毒の効かない人っているらしい!

逆に、ちょっとの毒物で効き目がすごく出る人も、

いるらしい、これが・・

 

「個人差」って言葉で片付けられてしまうけれども、

いちおう毒の効き目には安全基準が定められている。

計算ではじき出した平均値だというのですが、

平均値どおりの反応する人間なんか、じっさいは、いませんよと、

この専門家は鋭く述べている。

しろうとは単純に安全基準が守られてたら大丈夫って思う。

だって「安全基準」って言葉のイメージ・・

安全なんでしょ? その基準で安全が保証されるってことでしょ?

え? じっさいは、そうじゃない?

ええ~じゃなんで「安全基準値」って出してあるの?

形式ですか?

安全基準値という形式を踏めば、

あとは被害者が出ようと関連はほぼ認められない・・

そりゃもうまれな特異体質、過敏すぎる方だったんでしょう・・

悲劇を予測できなかったの当然だから、だれにも責任ないです、

ご愁傷さまってわけね・・よくある話よ。

 

毒物を「薬」という言葉に置き換えても同じですって・・?

このテキストによれば「毒は薬。薬は毒」。

使わないがいいですよ~って。

 

20世紀の化学物資−人間が造り出した"毒物“−」

常石敬一著1999年から引用
p.8
人間の身体は外から何かが入ってきた場合、

それを分解して吸収しようとします。
入ってきた有害物質がこの過程で分解され、

無害なものとなることもあります。
また、全く分解できず、

完全な異物として身体の外に排出してしまう場合もあります。

分解できずに排出されるはずのものでも、

その量が多すぎれば身体の中の予想外の場所にたまってしまうこともあります。
水道水など毎日取るものの中の化学物質などの許容量は、

身体が一日に分解できる量、あるいは一日で排泄できる量が基準です。

許容量というのは平均値で、個人差があり、

人によってはそれ以上の量を摂っても健康に影響のない人もいれば、

それ以下の量でも健康被害の出る人もいます。

許容量を超えて化学物質を摂ると中毒となります。

・・・許容量は平均値であって、実際は一人ひとりその許容量は違います。
いわゆる公害の場合、

・・・公害被害なのかそうでないのかの判定が争点となる・・
引用終わり」


公害を薬害と言い換えても同じ。原因はどちらも化学物質。

化学物質が、場合によって、

「汚染物質」「薬」「毒物」「危険物質」「異物」とコロコロ変わる。

「引用始め p.82
同じ病原体に対して極めて弱いヒトと、

極めて強いヒトがいるのが普通です。
それは毒物についても同じです。
・・・一般的な人々が発病する場合の目安となる数値が得られるということになります。
しかし本当のところ、

一般的な人々というのが現実に存在するのかどうかは分かりません。

・・・一八八三年にR・コッホが、

エジプトでのコレラ流行に際して分離し、

さらに増やすことに成功した菌を、・・・コレラの原因だと発表し・・

コレラ菌を摂取しない限りコレラに侵されず、

コレラが繁殖するのは人の腹の中か、

極めて不潔な水の中だけだ、と宣言しました。
ペッテンコーフェルはこの結論を信用せず、

コッホに彼が培養した毒性のあるコレラ菌を試験管一本分送ってもらい、

送られた全量を自ら飲んで見せました。
そのときのコレラ菌の量は千人程度を感染させるのに十分なものだったと言われています。
数にして何十億個のコレラ菌です。
ところが彼は発病しなかったのです。
ベルリンからミュンヘンに送る途中でコレラ菌の多くが傷んでしまった、

という可能性もあります。
もうひとつは、彼は胃液ーこの主成分は塩酸ですがーの分泌が多く、

それによってコレラ菌の多くが56されたという可能性もないわけではない・・・
引用おわり」

病気から逃げるという発想。
病気を打ち負かすという発想。
どちらの方針も一理あると思われますが、

欲張って2つ同時に実行するってことは事実上不可能。
病気を恐れ、病気から逃げる心もまた、

身体の免疫力を弱らせるからです。
そして、免疫力というのは、

さまざまな微生物にさらされる生活環境の中で、

必要に応じて養われ、必要に応じて更新される。

さらされてなければ必要ないのだから免疫力は働かず、退化する。


この注射液を注入するだけで、

①病気にかからない、②病気にかかっても軽く済む、

③そして周囲に病気をまき散らさない、

と一石三鳥のメリットを宣伝されてたけれど、

デメリットは未だ不明とされたまま、肝心の注射の評価は謎。
表面の現象だけ見ていると、

よかった・わるかったと、水かけ論のようなことになっている。
目に見えない本質のところは、

それぞれの目に映るもの以上でも、以下でもなくて、

互いに照らし合わせて答え合わせするってわけにもいかない。

社会の合意を得るってのは、相当むずかしい話・・
薬害の認定を受ける道のりは、いばらの道だということ、

これは心に深くきざんでおく必要ある。
薬が毒として作用したと主張しても、作用そのものは目に見えない。

個人差も大きく、症状の出方も千差万別で、
結果、周囲が見れば、
「まだ科学では不明な領域」の、激しい水かけ・・
互いの立場で水のかけあい、
裁判官というレフェリー役が、

水のかけ方が上手だったほうに、軍配を上げる。
自分に軍配が上がるまで、ずっと水をかけ続けなければ、勝ちはない。
いったんもつれたら、どれだけの骨折りか・・
国が相手、大企業が相手ともなれば、水かけ人夫の体格も数も、段違い・・

こんな空想することがある。
テレビが打て打てと朝から晩まで叫び続けて、

政治家が打て打てと発言しまくって、

それでいて、相手にする国民が一人もおらず、
「またテレビがバカなこと言いよる(笑)」
「また政治家たちが熱心にあおりよる(笑)」
とヘラヘラ笑って眺めてる国民たち。
そんな情景を私は想像します。

「信じてたのにくやしい、裏切られた」だなんて、

まじめすぎる声は耳に突き刺さって痛すぎる。