第52章 平成19年 塩原温泉行き高速バスと東武・野岩鉄道快速で関東北縁の山中をさまよう | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:高速バス「もみじ」号、路線バス塩原温泉-上三依塩原駅線、東武鉄道・野岩鉄道直通快速電車】

 

 

平成19年2月の日曜日の朝、塩原温泉行き高速バス「もみじ」号は、穴蔵のような新宿駅南口バスターミナルを定刻9時20分に発車した。


バスタ新宿が完成する8年前の話である。

高島屋タイムズスクェアと線路に挟まれた狭い通路を、身を細めるようにすり抜けたバスは、千駄ケ谷五丁目の三叉路で明治通りに出た。 


続いて新宿四丁目交差点で甲州街道に右折し、御苑トンネルを抜けて四谷、麹町、半蔵門と進み、皇居に突き当たると反時計回りに内堀に沿って半周、数寄屋橋交差点で外堀通りに左折すれば、次の停車場所の東京駅八重洲南口のバスターミナルである。

こちらも、平成25年に新しく拡張される前で、昭和44年に開設されて以来の面影を残す手狭な敷地の時代だった。

首都圏新都市鉄道「つくばエクスプレス」が開業して1年半が経過していたが、守谷、水海道、岩井、つくばセンター、筑波山などといった「常磐高速バス」もある程度の運行本数が残っていて、「東名ハイウェイバス」や東関東自動車道方面の路線の利用客で、乗り場は混雑していた。

 

 

新宿駅からの乗車は数名であったが、東京駅では20名近くがどやどやと乗り込んできた。

数人が連れ立っての観光客が多く、1人旅は僕くらいである。

観光路線なのだな、と思う。

いっぺんに車内が賑やかになったので、新宿駅より乗り換えが便利だとしても、ここの集客力は凄いものだと感心した。

 

新宿駅南口で「もみじ」号と一緒に改札をしていた草津温泉行き高速バス「上州湯けむり」号が、新宿だけを起終点にしているにも関わらず、「もみじ」号より乗車の列が長かった光景を思い出す。

新宿から乗車した者にしてみれば、東京駅は回り道でしかない。

平成2年に新宿駅南口バスターミナルが開設されてから、佐野、宇都宮、福島、会津若松、仙台方面へ、東北自動車道を経由する高速バス路線が次々に開業し、新宿から明治通りと環状七号線を経て、首都高速道路川口線の鹿浜橋ランプに至る道筋は、僕にとっても馴染みになっていた。

 

 

「もみじ」号も新宿だけに停まれば充分ではないか、「上州湯けむり」号のように皆が新宿から乗車すれば東京駅に立ち寄る必要はないのに、と不遜な考えが浮かぶ。

 

目的地との流動が大して見込めなかったり、競合路線の多い高速バス路線は、しばしば都心で複数のバスターミナルを経由する傾向が見受けられる。

まして、東京駅は「もみじ」号を運行するJRバス関東にとって伝統的な拠点であるから、無視する訳にはいかないのだろう。

 

 

「もみじ」号の開業は、新宿を発着する東北道方面路線の中では比較的遅く、平成12年に1日2往復の東京駅-塩原温泉と1往復の東京駅-那須塩原温泉駅の会員制バスとして運行を開始したことに始まる。

同じ年に起終点を新宿へ移し、那須塩原駅系統は西那須野駅発着になって、平成13年に定期化の上、新宿-塩原温泉間は1日3往復に増便、新宿-西那須野駅間は1往復で据え置かれ、平成14年に1日2往復の新宿-那須温泉間の系統が新設された。

 

その後、元祖である塩原温泉系統は減便されて、平成16年に塩原温泉系統2往復、那須温泉系統4往復、西那須野駅系統1往復の計7往復が運行され、平成17年に西那須野駅系統が大田原・国際医療福祉大学まで延伸された。

平成18年に塩原温泉系統が1往復まで減便され、那須温泉系統は1日6往復に増便している。

 

 

