自己として自覚する。「独立的な存在」「自立的な存在」とも訳せる。

※2
自己意識は他の自己意識との対立を通して自己を確認する。

※3
「sinnlichen Dasein 感覚的なそこにある存在、肉体的な存在」
それぞれの「自己意識」の承認をめぐる闘争において、自由のために肉体的生命をすてることのできないものは、隷従の立場に陥る。

※4
これまでの叙述の展開からも分かるように、ヘーゲルの処女作『精神の現象学』で詳細に考察された意識の進展が、この哲学入門の第二課程の「精神現象論」おいて簡潔に叙述されている。意識は、「1、感性的意識」から「2、知覚」へと、さらに「3、悟性」をへて「自己意識」に至る。「自己意識」は「欲望」を経て、この第三十四節で「自己意識」は他の自己意識との関係に入る。それは対立的な関係であり「支配と隷従の関係」である。この過程をへて自己意識は第三段の「理性」に至る。

 

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級 第二段 自己意識 第三十三節[主人と従僕の関係の発生]

2024年04月11日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識   第三十三節[主人と従僕の関係の発生]

§33

Aber die Selbstständigkeit  ist die Freiheit nicht sowohl  außer  und von dem sinnlichen, unmittelbaren Dasein, als vielmehr in demselben. Das eine Moment ist so notwendig, als das andere, aber sie sind nicht von demselben Werte.(※1)

第三十三節[主人と従僕の関係の発生]

しかし、自立するということは外部にあって 肉体的な直接的にそこにあるものから自由であるということではなく、むしろ内面における自由である。一つの契機は他の契機と同じように必然的なものであるが、しかし、それらの価値については同じではない。

Indem die  Ungleich­heit  eintritt, dass dem einen von zweien Selbstbewusstsein die Freiheit gegen das sinnliche Dasein, dem andern aber dieses gegen die Freiheit als das Wesentliche gilt, so tritt mit dem gegenseitigen Anerkanntwerdensollen in der bestimmten Wirk­lichkeit das Verhältnis von Herrschaft  und Knechtschaft  zwi­schen ihnen ein; oder überhaupt des Dienstes  und Gehorsams, insofern durch das unmittelbare Verhältnis der Natur (※2) diese Verschiedenheit der Selbstständigkeit vorhanden ist.

二つの自己意識のうちの一方は、肉体的な存在よりも自由を本質的なものとみなし、もう一方はそれに対して、自由よりも肉体的な存在を本質的なものとみなすという 不平等の  生じることから、お互いが認められたいという特定の現実のなかにおいては、両者のあいだに主人と従僕の関係が生まれてくる。言いかえれば、自立することについて、生まれつきの直接的な関係を通してこの区別が存在するかぎりは、奉仕服従 の関係が一般に生まれてくる。

 

※1
Das eine Moment ist so notwendig, als das andere
「一つの契機は他の契機と同じように必然的である」
私たちの自由には、「精神面の自由」と「肉体面の自由」があるということである。いずれの自由も人間にとって必然的なものであるが、いずれに価値を見出すかは同じではない。

※2
durch das unmittelbare Verhältnis der Natur
「生まれつきの直接的な関係を通して」
自然の世界においては、諸動物の間に典型的に見られるように、また人間の場合においてもそうだが、能力、素質、環境、遺伝などの側面において、剥き出しの不平等、区別が存在する。その結果として弱肉強食の関係が、主人と従僕の関係が生まれる。

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級 第二段 自己意識 第三十二節 [他者による「私」の自由の承認]

2024年03月30日 | ヘーゲル『哲学入門』

ヘーゲル『哲学入門』 中級 第二段 自意識 第三十二節[他者による「私」の自由の承認]

§32

Um sich als freies geltend zu machen und anerkannt zu werden, muss das Selbstbewusstsein sich für ein anderes als frei vom natürlichen Dasein darstellen. Dies Moment ist so notwendig, als das der Freiheit des Selbstbewusstseins in sich. (※1)Die absolute Gleichheit des Ich mit sich selbst ist wesentlich nicht eine unmit­telbare, sondern eine solche, die sich durch Aufheben der sinn­lichen Unmittelbarkeit dazu macht und sich damit auch für ein anderes als frei und unabhängig vom Sinnlichen. (※2)So zeigt es sich seinem Begriff gemäß und muss, weil es dem Ich Realität gibt, anerkannt werden.(※3)

第三十二節[他者による「私」の自由の承認]

自己を自由なもの として主張し、また認められるためには、自己意識は他者に対しても自然的な(必然性に支配された)存在から自由なものとして  自らを示さなければならない。この要素は自己意識の内部における自由と同じように必然的なものである。「私」と自己自身との絶対的な同一性というのは本質的に直接的なもの(媒介のないもの)ではなく、むしろ感覚的な直接性を揚棄することを通して同一性を実現するようなものである。そうして、また他者に対しても自己が感覚的なものに依存しない自由なものであることを明らかにする。かくして自己意識は自らが自己の概念にふさわしいものであることを示し、かつ他者からも自己意識は自由なものとして認められなければならない。なぜなら、そのことによって「私」に(自由の)実在性が与えられるからである。


※1
自己意識の概念とは、自己意識つまり「私」が自由である、ということである。個人が自由であることを自ら主張し、他者からも自由であることが認められるためには、第一に、自己自身の内部において自由であることを示すのみならず、第二に、他者に対しても自らが自然的な定在からも自由なものであること(als frei vom natürlichen Dasein)を明らかにしなければならない。この二つの要素は自己意識が自由であることを証明する上で、必然的なものである。

※2
「私」の自己自身との絶対的な同一性ということは、自己意識が二つに分裂していることによって生じるものであるが、それは直接的なもの(媒介のないもの)ではなく、つまり、自己意識そのものの「反省 Reflexion」を通して、「私は私である」という同一性が明らかになる。
感覚的な直接性を揚棄することを通して(durch Aufheben der sinn­lichen Unmittelbarkeit )というのは、たとえば「眼の前にあるチョコレートを食べるか食べないか、いったん欲望を中断して」ということである。