西那須野系統がかろうじて東京と那須塩原市の都市間輸送を担っているとは言え、「もみじ」号は観光客が目当ての路線であり、都内での集客が路線の成績を決する。

新宿駅と東京駅に寄るのはもどかしいけれども、せっかく開業した路線が廃止されては元も子もないので、黙って我慢するしかない。

 

「もみじ」号とは良い愛称だったと思うのだが、あまりにも普遍的な一般名詞であり、路線のイメージがつきにくいと判断されたのか、後に「那須・塩原」号と平凡な愛称に変わってしまう。

東京駅経由を取り止めて新宿だけの発着になったのは、平成21年のことである。

 

今回の旅で、どうして那須温泉系統ではなく、塩原温泉系統を選んだのか、その理由は覚えていない。

 

那須温泉には、職場の旅行で1泊したことがあった。

開湯が7世紀の飛鳥時代と伝えられる「那須七湯」のうち、最も奥まっている北温泉で、余笹川の渓流のほとりに建つ古色蒼然とした宿と、飾り気のないコンクリートの枠に囲まれた露天風呂の対照が、強く印象に残っている。

安政時代に建てられたという木造家屋に、明治、昭和期の増改築が加わった屋内に足を踏み入れると、玄関に薪ストーブが置かれていたり、帳場が江戸時代の商家のようだったり、客室の間取りが、旅館と言うより小料理屋の個室のように明けっ広げで、江戸時代に時間旅行した気分になった。

1泊につき5000円程度、4泊以上になれば1泊500円という宿泊料金も、自炊しながら長期の湯治に利用されてきた温泉宿らしい。

 

 

日が暮れてからプールのような露天風呂に入ってみれば、藻が浮かんでいたり、濁ったお湯の中に何かしらの水棲動物が住んでいるのではないかと心配したり、若干の勇気が必要だったものの、

 

「本を何冊か持ち込んで、1週間くらいここでのんびりしてみたいなあ」

 

と職場の先輩がしみじみと呟いたように、不思議な落ち着きが感じられる温泉宿で、あちこちに出掛けた年1回の職場旅行の中でも、ひときわ味わい深い一夜になったのである。

 

今回の「もみじ」号の旅程は日帰りで組んであるので、北温泉に宿泊する訳にはいかず、それならば訪れたことのある那須温泉よりも、未訪の塩原温泉に足跡を記してみよう、と考えたのだろうか。

今のうちに、減便を繰り返している塩原温泉系統に乗っておかないと、廃止されてしまうかもしれない、と案じたことも一因かもしれない。

 

 

時刻表通りの10時きっかりに東京駅を後にした「もみじ」号は、八重洲通りから首都高速都心環状線宝町ランプの狭嗌な進入路を巧みに通り抜け、下町の頭上を飛び越えていく首都高速6号向島線で隅田川流域から荒川流域に渡り、堀切JCTで首都高速中央環状線、江北JCTで首都高速川口線へと順調に歩を進める。

 

日曜日であるから、首都高速はそれほど渋滞していなかった。

鹿浜橋ランプで環状七号線と立体交差したのは10時20分を過ぎた頃で、新宿を発ってからおよそ1時間が経過していた。

新宿から鹿浜橋まで直行してもおよそ15km、50分から1時間を費やすので、東京駅に寄った割には案外早いものだな、と思う。

 

川口JCTで東北道に乗り入れ、広大な関東平野を気持ちよく快走した「もみじ」号は、冷たい風が吹きすさぶ羽生PAでしばしの休憩をとってから、右手を八溝山地、左手を日光連山に挟まれた細長い平地に入って行く。

色褪せた山並みの奥に顔を出している冠雪した峰々は、越後山地に連なる帝釈山地の荒海山や七ヶ岳であろうか。

ならば、福島県との境はすぐそこであり、みちのくの玄関先まで北上して来たことになる。

 

 

川口JCTから約140kmを走破し、西那須野塩原ICで高速道路を降りた「もみじ」号は、ホウライ、千本松駐車場、下田野、アグリパル塩原、もみじ谷大吊橋、塩原大網、福渡口、塩原福渡、七ツ岩吊橋、塩原塩釜、塩原畑下、塩原門前と小まめに停車しながら、国道400号線を使って塩原温泉へ向かう。