※3
自己意識、すなわち「私」がその概念にふさわしい「自由な存在」であることの実在性を得るためには、他者からもそのように認められなければならない。「私」が本質的に社会的な存在であるからである。

 

 

 

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同性パートナーは「犯罪被害給付金の支給を受けられる遺族」に該当するか。

2024年03月28日 | 教育・文化

 

令和6年3月26日に、「同性パートナーは「犯罪被害給付金の支給を受けられる遺族」に該当するか。」をめぐって、最高裁において下記のような判決が下されました。

この最高裁の判決は、下級審である名古屋高等裁判所において、原告が「婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者」に該当すると主張して、遺族給付金の支給の裁定を申請したところ、愛知県公安委員会から、平成29年12月22日付けで、上告人は上記の者に該当しないなどとして、遺族給付金を支給しない旨の裁定を受けたことに対して最高裁に上告していたものに対して下されたものです。

この最高裁の判決の多数意見に対する私の意見は、結論から言えば、当判決の中で反対意見を述べられている裁判官の今崎 幸彦氏の意見に同意するもので、さらに付け加えれば、以下の理由からも、私はこの最高裁結審における多数意見に反対するものです。

最高裁の審理差し戻し判決の主たる理由は「「婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者」に該当するか否かについて、更に審理を尽くさせるため、本件を原審に差し戻すこととする」とするものです。要するに、「同性パートナー」関係が、事実上「婚姻関係と同様の事情にあった者に該当しない」と判断した名古屋高裁の判決に対して、問題があるからさらに審理を尽くせと差し戻したものです。

それでは最高裁は名古屋高裁の判決の何を問題としたのでしょうか。最高裁のこの多数意見は「「犯給法」が犯罪被害等 を受けた者の権利利益の保護が図られる社会の実現に寄与することを目的とするものであり、犯罪被害者等給付金の支給制度の目的が、その改正によって、犯罪被害者等給付金の支給制度の拡充が図られたことから、被害者給付金の対象を広く解釈すべきだ」と判断し、同性パートナーに対しても、被害者給付金の対象とすべきだとするものです。

しかし、この最高裁の判決による審理差し戻しによっては、「同性パートナー」を現行憲法の「婚姻関係」とみなすという、事実上の違憲判断を行なうことになります。「犯給法」という下位法の法改正目的などを理由として、憲法および民法の上位法の改正手続きも無視したまま、現行法の通説に反する誤った違憲判断を事実上行なわせることになるからです。

問題は最高裁判所の判事たちの「多数意見」が、事実上「違憲判断」であるとみられるとき、あるいは最高裁判所の判決が、国民多数の意見、意識、または常識などに反する場合にはどうすべきか、ということです。「違憲立法審査権」の申し立てや、最高裁判所裁判官に対する国民審査という制度もありますが、なかなか実効的な制度ではないようです。そうした事後的な制度ではなく、最高裁判所裁判官の選出にももっと事前に国民が参画できるような制度改革はできないものでしょうか。

以下引用

>>  <<

言渡 令和6年3月26日

 

交付 令和6年3月26日

裁判所書記官

令和4年(行ツ)第318号

令和4年(行ヒ)第360号

判決

当事者の表示 別紙当事者目録記載のとおり

上記当事者間の名古屋高等裁判所令和2年(行コ)第23号犯罪被害者給付金不支給裁定取消請求事件について、 同裁判所が令和4年8月26日に言い渡した判決に対し、上告人から上告があった。よって、当裁判所は、次のとおり判決する。

主文

原判決を破棄する。

本件を名古屋高等裁判所に差し戻す。

理由

上告代理人〇〇〇〇ほかの上告受理申立て理由について

1 原審の確定した事実関係等の概要は、次のとおりである。

(1) 犯罪被害者等給付金の支給等による犯罪被害者等の支援に関する法律(昭和55年法律第36号。以下「犯給法」という。)は、3条において、国は、犯罪被害者(2条3項所定の犯罪被害者をいう。以下同じ。)又はその遺族(所定の者を除く。)に対し、犯罪被害者等給付金を支給する旨を規定し、4条1号において、そのうち遺族給付金は、犯罪行為(2条1項所定の人の生命又は身体を害する罪に当たる行為をいう。以下同じ。)により死亡した者の第一順位遺族に対し、一時金として支給する旨を規定している。

犯給法5条1項は、遺族給付金の支給を受けることができる遺族の範囲について、犯罪被害者の死亡の時において、「犯罪被害者の配偶者(婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者を含む。)」(同項1号)、「犯罪被害者の収入によって生計を維持していた犯罪被害者の子、父母、孫、祖父母及び兄弟姉妹」(同項2号)、「前号に該当しない犯罪被害者の子、父母、孫、祖父母及び兄弟姉妹」(同項3号)のいずれかに該当する者とする旨を規定し、同条3項は、遺族給付金の支給を受けるべき遺族の順位について、上記各号の順序とする旨を規定している。

(2)上告人 (昭和50年生まれの男性)は、平成6年頃に昭和37年生まれの男性(以下「本件被害者」という。)と交際を開始し、その頃から同人と同居して生活していたところ、同人は、平成26年12月22日、第三者の犯罪行為により死亡した。

 

(3)上告人は、平成28年12月12日、本件被害者の死亡について、上告人は犯給法5条1項1号括弧書きにいう「婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者」に該当すると主張して、遺族給付金の支給の裁定を申請したところ、愛知県公安委員会から、平成29年12月22日付けで、上告人は上記の者に該当しないなどとして、遺族給付金を支給しない旨の裁定を受けた。

2 本件は、上告人が、被上告人を相手に、上記裁定の取消しを求める事案である。

3 原審は、上記事実関係等の下において、要旨次のとおり判断した上で、犯給法5条1項1号が憲法14条1項等に反するとはいえないとして、上告人の請求を棄却すべきものとした。

犯給法5条1項1号は、一次的には死亡した犯罪被害者と民法上の婚姻関係にあった配偶者を遺族給付金の受給権者としつつ、死亡した犯罪被害者との間において民法上の婚姻関係と同視し得る関係を有しながら婚姻の届出がない者も受給権者とするものであると解される。そうすると、同号括弧書きにいう「婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者」は、婚姻の届出ができる関係であることが前提となっていると解するのが自然であって、 上記の者に犯罪被害者と同性の者が該当し得るものと解することはできない。

4 しかしながら、原審の上記判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。

(1)犯給法は、昭和55年に制定されたものであるところ、平成13年法律第30号による改正により目的規定が置かれ、犯罪被害者等給付金を支給すること等により、犯罪被害等(犯罪行為による死亡等及び犯罪行為により不慮の死を遂げた者の遺族が受けた心身の被害をいう。以下同じ。)の早期の軽減に資することを目的とするものとされた(平成20年法律第15号による改正前の犯給法1条)。その後、平成16年に、犯罪等により害を被った者及びその遺族等の権利利益の保護を図ることを目的とする犯罪被害者等基本法が制定され(同法1条)、基本的施策の一つとして、国等は、これらの者が受けた被害による経済的負担の軽減を図るため、給付金の支給に係る制度の充実等必要な施策を講ずるものとされた (同法13条)。そして、平成20年法律第15号による改正により、犯給法は、犯罪行為により不慮の死を遂げた者の遺族等の犯罪被害等を早期に軽減するとともに、これらの者が再び平穏な生活を営むことができるよう支援するため、犯罪被害等を受けた者に対し犯罪被害者等給付金を支給するなどし、もって犯罪被害等を受けた者の権利利益の保護が図られる社会の実現に寄与することを目的とするものとされた (1条)。また、平成13年法律第30号及び平成20年法律第15号による犯給法の各改正により、 一定の場合に遺族給付金の額が加算されることとなるなど、犯罪被害者等給付金の支給制度の拡充が図られた。

以上のとおり、犯罪被害者等給付金の支給制度は、犯罪行為により不慮の死を遂げた者の遺族等の精神的、経済的打撃を早期に軽減するなどし、もって犯罪被害等 を受けた者の権利利益の保護が図られる社会の実現に寄与することを目的とするものであり、同制度を充実させることが犯罪被害者等基本法による基本的施策の一つとされていること等にも照らせば、犯給法5条1項1号の解釈に当たっては、同制度の上記目的を十分に踏まえる必要があるものというべきである。

(2)犯給法5条1項は、犯罪被害者等給付金の支給制度の目的が上記(1)のとおりであることに鑑み、遺族給付金の支給を受けることができる遺族として、犯罪被害者の死亡により精神的、経済的打撃を受けることが想定され、その早期の軽減等を図る必要性が高いと考えられる者を掲げたものと解される。

そして、同項1号が、括弧書きにおいて、「婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあった者」を掲げているのも、婚姻の届出をしていないため民法上の配偶者に該当しない者であっても、犯罪被害者との関係や共同生活の実態等に鑑み、事実上婚姻関係と同様の事情にあったといえる場合には、犯罪被害者の死亡により、民法上の配偶者と同様に精神的、経済的打撃を受けることが想定され、その早期の軽減等を図る必要性が高いと考えられるからであると解される。しかるところ、そうした打撃を受け、その軽減等を図る必要性が高いと考えられる場合があることは、犯罪被害者と共同生活を営んでいた者が、犯罪被害者と異性であるか同性であるかによって直ちに異なるものとはいえない。

そうすると、犯罪被害者と同性の者であることのみをもって「婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者」に該当しないものとすることは、犯罪被害者等給付金の支給制度の目的を踏まえて遺族給付金の支給を受けることができる遺族を規定した犯給法5条1項1号括弧書きの趣旨に照らして相当でないというべきであり、また、上記の者に犯罪被害者と同性の者が該当し得ると解したとしても、その文理に反するものとはいえない。

(3)以上によれば、犯罪被害者と同性の者は、犯給法5条1項1号括弧書きにいう「婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者」に該当し得ると解するのが相当である。

5 以上と異なる原審の判断には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。 論旨は理由があり、上告理由について判断するまでもなく、原判決は破棄を免れない。そして、上告人が本件被害者との間において「婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者」に該当するか否かについて、更に審理を尽くさせるため、本件を原審に差し戻すこととする。

よって、裁判官今崎幸彦の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。なお、裁判官林道晴の補足意見がある。

裁判官林道晴の補足意見は、次のとおりである。

私は、多数意見に賛同するものであるが、さらに以下の点を敷衍しておきたい。

犯給法5条1項1号括弧書きが遺族給付金の支給を受けることができる遺族の範囲を規定するものであることからすれば、同号括弧書きにいう「事実上婚姻関係と同様の事情にあった者」の解釈は、その文理に加え、遺族給付金等の犯罪被害者等給付金の支給制度の目的を踏まえて行うことが相当である。多数意見が説示するとおり、同制度の目的は、犯罪行為により不慮の死を遂げた者の遺族等の精神的、経済的打撃を早期に軽減するなどし、もって犯罪被害等を受けた者の権利利益の保護が図られる社会の実現に寄与することにあるのであり、犯罪被害者等基本法における同制度の位置付けや同制度が上記目的を達成するために拡充されてきた経緯等に照らしても、同制度の目的は重要というべきであって、これを十分に踏まえた解釈をすべきである。