 

車内に流れる案内放送で、

 

『次はホウライに停まります。お降りになるお客様は降車ボタンでお知らせ下さい』

 

などと、固有名詞の停留所名を聞いても、自分が何処にいるのかさっぱり見当がつかない。

大阪の有名な豚まんの店を思い浮かべたりする。

 

もともと那須塩原地域の地理に詳しい訳ではないのだが、スマホで調べてみれば、「ホウライ」は千本松牧場やゴルフ場を営む事業者であり、「アグリパル塩原」は、「もみじ」号が走る国道400号線に置かれた道の駅である。

 

 

関東平野の北端に位置し、那珂川や箒川、蛇尾川が開いた扇状地に形成された那須塩原市域は、江戸時代まで「手にすくう水も無し」と言われた、不毛の那須野が原であった。

「もみじ」号のバス停にも使われている「千本松」の地名は、乾いた瘦せ地に強い赤松が密集して生い繁っていたことからつけられたと言われている。

 

明治16年に日本鉄道(現・東北本線)が開通し、明治18年に那須疏水が整備されると、別の土地に生まれ変わったかのように矢継早の開拓が進められた。

生乳の生産高が北海道に次いで我が国第2位を誇る酪農業や、軍馬、使役馬、競走馬の産地として、また米や牧畜用飼料の収穫が盛んな農業地域として、更に近年は数多くの工業団地が造成された栃木県でも有数の都市であることは、耳にしたことがあった。

 

市街地は東北新幹線那須塩原駅や東北本線西那須野駅の近辺に集中し、東北道は市街地の北西部の外れを貫いているため、「もみじ」号が担っているのはあくまでも郊外輸送、もしくは1200年以上の歴史を誇る塩原温泉郷への直通輸送である。

 

 

東北道を離れてからは、これと言って目ぼしい光景が目に入る訳でもなく、どの停留所に停車しても、駐車場に自家用車がぎっしりとひしめき、観光客がたむろしているだけの取り留めもない車窓が繰り返され、休日の観光地にやって来たのだな、という漠然とした感慨しか頭に浮かんで来ない。

真冬であるから、赤松以外は、すっかり葉が落ちて裸の木立ちばかりが目につくけれども、枝の合間から容赦なく射し込んで来る陽の光が、無闇に眩しい。

 

アグリパル塩原は、「もみじ」号の塩原温泉系統と那須温泉系統の双方が立ち寄る最後の停留所で、那須温泉系統は、県道30号線を20kmほど北東に進んで、那須温泉郷に向かう。

 

 

僕が乗る塩原温泉系統は、雑然とした印象だけを残した平野部に別れを告げ、箒川の渓流に沿って、山々の懐に分け入って行く。

斜面のところどころで、箒川に流れ込む支流が大小の滝になって流れ落ちている。

 

塩原ダムのダム湖に架けられたもみじ谷大吊橋の前後では、道路の両側に鬱蒼と木々が生い繁り、それまでの乾いた車窓が嘘のような九十九折りの山道になる。

山肌を覆っているのは平地と同じく落葉樹が多く、暖房が効いた車内にいながら、襟元を掻き合わせたくなるような寒々とした車窓だった。

枯れ木のようであっても、延びている枝に視界を遮られて、箒川もダム湖もなかなか目にすることは出来ない。

時折、左側に渓谷が顔を覗かせると、川面が遥か下方に遠ざかっていて、バスに乗っていても足がすくむ。

 

 

七ッ岩吊橋では、河原に延びる吊り橋の袂に足湯があり、思わず途中下車して暖まりたくなった。

地図を見る限り、山の麓が終点の「もみじ」号那須温泉系統より、格段に面白そうな道行きである。

経路で決めた訳ではないけれど、塩原温泉系統を選んで良かったと思う。

 