そして、犯罪被害者等給付金の支給制度の目的に照らせば、犯罪被害者と同性の者であっても、犯罪被害者との関係、犯罪被害者と互いに協力して共同生活を営んでいたという実態やその継続性等に鑑み、犯罪被害者との間で異性間の内縁関係に準ずる関係にあったといえる場合には、異性間の内縁関係にあった者と同様に犯罪被害者の死亡により精神的、経済的打撃を受けるものと考えられるから、上記文言に該当するものとして、遺族給付金の支給を受けることができる遺族に含まれると解するのが相当である。なお、反対意見が指摘するように、犯罪被害者等給付金は損害を填補する性格を有するものであるものの、それにとどまるものではなく、同制度が早期に軽減を図ろうとしている精神的、経済的打撃は、加害者に対して不法行為に基づいて賠償請求をすることができる損害と厳密に一致することまでは要しないものと解されるが、上記の場合には、少なくとも加害者に対する不法行為に基づく慰謝料請求はすることができるものと解してよいように思われる。

多数意見は、その説示から明らかなとおり、飽くまでも犯罪行為により不慮の死を遂げた者の遺族等への支援という特有の目的で支給される遺族給付金の受給権者に係る解釈を示したものである。上記文言と同一又は類似の文言が用いられている法令の規定は相当数存在するが、多数意見はそれらについて判断したものではない。それらの解釈は、当該規定に係る制度全体の趣旨目的や仕組み等を踏まえた上で、当該規定の趣旨に照らして行うべきものであり、規定ごとに検討する必要があるものである。

裁判官今崎幸彦の反対意見は、次のとおりである。

私は、多数意見と異なり、本件上告は棄却すべきであると考える。その理由は以下のとおりである。

1 犯給法は、犯罪行為により不慮の死を遂げた者の遺族等の犯罪被害等を早期に軽減するとともに、これらの者が再び平穏な生活を営むことができるよう支援するため犯罪被害者等給付金を支給することとし(1条)、重傷病給付金、障害給付金と並べて遺族給付金を規定している(4条)。

遺族給付金の支給額は、政令により算定される基礎額に、「遺族の生計維持の状況を勘案して」政令で定める倍数を乗じて得た額とされている(9条1項)。このことは、遺族給付金が犯罪被害者遺族の生活保障を意識して設計されたものであることを示している。 他方、支給される遺族の範囲として、犯罪被害者の収入によって生計を維持していたことを要件としていないこと(5条1項) など、必ずしも遺族の生活保障の性格とは整合しない規定も置かれている。

また、労働者災害補償保険法による給付等や損害賠償を受けたときはその価額の限度において支給しないとする一方(7条、8条)、犯罪被害者が死亡前に負担した療養費用等について支給額を加算する規定を置いている(9条5項) ところなどは、遺族給付金が損害の填補としての性格を有していることを示すものといえる。もっとも、前述のとおり支給額はあくまでも法及び政令に従って機械的に算出された額であり、実損害に一致させることとはしていない。

2 犯罪被害給付制度については、福祉政策、不法行為制度の補完、刑事政策の要素も含みながら、犯罪被害者の現状を放置しておくことによって生じる国民の法制度全体への不信感を除去することを本質とするなどと説明されている。

 

ややわかりにくい説明との印象をぬぐえないのは、犯罪被害給付制度が各種政策の複合的な側面を持つすぐれて政策的色彩の強い制度であり、それゆえに国の一般 会計に財源を求める給付金も特殊な意味付けがされていることによるものであろう。このように、厳密な意味での遺族給付金の性質となると一口ではいい表し難いものがあるが、上述した一連の規定をみる限り、必ずしも徹底してはいない部分はあるものの、犯給法は、遺族給付金が犯罪被害者遺族に対する生活保障と損害の填補という2つの機能を十全に果たすことを通じ、上述したような制度の趣旨、ひいては法の目的が達せられることを期待しているものといってよいと思われる。

3 以上を前提に、まずは生活保障という観点からみた場合について述べる。前述したとおり、犯給法は遺族給付金の支給対象となる遺族について、被害者によって生計を維持することを要件としていないが(5条1項)、「子、父母、孫、祖父母及び兄弟姉妹」(以下「子ら」という。)については、犯罪被害者の収入によって生計を維持していた者をそうでない者よりも先順位としている(2号)。

そのため、仮に1号にいう「犯罪被害者の配偶者(婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者を含む。)」に同性パートナー(「パートナー」の定義自体が一つの問題であるが、ここでは取りあえず「婚姻関係にある男女間と同様の事情にある共同生活者」という意味で用いる。) が含まれるとすると、それまで犯罪被害者の収入によって生計を維持していた子らは同性パートナーに劣後し、支給対象から外れることとなる。なるほど多数意見は遺族給付金の支給対象となる遺族の範囲を広く解するものであり、その意味では犯罪被害者にとり歓迎されるべきものであろう。しかし、その一方で、犯罪被害者相互の間に、潜在的にせよ前述のような利害対立の契機をもたらすものでもある。こうした結果が遺族を含めた総体としての犯罪被害者の社会的ニーズに応えるものであるかは、犯給法の解釈上重要な考慮要素と思われる。事が犯罪被害者の収入に依存していた子らの生活保障にかかわることであってみればなおさらである。そうであれば、まずはこうした犯罪被害給付制度の視点に立った論証が求められるはずである。

4 遺族給付金には損害填補の性格があることについても前述した。犯給法上同性パートナーに遺族給付金が支給されるという解釈を採るのであれば、犯罪被害者の同性パートナーが加害者に対し損害賠償請求権を有することが前提となるはずである。

私は、同性パートナー固有の権利として、精神的損害を理由とした賠償請求権については、もとより事案によることではあるが、認める余地があると考えている。しかし、財産的損害、とりわけ扶養利益喪失を理由とする損害賠償請求権については、民法752条の準用を認めない限りにわかに考え難いというのが大方の理解であろう。そうであるとすれば、犯罪被害者の同性パートナーに認められる損害賠償請求権は、仮に認められるとしても異性パートナーに比べて限定されたものとなる。それにもかかわらず、多数意見の見解によれば、同性パートナーは異性パートナーと同視され、同額の遺族給付金を支給されることになる。遺族給付金が損害填補の性格を有することを考えると、前提となる民事実体法上の権利との間でこのようなギャップが生じることは説明が困難と思われる。

5 社会への影響という観点からは、多数意見による犯給法の解釈は、他法令の解釈運用への波及の有無という観点から更に難しい問題をはらむ。

犯給法5条1項1号の「婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者」と同一又は同趣旨の文言が置かれている例は少なくないが、そうした規定について、多数意見がいかなる解釈を想定しているかも明らかでない。個別法の解釈であり、犯給法と異なる解釈を採ることも可能と考えられるとはいえ、犯給法の解釈が他法令に波及することは当然想定され、その帰趨次第では社会に大きな影響を及ぼす可能性がある。現時点で、広がりの大きさは予測の限りではなく、その意味からも多数意見には懸念を抱かざるを得ない。

6 結論として、犯罪被害者と同性の者は犯給法5条1項1号括弧書き所定の者に該当し得るとする多数意見の解釈には無理があるといわざるを得ない。多数意見は、犯罪被害者の死亡により精神的、経済的打撃を受け、その軽減を図る必要性が高いと考えられる場合があることは、犯罪被害者と共同生活を営んでいた者が異性であると否とで異なるものではないとしている。私は、これに異を唱えるつもりはないが、そのことと、犯給法の規定がそうした理念を矛盾なく取り込める造りになっているかは別問題である。

7 なお、多数意見は、上告人が本件被害者との間において「婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者」に該当するか否かについて審理を尽くさせるために原審に差し戻すとする一方で、「事実上婚姻関係と同様の事情」という要件の中身については何も語らない。しかし、単なる同性同士の共同生活と何が異なるのかと考えてみたとき、それは決して自明ではないように思われる。婚姻は男女間のものとして歴史的にも法的にも観念されてきたのであり、同性同士の関係にも同様の法的保護を及ぼすという考えは最近のものである。同性同士の関係において何をもって 「事実上婚姻関係と同様の事情」と認めるかは、私はそれほど簡単に答えの出せる問題ではないと考えている。

この懸念が当たっているか否かはさて措くとしても、同性同士の関係における「事実上婚姻関係と同様の事情」は、多数意見によって新たに提示された概念であって、その中身を明らかにすることは、犯給法の条文の法令解釈にほかならないことを踏まえると、原審に差し戻すに当たっては、多数意見の考える解釈に従い、「事実上婚姻関係と同様の事情」の考慮要素を具体的に明らかにすべきであったと考える。

8 今回争点となった犯給法の解釈は、同性パートナーシップに対する法的保護の在り方という大きな論点の一部でもある。この論点は、社会におけるその位置付けや家族をめぐる国民一人一人の価値観にもかかわり、憲法解釈も含め幅広く議論されるべき重要な問題である。犯給法をめぐる検討も、そうした議論の十分な蓄積を前提に進められることが望ましかったことはいうまでもない。しかし、私の知る限り、そのような議論の蓄積があるとはいい難く、そのため、同性パートナーシップを現行法体系の中にどのように位置付けるか、他の権利や法的利益と衝突した場合にいかなる調整原理を用いるのかといった解釈上重要な視点はいまだ明らかとはいえない。そうした中で、個別法の解釈として同性パートナーへの法的保護の在り方を探る試みには相応の困難が避けられない。今後の立法や判例学説の展開により、近い将来新たな解釈や理解が広く共有され、多数意見の合理性を裏付けていくということはあり得ると思うが、現時点においては、先を急ぎすぎているとの印象を否めない。

以上の理由から、私は、同性パートナーは犯給法5条1項1号の「犯罪被害者の配偶者(婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者を含む。)」に該当しないと解するべきであると考える。そして、これまで述べたところによれば、このように解される同号が憲法14条に反するということもできない。したがって、以上と同旨の原判断は是認することができるから、本件上告は棄却すべきである。

最高裁判所第三小法廷

裁判長裁判官 林 道晴

裁判官 宇賀 克也

裁判官 長嶺 安政

裁判官 渡邉 惠理子

裁判官 今崎 幸彦

 

>>  <<

参考

名古屋高等裁判所「犯罪被害者給付金不支給裁定取消請求控訴事件」

裁判年月日    令和4年8月26日

裁判所名・部  名古屋高等裁判所  民事第4部

結果       棄却

判決全文  https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/434/091434_hanrei.pdf

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級 第二段 自己意識 第三十一節 [自己と他者の自由について]

2024年03月16日 | ヘーゲル『哲学入門』

久しぶりのアップロード。いつ辿り着くか。

ヘーゲル『哲学入門』 中級 第二段 自意識 第三十一節[自己と他者の自由について]

§31

Diese Selbstanschauung (※1)des einen im andern ist 1) das abstrakte Moment (※2)der Diesselbigkeit. 2) Jedes hat aber auch die Bestim­mung, für das andere als ein äußerliches Objekt und insofern unmittelbares, sinnliches und konkretes Dasein zu erscheinen. (※3)3) Jedes ist absolut für sich und einzeln gegen das andere und fordert auch für das andere als ein solches zu sein und ihm dafür zu gelten, seine eigene Freiheit als eines fürsichseienden (※4)in dem andern anzuschauen oder von ihm anerkannt zu sein. (※5)


第三十一節[自己と他者の自由について]