福渡橋で箒川を渡ると、山並みが少しだけ左右に後退して、河岸段丘のような平地が現れ、温泉宿の看板を掲げた建物がぽつりぽつりと姿を現し始めた。

「もみじ」号は、大網、福渡、塩釜、塩の湯、畑下、門前、古町、中塩原、上塩原、新湯、元湯温泉から成る塩原十一湯のうち、大網、福渡、塩釜、畑下、門前の5つの温泉街を通り抜けながら、次々と客を下ろしていく。

 

 

田山花袋は、著書「日光」の冒頭で、

 

『野州はすぐれた山水の美を鍾めてゐるので聞えてゐる。水石の美しいので聞えてゐる。深い溪谷の多いので聞えてゐる。雲煙の多いので聞えてゐる。

中でも、日光の山水を持つた大谷川の谷と鹽原の勝を持つた箒川の谷とが一番世に知られてゐる。しかし、この他に鬼怒川の大きな溪谷のあることを忘れてはならない。

 

しかし、何と言つても一番すぐれてゐるのは大谷の峽谷だ。電車が通じ、凉傘が日に照り、都會の人々を乘せた籠や車が絶えずその谷の岸を通つて行くので、頗る俗化されて了つたやうなところはあるけれども、それでも山の深いために持つた男性的の烈しい氣分は、決してその峽谷を全く平凡化しては了はなかつた。風は凄じく鳴つた。溪は凄じく怒號した。雲霧は時の間に咫尺を辯ぜぬばかりに襲つて來た。一度洪水が出れば、その凄じい烈しい濁流は例の朱塗の橋をも呑まんばかりの勢を呈した。

それにその持つた輻射谷にもすぐれた谷が多かつた。般若方等の谷、荒澤の谷、田母澤の谷、すべて美しいシインを到る處に開いた。瀧の多いのも無論その峽谷の色彩を複雜にしてゐるが、それよりも何よりも水の美しいのが好かつた。深澤の溪橋あたりの水の美しさは、他の溪谷にはとても見ることの出來ないものであつた。瀞潭の美は紀州の北山川にある。奔瀬の美は肥後の玖磨川にある。しかし瀬の水の美しさは實にこの大谷の峽谷を以て最とした。

 

水の美しさは、鹽原の谷も多くこれに讓らない。入勝橋から福渡戸に行くあたりは、殊にすぐれてゐる。

しかし、箒川の谷は何方かと言へば女性的である。奔湍急瀬の壯よりも、寧ろ清淺晶玉の美である。山にも大谷の峽谷に見るやうな烈しい強い男性的の氣分を持つてゐない。線からして既に柔かで瀟洒である。しかしこの谷には大谷の谷にない温泉が處々に湧出した』

 

と、箒川を大谷川と並べて取り上げている。

入勝橋は、先程「もみじ」号が通ってきた塩原ダムの近くのバス停の名であるが、車内からは、橋が現存するのかしないのかすら判然としなかった。

 

 

塩原温泉に向かう道筋の描写で圧巻なのは、畑下温泉の清琴楼で起草されたという尾崎紅葉の小説「金色夜叉」の一節であろう。

 

『車は馳せ、景は移り、境は転じ、客は改まれど、貫一は易らざる其の悒鬱を抱きて、遣る方無き五時間の独に倦み憊れつゝ、始て西那須野の駅に下車せり。

直に西北に向ひて、今尚茫々たる古の那須野原に入れば、天は濶く、地は遐に、唯平蕪の迷ひ、断雲の飛ぶのみにして、三里の坦途、一帯の重巒、塩原は其処ぞと見えて、行くほどに跡は窮らず、漸く千本松を過ぎ、進みて関谷村に到れば、人家の尽る処に淙々の響有りて、これに架かれるを入勝橋と為す』

 

主人公の間貫一が西那須野駅から塩原温泉に向かう、三島由紀夫が絶賛した名文にも、入勝橋が登場する。

 

 

「金色夜叉」と言えば、許婚の宮を銀行頭取の息子に奪われた寛一が、

 

『吁、宮さんかうして2人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。1月の17日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処でこの月を見るのだか! 再来年の今月今夜……10年後の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、1月の17日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ』

 

と悲憤した熱海の海岸を思い浮かべる人が多いのかもしれない。

 

その後、寛一が所用で塩原温泉へ出向き、奇しくも宮を奪った男に捨てられた女が、同じ宿で心中しようとしているのを救ったことで、かつての許嫁が置かれている不幸な状況に思い当たるのは、熱海と並ぶ「金色夜叉」後半の山場だった。

自分の美貌に傲り、金に憧れ、寛一をいったんは捨てた宮であったが、心の飢えは満たされず、貫一の恨みを解くために今の境遇を捨てようと、思いの丈を訴えた手紙をしたためる。

貫一も、親友から宮の心情を伝えられ、夢の中で赦しの言葉を口にする場面で、「金色夜叉」は未完のまま幕を閉じる。

 

 

あちこちで客を降ろして、車内が少しばかり閑散とした「もみじ」号が、塩原温泉郷で最も温泉宿が多い古町温泉のバスターミナルに到着したのは、午後1時近くであった。

新宿から3時間半のささやかなバス旅で、若干乗り足りない気分ではあったが、西那須野駅まで5時間を費やし、更に3里の山道に分け行った「金色夜叉」の時代に比べれば、隔世の感がある。

 

塩原温泉バスターミナルは、昭和12年に国鉄のバス駅として設けられ、古びたトタンの三角屋根に覆われている。

かつては、東武鉄道の鬼怒川温泉駅を行き来する路線バスも運行されていたらしく、それらしき路線図も赤錆びた看板に残されているが、今は、那須塩原駅と西那須野駅を行き来するJRバス関東の「塩原本線」と、那須塩原市の委託を受けて野岩鉄道上三依塩原温泉口駅まで運行するコミュニティバスの「ユーバス」、そして「もみじ」号が乗り入れるだけだった。


 

「もみじ」号塩原温泉系統が減便を繰り返している状況から、もしかすると温泉街が荒廃しているのではないか、と危惧していたのだが、バスターミナルが面した通りを見渡せば、軒を連ねる温泉宿はどれも小綺麗で、遊技場も見受けられ、散策する観光客の姿も少なくない。

かつて高速バスで訪れた鬼怒川温泉のように、潰れたホテルの廃墟が連なる凄惨さとは無縁な様子で、思い過ごしだったか、と胸を撫で下ろした。

 

それならば、どうして塩原温泉系統が那須温泉系統に比して運行本数を減らさなければならないのか、という疑問は残るけれど、那須温泉系統がアグリパル塩原で塩原温泉への路線バスに接続しているので、乗り換えの煩わしさはあっても、便は図られている。

 

 

今回の旅を思い立った時点では、おそらく、路線バスを乗り継いで那須温泉に向かい、「もみじ」号那須温泉系統で帰路につく心積もりだったのかもしれないが、「もみじ」号と並んで、「上三依塩原駅」と行先を掲げた「ユーバス」が待機しているのを目にすると、思わず乗り込んでしまった。

野岩鉄道の駅に抜ける路線バスがあるとは知らなかったので、まさに衝動乗りも極まれり、である。

 

数人の客を乗せた瀟洒な塗装の路線バスは、「もみじ」号の後を受け継ぐように、国道400号線を更に山奥へ登っていく。

途中の案内放送で、元湯温泉口と上塩原の停留所名が聞こえ、「もみじ」号と合わせれば塩原十一湯のうち7つを通ったことになるが、もとよりバスに乗っているだけであるから、湯浴みをした訳ではない。

各地の温泉を訪ねた経験は少なくないけれど、草津でも鬼怒川でも、バス旅の途上で温泉に浸かった経験は1度もなかったな、と苦笑いが浮かんでくる。


 

「もみじ」号より硬い座席に収まり、曲がりくねった山道でも滑らかにバスを操る運転手さんのハンドル捌きに身を任せているうちに、行く手を遮る稜線にトンネルがぽっかりと口を開け、入口に「尾頭隧道」と書かれているのが眼に入った。

 