ある者が他者の中に自己を見るというこの自己直観は、1) この自他同一性の抽象的な境界である。 2) しかし、それぞれは、また外部の客体として、つまり直接的で感覚的な具体的なそこにある存在として相手に現れるという意味ももっている。 3) それぞれは、それ自身として絶対的であり、また他者に対するところの個別者であって、そうしてまた、他者に対しても、一個のそのようなものとしてあることを要求し、そうして、そのために一つの独立した(絶対的かつ必然的な)ものとして彼自身の自由を、他者の中において直観すること、あるいは、自身が他者からもそのように認められることを要求する。

※1
Diese Selbstanschauung (この自己直観)は前節の“Es schauet im Andern sich selbst an.”(他者のうちに自己自身を見る)を受けている。ここでの自他の相互認識は意識の段階にあってまだ抽象的である。

※2
ここでのMomentは、FaktorとかUmstandの意で、「水は魚のMomentである」という意味で環境とか境界の意にとった。要素、契機、要因などとも訳される。

※3
自己も他者も、意識として観念的に抽象的に存在するのみではなく、肉体として感覚に捉えることのできる相互に具体的な客体である。

※4
als eines fürsichseienden「一つの独立した(絶対的かつ必然的な)ものとして」と訳した。
 
概念は、「an und für sich」な 存在 (潜在的から顕在的な存在へと、あるいは、無自覚から自覚的な存在へ)として発展するものである。その発展は、絶対的であり、したがって必然的であり、他者に依存しないから独立的である。

「an und für sich」をどう訳すべきか - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/tPnAPg

※5
自己と他者の自己意識はそれぞれとして絶対であり、その自己意識の「Freiheit 自由」は、それ自身においても絶対的であり、また他者からもその自由が認められることを要求するものである。  1) 普遍 →   2) 特殊  →  3) 個別 の進展の論理。

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級 第二段 自己意識 第三十節 [同じ自己意識としての「私」と他者]

2024年03月05日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』 中級 第二段 自意識 第三十節[同じ自己意識としての「私」と他者]

§30

Ein Selbstbewusstsein, das für ein anderes ist, ist nicht als bloßes Objekt für dasselbe, sondern als  sein anderes Selbst. Ich ist keine abstrakte Allgemeinheit, in der als solcher kein Unter­schied oder Bestimmung ist. Indem Ich also dem Ich Gegenstand ist, ist es ihm nach dieser Seite als dasselbe, was es ist. Es schauet im Andern sich selbst an.

第三十節[同じ自己意識としての「私」と他者]

他者に対して存在する一つの自己意識は、他者に対する単なる客体としての自己意識ではなくて、むしろ、自己意識の他のもう一人の自己として 存在している。「私」とは、その中にこうした何の区別も規定もない抽象的な普遍性ではない。「私」は「私」を対象としているのだから、「私」をこの側面から見れば、彼も「私」としてあるところと同じものとして存在している。「私」は他者のうちに自己自身を直観している。

 

※1
「私」も「他者」も、同じ自己意識であることには変わりはない。だから「私」は他者のうちに自己を見ることになる。

 

 

 

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史上最大の問題作!全米大学生の必読書、プラトン『ポリテイア(国家)』とは|納富信留

2024年02月17日 | 哲学一般

史上最大の問題作!全米大学生の必読書、プラトン『ポリテイア(国家)』とは|納富信留

 

たまたま納富信留先生の短い講義を動画で見て、あらためて文庫本の『国家』や『饗宴』を読み直してみたいと思いました。『国家』は危険な本なのでしょうか。しかし、まとまった時間もとれず、いつのことになるやら。ただプラトンの哲学の本質については、私は次のような認識をもっていました。

ちょっと時間にまかせて、私のブログの中で「プラトン」で検索してみると、意外に多くの論考で触れていることがわかりました。

民主主義の概念(1) 多数決原理 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/bzatIz
哲学の仕事 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/QtrzRq
哲学の仕事② - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/v3MXx2
『薔薇の名前』と普遍論争 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/XXPXHK
ヘーゲルのプラトン批判 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/mhqEaV
「汝自身を知れ」(グノーティ・セアウトン) - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/t2bi3Q
国家指導者論 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/RIpauR
『法の哲学』ノート§2 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/LjpzOm
哲学の伝統 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/DPN3Ja
ロゴス(ho logos)・概念・弁証法 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/y1JNgU
8月26日(月)のTW:世界史と理性 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/OlvfsQ
民主主義の人間観と倫理観──皇室と民主主義 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/X5JJLP
2月3日(土)のTW:ソクラテスやプラトンの理解したノモス(nomos) - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/AmumTY
ヘーゲル『哲学入門』第二章 義務と道徳 第七十節[礼節について] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/xmd6iP

これはヘーゲル哲学がプラトンからの深い影響の上に立っているせいかもしれません。

 

 

 

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保守自由党と民主国民党による日本政治

2024年02月05日 | 国家論

 

保守自由党と民主国民党による日本政治


きのうの私のブログを見ると、このブログを立ち上げてまだまもない二〇〇五年の九月ごろに書いた『自由と民主政治の概念』という論考が「このブログの人気記事?」の筆頭に上がっていました。 ── その記事を書いてから早いもので、すでに二〇年近くも経過していることになります。

 ──その当時から現在の日本の政党政治の現実を見ても、現況はさらに悪化しており、その停滞と混沌ぶりは目に余るものとなっています。年明けてまもなく、清和政策研究会(旧安倍派)や二階派、さらに現在の岸田首相の総裁派閥である岸田派などの自民党のパーティー券収入にかかわる政治資金規正法違反があり、旧安倍派などにあっては、西村氏や 世耕氏などの幹部クラスが検察の槍玉に挙げられて政治生命すら失いつつあるような状況にあります。