尾頭の名には、聞き覚えがあった。

「金色夜叉」で、主人公の心を揺り動かす心中未遂の舞台となった塩原温泉であるけれど、実際の心中未遂事件で世間の耳目をさらったことがある。

明治41年に、夏目漱石門下の文士森田草平と、後に「元始、女性は太陽であった」の名言を残した女性運動家になる平塚らいてうが、尾頭峠で心中未遂事件を起こした。

事件を小説化した「煤煙」を発表した森田は作家として名を馳せ、漱石の小説「三四郎」に登場する女性のモデルがらいてうだったとも言われている。

 

尾崎紅葉の死によって「金色夜叉」が未完のまま連載を終了したのが明治35年であるから、「塩原事件」と呼ばれて衆人の関心を集めた事件とは、何の関連もないのだろう。

 

 

厳冬期の尾頭峠で、死に切れずに森田と共に一夜を過ごしたらいてうは、月夜に照らされた氷の山々の景観に感激し、「有頂天な幸福感と満足感」に浸ったと語っている。

「煤煙」では、『だんだん月の光がぼんやりとして、朝の光に変ってゆく』と短く描写されているだけで、らいてうは「名文には違いありますまいが、私のあの夜の感銘からすればあまりに物足らない死文字に思われます」と言ったと聞く。

今回の僕の旅も2月であり、遠くに見える山々はまだらに雪化粧をしているものの、沿道には、日陰に埃まみれの薄汚い雪が残っている程度で、らいてうを感動させた雪景色を想像することは難しい。

 

長さ1782mの尾頭トンネルに続いて、名称の分からないシェルターを潜り抜けたバスは、塩原温泉から20分ほどで、山あいにあっけらかんと開けた平地に飛び出し、野岩鉄道の上三依塩原温泉口駅に到着した。

 

 

野岩、とは聞き慣れない路線名であるが、栃木県の旧国名である下野国と、明治初期における福島県中通りと会津地方の国名であった岩代国から、1文字ずつ貰ったのである。

線区としての歴史は古く、鉄道敷設法で大正11年に今市-田島間の予定路線に指定されたが、着工は昭和41年で、昭和56年に野岩鉄道株式会社が設立され、昭和61年に東武鉄道鬼怒川線の終点である新藤原と、会津鉄道の終点である会津高原駅(現・会津高原尾瀬口駅)との間で、ようやく開業の運びとなったのである。

 

第三セクターではなく、株式会社が未成線を引き受けるとは、珍しい例ではないだろうか。

全線が電化されているため、東武鬼怒川線と直通運転が可能であり、浅草駅から直通電車が運転されている。

 

会津鉄道の前身は大正15年に開通した国鉄会津線で、会津若松駅と2駅離れた西若松駅と、会津滝ノ原駅(後に会津高原駅に改称)を結んでいたが、昭和62年に第三セクターとして生まれ変わった。

当初は全線が非電化であったが、平成2年に会津高原-会津田島間が電化され、東武浅草駅からの直通電車が会津田島まで乗り入れるようになった。

 

 

僕は、野岩鉄道の開業直後に、浅草からの直通電車を会津高原駅で乗り換え、会津鉄道を経て会津若松まで乗り通したことがある(「昭和62年 浅草から会津へ国鉄のない旅~東武鉄道・野岩鉄道直通快速と会津鉄道~」 )。

上三依塩原温泉口駅の次の男鹿高原駅までは栃木県内だが、野岩鉄道の終点の会津高原駅は福島県である。

JR線を使わずに東京から会津まで行けるようになったのか、と驚愕したものだった。

 

野岩鉄道に乗るのは久しぶりだったが、初乗りした時の記憶は、今でもありありと脳裏に浮かぶ。

その時は、途中の上三依塩原温泉口駅のことは気にも留めなかったけれども、塩原温泉を訊ねる旅で野岩鉄道に乗れるとは奇しき縁であり、遠くまで来たのだなあ、と思う。

 

 

閑散とした駅前広場を見下ろすホームに立ち、身を切るような冷たい風に震えていると、浅草行きの快速電車が姿を現した。

 逆方向に向かう列車の方が早ければ、迷わず会津若松に向かっただろうが、僕は大人しく上り列車に乗り込んだ。

時計の針は午後3時になろうとしていて、そろそろ帰らなければならない。

 

大波のように次から次へと押し寄せて来る尾根筋と渓谷を眺めていると、このように人跡稀な土地に鉄道を敷いて、株式会社が成り立つのだろうか、と心配になって来る。

観光客が座席の3分の2程度を占めているので、何とかなるのかな、と思うけれども、野岩鉄道は客が多かろうが少なかろうが関係ありません、と言わんばかりに、峻険な地形をモノともせず、トンネルと橋梁を駆使した贅沢な線形で造られている。

 

建設技術の発達に伴って構造は傲慢なほどに贅沢、乗客数は少ない、というローカル線は、昭和末期以降の我が国によく見受けられるようになった。

需要に見合っていなくても、鉄道が地域開発を目的として敷設されたならば、それで良いのだろう。

 

 

途中駅で、鬼怒川温泉発会津若松行きの下り快速「AIZUマウントエクスプレス」とすれ違った時には、しまった、やっぱり上三依塩原温泉駅で下り列車を待てば良かった、と臍を噛んだ。

「AIZUマウントエクスプレス」には、かつて名古屋鉄道からJR高山線に乗り入れて富山まで運転されていた特急「北アルプス」のキハ8500系が投入されていたのである。

「北アルプス」の運転が終了したのは平成13年のことで、ここで余生を送っていたのか、と思う。

 

 

私鉄が開発した車両を使い、私鉄と国鉄を跨いで運転される珍しい特急列車として、「北アルプス」は、鉄道ファンだった子供の頃からの憧れだったが、乗る機会はなかった。

電化されている東武鉄道や野岩鉄道と、非電化区間を残す会津鉄道を直通する速達列車のために、気動車特急車両を購入した会津鉄道には拍手を惜しまないが、残念なことに、キハ8500系による運転は、3年後の平成22年に終了してしまう。


1回は、東武特急「きぬ」とキハ8500系の「AIZUマウントエクスプレス」を乗り継いで、特急「北アルプス」を偲びながら、浅草から会津若松まで旅してみたかったな、と思う。

 

 

新藤原駅で東武鬼怒川線に乗り入れ、男体山と女峰山を上流に望む大谷川を渡る頃に、窓外はすっかり黄昏に染まっていた。

 

野岩鉄道が計画された当初は、国鉄日光線の今市駅まで線路を伸ばす予定であったが、建設費削減のためなのか、東武鬼怒川線に乗り入れる方針に変更された推移があるらしい。

東武鬼怒川線の終点である新藤原駅について、僕は、長年勘違いをしていた。

特急「きぬ」が、全て手前の鬼怒川公園駅、もしくはもう1つ手前の鬼怒川温泉駅止まりであったことから、てっきり同線の終点は鬼怒川公園駅であり、野岩鉄道の開通に合わせて新藤原駅まで延伸したのだと思い込んでいた。

同線は、下滝水力発電所建設のために、下野軌道が大正6年から同9年にかけて東武新今市駅から藤原駅まで順次建設を進めた鉄道で、昭和18年に東武鉄道に買収され、大正11年に藤原駅が移転したことで新藤原駅を名乗ったという、とても古い終着駅だったのである。

 

 

東武線は何度か乗車した経験があるけれども、いずれも浅草と日光や鬼怒川温泉を行き来する特急電車ばかりだったので、快速の鬼怒川から浅草までは、どのような乗り応えなのだろうと案じていたが、案外短く感じられた。

上三依塩原温泉口からおよそ3時間、快速電車がすっかり暗くなった浅草駅に滑り込んだのは、午後6時になろうかという頃合いであった。

 

新宿を発ってから9時間弱、殆どを車中で過ごしたにも関わらず、それでも乗り足りない気分だったのだろうか。

浅草から大井町まで、混雑している地下鉄や国電で帰るのが億劫に感じられたのかもしれない。

 

あろうことか、僕は浅草から亀有駅に寄り道をして、羽田空港行きのリムジンバスを乗り足してから、自宅に戻ったのである。

 

 

 

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