その一方、日本を取り巻く今の国際環境は、ロシアのウクライナ侵略やイスラエル・ハマス戦争、さらに軍事的に脅威を増しつつある台湾有事の懸念など、日本のおかれた国際的な環境は、軍事的にも片時も揺るがせにできない緊迫した中にあります。また、日本の国内状況を見ても、令和六年の正月すぐに能登地方を襲った大地震など、その支援体制と復興に一刻を争う中で、緊急を要する国内行政でも効率的で迅速的な有効な諸政策が講じられていません。国内政治も外交も混迷を深めるばかりに見えます。これでは国民に安定した福祉と幸福な日常生活は望むべくもありません。現在の日本の政党政治の改革をなんとしてでもやり遂げて行かなければなりません。

 20年ほど前に書いた「自由と民主政治の概念」という私の論考においては、日本の政党政治が、基本的には自由党と民主党の二大政党によって担われていくことを主張したものですが、それは二〇年近くも経過した今もなお実現されていないのは、我が国の現在の政党政治の現実に見る通りです。この堕落した無能力の政党政治を改革しなければ、国民の生活もさらに劣化していくばかりで、また軍事国防においても外国からの侵略から国家主権と国民生活を守り切ることさえもできないと思われます。

まず、根本的に重要なことは、政治家たちも国民一人ひとりも、日本国の国家理念を、「自由にして民主的な独立した立憲君主国家、日本」を国家理念として、国家目的として自覚して、必要とあればそれに命をかけても追求していくことだろうと思います。

この国家理念の追求は具体的には、自由の実現は「保守自由党」の手で、また、民主的な国家社会の形成は「民主国民党」にそれぞれ中心的に担わせ、この国家目的を、この二つの国民政党によって追求し実現していくのが理想的です。その一方で、日本国民の一人ひとりが、我が国の政党政治の中から「全体主義的な政党」や「カルト政党」といった性格をもつ政党を排除していくこと、そうした見識をもって行動していくことです。そうして国民の一人ひとりの生活の安定と幸福に直結する日本の政党政治の改革につなげて行くことです。

 

自由と民主政治の概念 - 作雨作晴 https://tinyurl.com/28435ams

日本国の「国家理念」の定式化とその意義について - 夕暮れのフクロウ https://tinyurl.com/25bdu6pm

民主主義の概念(2)  兵役の義務 - 夕暮れのフクロウ https://tinyurl.com/29bmuz5h

§280 Zusatz.[君主と完成された国家組織体] - 夕暮れのフクロウ https://tinyurl.com/22qjuqx9

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識  第二十九節 [主と僕]

2024年02月01日 | ヘーゲル『哲学入門』

 

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自意識  第二十九節[主と僕]

B. Herrschaft und Knechtschaft(※1)

§29

Der Begriff des Selbstbewusstseins als eines Subjekts, das zu­gleich objektiv ist, gibt das Verhältnis, dass für das Selbstbewusstsein ein anderes Selbstbewusstsein ist.(※2)

B. 主であることとしもべであること

第二十九節[主と僕]

同時に客体的でもある一つの主体としての自己意識という概念は、その自己意識に対して他の自己意識が存在するという関係におかれる。

 

※1
自己意識の概念の進展において、まず欲望において客体的でもありかつ主体である個人(前節)に自己意識が確立されるが、この自己意識の対象は、単なる物からつづいて他の自己意識へと向き合うことになる。その関係性は、さしあたっては「主であることとしもべであること」(Herrschaft und Knechtschaft)である。

金子武蔵氏は「主であることと奴であること」と訳し(岩波版『精神の現象学』)牧野紀之氏は「主人であることと召使であること」(鶏鳴出版『精神現象学』)、武市健人氏は「支配と隷属」(岩波文庫『哲学入門』)とそれぞれ訳している。

 Herr
主、主人、主君、殿
Herrschaft 
支配、主権、領土
Knecht
僕しもべ、使用人、召し使い、奴隷、 従者、下僕
 Knechtschaft
隷従、隷属、奴隷制

-schaft 接尾辞
 名詞・形容詞・動詞などにつけて、性質・状態といった抽象的意味を持つ女性名詞をつくる。
(註解において有用であればドイツ語についても文法的、語学的注釈もしていくつもりです。)

※2
「主であることとしもべであること(Herrschaft und Knechtschaft)」の関係性は、ただ個人の間ばかりとはかぎらない。それは諸動物において典型的に現れ、さらには国家や部族、民族、企業など、意志と欲求とをもつあらゆる主体同士の間にも現れる。たとえば敗戦の結果としてのアメリカと日本。

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識  第二十八節 [欲望の自己感覚]

2024年01月19日 | ヘーゲル『哲学入門』

ヘーゲル『哲学入門』 中級  第二段  自己意識  第二十八節[欲望の自己感覚]

§28

In der Begierde verhält sich das Selbstbewusstsein zu sich als  einzelnes.  Es bezieht sich auf einen selbstlosen Gegenstand, der an und für sich ein anderer, als das Selbstbewusstsein. Dies er­reicht sich daher in seiner Gleichheit mit sich selbst in Rücksicht auf den Gegenstand nur durch Aufhebung desselben. Die Be­gierde ist überhaupt: 1) zerstörend ; 2) in der Befriedigung der­selben kommt es deshalb nur zu dem Selbstgefühl des Fürsichseins des Subjekts als einzelnen(※1), dem unbestimmten Begriff des mit der Objektivität verbundenen Subjekts.(※2)

 

第二十八節[欲望の自己感覚]
  
欲望においては、自己意識は自ら自己に対しては「個別者」としてふるまう。欲望において自己意識は、自己をもたない本来的に他者である対象と、自己意識として関係する。したがって自己意識は自ずから、ただ対象を食い尽くすことのみを通して、対象との関係において自分自身と対象とが同等であることを実現する。

欲望は一般的に
1) 破壊的であり
2)こうして欲望が充足されると、ただ個別者としての主体に、自分自身であるという自己感覚の自覚のみが生じてくるが、その自己感覚は主体と客体とがからまった、あいまいな概念である。

 


※1
 dem Selbstgefühl des Fürsichseins des Subjekts als einzelnen は
直訳すると、「個別的なものとしての主体の自覚的存在の自己感覚へ」となるが、わかりにくい。
とくに、「Fürsichseins」は「自己に向かう存在」だが、この場合の「sich」は「Ich」=「私」「自我」「自分」の代名詞であり、したがって「Fürsich」は「自覚しつつある私、あるいは自覚した私」である。これに対し「Ansich」は「まだ無自覚な私」である。

※2
「私」とは、すなわち「自己意識」のことであるが、この「自己意識」は「欲望」によって、自分自身であるという個別的な独立した意識を確立する。この欲望の対象は、さしあたっては「物」、すなわち「自己をもたない対象」である。それゆえに、この場合に生じる自己感情(感覚)は、主体と客体の境があいまいである。食い尽くされた肉は、自らの身体と区別がつかない。

 

 

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ヘーゲル『哲学入門』中級  第二段  自己意識  第二十七節 [欲望の充足]

2024年01月10日 | ヘーゲル『哲学入門』

ヘーゲル『哲学入門』中級  第二段  自己意識  第二十七節[欲望の充足]

§27

Die Tätigkeit der Begierde hebt also das Anderssein des Ge­genstandes, dessen Bestehen überhaupt auf und vereinigt ihn mit dem Subjekt, wodurch die  Begierde befriedigt  ist. Diese ist sonach bedingt: 1) durch einen äußeren, gegen sie gleichgültig bestehenden Gegenstand oder durch das Bewusstsein; 2) ihre Tätigkeit bringt die Befriedigung nur durch Aufheben des Ge­genstandes hervor. Das Selbstbewusstsein kommt daher nur zu seinem  Selbstgefühl. (※1)


第二十七節[欲望の充足] 
  
欲望の活動は、したがって、対象の他者性を、対象の存在一般を廃止し、そうして対象と主体とを一体化する。こうして 欲望が満たされる。欲望の充足は、だから次の条件を必要としている。
 1) 欲望とは無関係に存在する外部の対象によって、もしくは、意識を通して、
 2) 欲望の活動は、ただ対象を手に入れることによってのみ充足感をもたらす。
自己意識は、したがって、ただその 自己感情 にのみ帰着する。

 

※1
前節の§26によって明らかにされた「衝動」は必ずしもそこに意識は介在しなかったが、本節§27で説明されているように、「欲望が充足」するための条件としては、まず外部に他者性をもった対象が存在すること、そして、それを意識していること、次に、その外部の対象を手に入れ、また食い尽くすこと、それによって意識の主体と一体化することである。こうして自己意識は欲望充足の自己感情に行き着く。

 

 

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明けましておめでとうございます

2024年01月04日 | 日記・紀行

 

2024(令和6)年01月04日(木)雨のち晴

あけましておめでとうございます
本年もどうぞよろしくお願いいたします

 

 

※追記20240120

龍字賛
無学絶宗

無学絶宗(一七〇九~九五)は、江戸中期の曹洞宗の禅僧。華厳曹海の法を嗣ぐ。諸師に参学し、その数一五三人といい、歴住地は越前の永建寺をはじめ一〇ヶ寺に及んだ。
 本資料は、「龍」の字を大書した墨蹟。永建寺の歴代記である『曹紹山歴住伝燈録』に、「常採毫書龍字、道俗尊信多(常に毫を採り龍字を書す、道俗の尊信多し)」と記されるほど、絶宗は龍字を好んで書した。
詳細
 • タイトル: 龍字賛
 • 作成者: 無学絶宗
 • 実際のサイズ: 総丈H135.5×W72.1本紙H40.0×W55.0
 • 媒体/技法: 紙本墨書


龍字賛 - 無学絶宗 — Google Arts & Culture https://is.gd/lZtbKT

 

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ヘーゲル『哲学入門』中級  第二段  自意識  第二十六節[衝動]

2023年12月22日 | ヘーゲル『哲学入門』

ヘーゲル『哲学入門』中級  第二段  自意識  第二十六節[衝動]

§26

Dies Gefühl seines Andersseins widerspricht seiner Gleichheit mit sich selbst.(※1) Die  gefühlte Notwendigkeit,  diesen Gegensatz aufzuheben, ist der  Trieb. Die Negation oder das Anderssein stellt sich ihm als Bewusstsein, als ein äußerliches, von ihm ver­schiedenes Ding dar, das aber durch das Selbstbewusstsein be­stimmt ist: 1) als ein dem Trieb  gemäßes  und 2) als ein  an sich Negatives,  dessen Bestehen von dem Selbst aufzuheben und in die Gleichheit mit ihm zu setzen ist.

第二十六節[衝動]

(自意識の)他者性のこの感情は、意識の自分自身との同一性に矛盾している。この矛盾を解消しようとする 感じられた必然性  衝動 である。否定もしくは他者は、意識として、一個の外的なものとして、自分とは異なる物として現れてくるが、しかし、それは自意識によって規定されているものである。
 1) 衝動に相応するも のとして、そして
2)それ自体否定的なもの として、その存在は自意識自身によって解消せられ、そうして、自己に一致したものとされる。


※1
欲望とは「感じられた矛盾」である。
自意識の中に生まれる他者、外的なものは、自己の本来的な同一性に、アイデンティティに反する矛盾するものであるから、自意識はそれを解消して、同一性を、アイデンティティを回復しようとする。それが衝動である。

(自意識内の他者性や異物を排除しようとする衝動、これが民族的な規模で起きたものがイスラエルとハマスなどの異民族間で起きている抗争である。だからお互いに破滅したくなければ、それぞれの国内で過激派を抑制して二つの国家を別個に形成し、平和を確立して共存の関係を作り上げるしかない。移民問題などもこうして必然的に発生する。)

 

 

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